20.08.11 僕に残らない『残鶯』に
僕がこの部屋に来たのは梅雨の時期だった。
ただよく雨が降っていて蒸し暑く、紫陽花が咲いていたからきっと梅雨の時期なんだろうと思ったんだ。でも、僕には正確なことは分からないない。僕には何もわからない。僕がわかることといえば自分が日本人であること、自然なものが好きであること、にんじんが大嫌いであることだ。僕は何者でここはどこで家族や恋人はいるのか。そういったことは確かに重要なことかもしれないけれど、僕にとってはどうでもいいようなことだった。そんなことよりも、僕は真っ先にこの部屋を気に入ってしまったのだ。
そう思うと、サエキは椅子の柄を強く握った。
この部屋には多くのテーブルと椅子のセットが配置されており、その机の一つ一つには規則正しく花柄のテーブルクロスが敷かれていた。風が僕の頬を撫でる時、同時にクロスは覆る。
開け放された窓からは、風と共に家の壁に這い付いた植物の蔓が這いこんできていた。部屋には大きな窓枠がいくつもあるため、照明がなくとも太陽の暖かな光が部屋の中に差し込み、色濃い植物の影を家の中に招いていた。
サエキは植物の影の動きに合わせて部屋の中を歩いた。太陽は沈み影は歩む。彼はそうした空間の中で部屋の中を時間を引き伸ばすように歩き回った。次第に部屋は薄暗くなり、行き場のない僕の孤独感をより一層濃くさせる。まるで沼地の中で足掻くように心許なかった。それから立ち止まり、窓の外の夕陽と多彩な植物をしばらく見た後に部屋の隅にある薄水色の古い革のソファに座った。ソファはところどころ革が擦れて破けており、どこか年老いた象のようだった。擦り切れたソファの表面を撫でると、さらさらとした音が部屋の中に心地よく響くのだった。
闇雲に過ぎる時間の中で、サエキは母が大切に持っていた絵のことを思い出した。絵には、影生い茂る森に背を向けた少女が、陽に照らされた小道を翔けている様子が描かれていた。その絵を見るたび、サエキは風や葉のさざめく音を聞いた。影を抱えた森からは音を立てて風は去り少女は翔けていった。木々は寂しくて、去っていくものを捕まえるために枝を伸ばしているようだった。
絵は『残鶯』と名付けられていた。母が僕の前から消えた時、この絵も一緒に消えていた。
"扉"は静かに開かれた。
部屋に入ってきたのは、サエキと同い年くらいの20代前半に見える女で、彼を見ると女は扉の前で立ち止まった。
まさかこの家に僕以外の人がいるとは思ってもおらず、僕は驚き、ソファを立とうとしたが彼女がそれを制した。
「座ってて、大丈夫だから」
チェスのコマを置くような、端的な物言いだった。
彼女は僕の前をひらりと過ぎて、僕の隣に浅く腰をかけた。ワンピース越しにわかるほど、彼女はひどく痩せていて、その一連の動作や淡い水色のワンピースにはどこか深海の静かな海月を僕に連想させた。
自然と彼女と向き合う形となり、僕は何故か怯えた。
彼女は両手のひらを膝に重ねて僕をただ見ていた。
僕の方はやはり彼女にただ怯えるだけだった。それでも僕としてはチェックメイトというわけにはいかない。
「ここは君の家?」
「いいえ、違うと思う。"キオク"が曖昧なの。あなたの家でもないみたいね」
彼女の瞳も声色も、大理石みたいに無機質だった。
僕の家でもなければ君の家でもない。僕たちには居場所がないみたいだ。
僕は頷いた。
「僕はサエキ カオル。君は自分の名前を覚えてる?」
「アサギリ ナナ」
彼女は冷静にコマを進める。
「あなたはここで何してるの?」
「ベッドを探してる。ないのかもしれないけどね」
僕たちの居場所は、既に失われているのかもしれない。
「そう。私はシャワーを浴びたいわ。疲れと汚れを落としたいの」
彼女の言葉には、一つ一つに積み上げられた重みを感じた。アサギリは僕から視線を外し、自分の手の平を眺めた。その姿は、随分と疲弊し年老いて見えた。
「僕は日が暮れる前に外へ出てみるよ。ベットもなければシャワーもないだろうけどね」
「私もつれてって」
彼女の瞳からは疲れや悲しみ、苦しみの果てに生じる虚無感を彷彿とさせる、涙のような淡さが滲んでいた。
「いいけど、もう少し僕に優しくしてくれたらね」
僕がいたずらに微笑むと、彼女は嬉しそうに頷いた。その切れ長の美しい目をより細くして。
彼女の笑ったときにできる涙袋や、シワや、細い目はとても魅力的だった。チェックメイト!
*
僕達はもう一度、暖かな夕陽の差し入る窓際へ近ずき、家の周りを眺めた。
家の周りはボロボロの木の柵に囲まれており、柵は家と森の境界線をかろうじて保っていた。その奥には黒々とした森があり、『残鶯』に描かれた木々の枝のように、さざめきながら僕たちを見つめている。家と森を繋ぐ小道には、青く小さな花が慕うように咲いており、花のほとんどはオオイヌノフグリに似ているようだったが、どこか違うようにも感じた。僕にはその植物の名前は分からなかった。
僕達は彼女が出てきた扉を通り外へ出た。開け放たれた柵の扉は微風に揺らされて軋んだ音をたてていた。その音はどこか心を落ち着かせるための、ある種容量を得たもののように感じた。
ここには確かに風があり、またそれを生み出すものがあり、その風の影響を受けるものがちゃんと存在するのだ。
僕は自然と柵の外へ向けて歩みを進めたが、後ろにいたアサギリに手を引っ張られた。アサギリの手は小刻みに震えていた。
「柵の外には行きたくないわ。正確に言えば、私には行く権利がないように思う。柵の中だけにしてくれない?」
彼女は僕から目をそらし、森の方を虚に眺めてそう言った。
「よく分からないな。君はなにに怯えてるの?」
藍色の夜は森の奥から浸食を始め、森と空の間には温もりのある橙色が少しずつ塗りつぶされていた。
「私にも分からないの。それでも私はそっちには行きたくない。"柵の外から内に行くこと"そして、"暗く複雑な森の中"に、私は長くいれないわ。早く、戻りましょう」
アサギリの呼吸は荒く歯を食いしばっていた。薄い唇の端には血が滲んでいた。
母はどうして僕たちから、森から、いなくなってしまったのだろう?
「わかったよ。家の裏に庭があったから、そっちに行ってみよう。だから怯えないで。僕は構わないから」
どうして僕まで、こんなに震えているの?
裏には庭があり、庭には『残鶯』があり、絵には母がいた。朝霧 無々(アサギリ ナナ)には僕がいて、僕には森がある。森は母を求めて、僕は朝霧 無々を求めた。誰もが離れて、僕はどこかでそれを望み、僕の望みは叶えられ、僕は絶望する。絶望を求めていたとも言える。僕は絶望を求め、彼女は希望に翔て行く。それが美しいから、僕は手を伸ばし、手に入れれば闇の中に引きずり込む。そこに悪意はないんだ。チェスの駒はカタリと音を立てて攻め立てて、夜の闇は橙色を藍色の美しき世界に導いて、柵は僕を羊のように取り囲み、彼女を奴隷のように束縛する。あらゆるメタファーが僕達を代弁してこの世界を支えた。僕達は身を委ねるところから始めた。開かれた「扉」は今でも開かれたままで、まだこの想いの案内を僕達に求めているようでもあった。
もう僕に、何かを求めないでくれよ。
佐伯 馨は柵を出て、朝霧 無々は涙を流して家の中へ翔けて行く。