第9章 未知の嵐
晴れがしばらく続いたので、まとまった雨が降り始めた。
それも、嵐と呼べるほどの。
店の窓から見える林や草花が、吹き荒れる風雨に信じられないほど大きく揺れている。
テラスの日除けも余りにもバタついて、今にも破れそうなので巻き上げた。
そのせいで、ハッキリと見えるくらい大きな雨粒が窓を叩き、その音が激しい。
二階やその他の窓は雨戸を閉めた。
いつものように白いブラウスに、黒のエプロンをした希美が、店内から外を見つめている。
その表情には、戸惑いの色が見て取れた。
「どうしたの?」
「あ、いや。……すごい雨だね」
「まあ、しばらく降ってなかったからね」
「……嵐になるなんて……」
希美は少し上の空でつぶやいた。
「予知?」
希美は少しハッとして振り向いた。
「あ、まあ、そんなとこ……」
「今日『降るとは思えなかった』という、感じ?」
「……うん。そんな感じかな」
「そっか」
山の天気は変わりやすい。
私はガラス窓に手を当て、雨粒のはじくリズムを感じた。
かなりバチバチと感じる。
「何か不安感はある?」
希美は少し考え込んだ。
「わからない……」
そう言って、希美もガラス窓に手を触れた。
そして、もう一度つぶやいた。
「この嵐は、私にはわからないんだ……」
その言葉は、私にはすごく恐ろしいモノに思えた。
いつの間にか、危険なことは希美が警告を発してくれると、信じ切っていた。
万能の安全装置があるような安心感。
それが、急に無くなり、ブレーキの効かない自転車で坂道を降りるような不安感。
すごく、怖い。
胸が苦しくなるくらい。
「摩美、大丈夫?」
肩に手を載せられハッとした。
「あ、うん……」
肩に乗せられた手は、最初冷たかったが、そのうち温かくなってきた。
不安感が少し薄れた。
希美はそのまま目をつぶって、じっと何かを感じようとした。
彼女は30秒ほどそうしていたが、軽く口元に笑みを浮かべると、ゆっくり顔を上げた。
「やっぱり大丈夫だよ。何も感じない。何も起きないよ」
希美が笑顔でそう言ってくれた。
「ほんと?」
「ほんと」
彼女は再度うなずいた。
不安感は消えた……
はずだった。
トゥルルル……
その日の午後、電話が鳴った。
勇作が、厨房から手を伸ばして取った。
しばらく話していたが、内容は想像がついた。
「わかりました。すぐに見回ってみます」
「町役場?」
「ああ。降水量が規定値を超えた。消防団への要請だ」
この辺りは、町道も多い。
この前、香奈を病院へ連れて行く時に大雨で通行止めになると言った二つの道路も霧が原町の町道だ。
降水量が規定値を超えた時に通行止めの柵を閉めるのは町役場の仕事だが、地域の消防団の自主的な取り決めで、それぞれいくつかのグループで道路の様子を見回ることになっている。
その連絡だった。
「行くの?」
希美が無表情で聞いた。
「ああ、みんなで決めたことだしね」
勇作は笑顔で言った。
私にはわかった。
希美は笑顔を作ろうとしたが、不安感でそれができなかったのだ。
(本当は何か悪いことを予知してるの?)
希美はそれ以上、何も言わなかった。
何かを注意できないような、漠然とした不安感なのだろうか……
今までの予知なら、何に気をつけてとか、はっきりと言ったはずだ。
だから、私も、何も言えなかった。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
勇作は、レインコートを着込んで、こういう場合の連絡用のトランシーバーを持つと、車庫へ向かった。
「いってらっしゃい」
私は軽く手を振った。
「気をつけて……」
希美はそれだけ言った。
しばらくして、土砂降りの中、左へ曲がっていく車の赤いテールランプが見えた。
こんな天気の中、お客も来なかった。
香奈も来るわけがない。
私はすることがなくて、テーブルに座っていた。
希美は無表情のまま、厨房にいた。
雨脚も風の勢いも、まるで衰える様子がない。
勇作が出掛けてから、かれこれ1時間半経つ。
私は、勇作の携帯に架けてみた。
『…電波の届かないところか、電源が…』
やはり、圏外だ。
だからこそ、役場から貸与された高出力のトランシーバーを持って行ったのだ。
それは役場と他の消防団のメンバーとの連絡用なので、勇作が持っていった1台しかない。
もちろん、何かあったら役場か、他のメンバーから連絡があるだろう。
無用な心配をしているのはわかっている。
いつもなら、そんな心配をしない。
でも、今日は、その安心の素の希美が、それを保証していない。
ふと、厨房に希美の姿がないのに気付いた。
「希美?」
私はカウンター側の受渡口から厨房を覗いてみた。
希美はいなかった。
でも、何か聞こえた。
私は横から回って厨房に入ると、受渡口の真下に膝を抱えてうずくまっている希美を見つけた。
「どうしたの!?」
私の声に彼女はゆっくり顔を上げたが、目は合わせなかった。
「私、とんでもない間違いをしたかもしれない……」
「なによ?」
「行かせるべきじゃなかったかもしれない……」
その言葉を聞いた瞬間、私も、希美の心の中が見えた気がした。
「希美……」
「私、とんでもないことを……」
目が虚ろだ。
「希美……」
私は言葉を探した。
何を言っても、口にしたくないコトに繋がる気がした。
「何か、……予知したの……?」
私も希美に焦点を合わせずに聞いた。
「ううん……」
何を言おうか迷っているうちに希美が言葉を続けた。
「この嵐は、私にはわからないのよ……だから……行かせて良かったのか……わからないのよ」
消え入るような言い方だった。
「だったら!……だったら、きっと……何も……何もないよ」
強く言おうとして、私も言えなかった。
「……でも、嵐なのよ……」
そのつぶやきに、私は希美を見た。
「嵐が……どうしたの?」
希美は顔を向けなかった。
「ねえ、嵐が、なんなのよ?」
希美はまた膝に顔を埋めた。
「ねえ!」
私は希美を揺すった。
でも、彼女は顔を上げなかった。
どうしていいかわからないまま、彼女の肩を掴んでいた。
「!!」
私は、その音に厨房を飛び出した。
横目に、希美も顔を上げるのが見えた。
窓ガラスに顔をつけると、赤いテールランプがバックしてくるのが見えた。
私は、土砂降りに構わずにドアを開けて外へ飛び出した。
その瞬間、激しい風にあおられて転けそうになったが、踏ん張った。
あっという間にずぶ濡れになって視界が奪われたが、両手で目を覆った。
私はその車を見て立ち尽くした。
一瞬抱いた希望は雨と共に流れていった。
後ろから風にあおられた希美が私にぶつかってきて、少しよろけたが、私は、その車を見つめていた。
白い軽トラだった。
遊馬さんだ……
「二人とも、何やってんだ!濡れるぞ!」
遊馬さんが窓を開けて叫んだ。
それでも土砂降りの中、立ち尽くす私達を、車から降りてきた遊馬さんは無理矢理店内へ押し込んだ。
「どうしたんだ?おまえたち……。勇作は?まだか?」
その言葉にハッとした。
「勇作は!?」
私は遊馬さんの胸元を掴んだ。
「え?まだ着いてないのか?」
「どこかで会った?」
横から希美が遊馬さんの腕を掴んだ。
「いや、30分くらい前に、こっちは異常ないから帰るって無線で聞いたから来たんだけど……」
「30分前?」
「ああ」
私達は、遊馬さんを掴んでいた手を離した。
「そんなに心配すんなよ。こんな雨でも、うちの軽トラで大丈夫だったんだからさ」
「ねえ、トランシーバー貸して!」
希美が気が付いたように言った。
「ああ、車の中だ……」
遊馬さんがあごで示すと、激しい雨を見て躊躇したが、希美は構わず飛び出していった。
私も飛び出そうとしたが、遊馬さんに腕を掴まれた。
私は、振り払おうとしたが、遊馬さんがあごで外を示した。
希美がもう戻って来るところだった。
「はい、これ!もう一度連絡してみて」
希美は遊馬さんにトランシーバーを突きつけた。
「おう……」
遊馬さんは、スイッチを入れて、勇作を呼んだ。
「勇作、勇作。遊馬だ」
ザァー……
カチッ。
「勇作。聞こえていたら返事をしろ」
ザァー……
やはり、ノイズしか聞こえない。
「もう帰るからスイッチ切ってるだけだろ」
遊馬さんは、私達が安心するように言ってくれた。
でも……
「ねえ、探しに行くから車貸して!」
希美がそう言って、また遊馬さんの手を掴んだ。
「いや、探しに行くって言っても……」
遊馬さんは、外を見て言葉を濁した。
「お願い!車を貸して!」
希美が叫んだ時、外で赤いテールランプが見えた。
「勇作!!」
私は思いっきりドアを開けた。
すごい勢いで雨が顔に当たったが、目を見開いてその車を見た。
今度こそ、うちの車だった。
「勇作!」
私は車に走り寄ると、降りてきた勇作に抱きついた。
「おいおい、ずぶ濡れじゃないか……」
勇作は戸惑いながらも、すぐ傍まで来ていた希美も連れて、店の中へ入った。
「どうやら、心配かけたみたいだな……」
勇作は私達の顔を見て言った。
遊馬さんが私を見た。
「希美さんが、何か予知したのか?」
「ううん……違う」
希美が答えた。
「うん。だから、急に不安になって」
私は勇作が渡してくれたタオルで身体を拭きながら答えた。
「そっか、心配かけたな」
「おまえら、風呂に入った方がいいんじゃないか?どうせ客は来ないだろう」
「そうだな、お風呂入れてやるよ」
勇作はそう言ってレインコートを脱ぐと、お風呂を用意しに行った。
私と希美は、椅子にぺたりと座り込んだ。
そして、希美と目を合わせると、二人で力なく笑った。
「ごめん……」
希美が小さな声で言った。
「いいよ」
私も小さな声で答えた。
濡れた服を着替えた後、オーナールームで毛布に包まってお風呂が沸くのを待った。
店の方に行こうとしたら、希美が首を振ったのだ。
30分くらいで、勇作に呼ばれた。
「ゆっくり温まれよ」
そう言って勇作は店の方へ行った。
二人で向き合って湯船に浸かると、お湯が溢れて湯気が立ち上った。
いつも使っているオーナールームのお風呂は、二人で入れるほど湯船が大きい。
お湯の熱さに身体の芯から温まってきた。
気が付けば、夏の嵐とは言え、身体は意外と冷え切っていた。
「ふうぅ……」
私は息が漏れた。
「ふうぅ……」
希美も息を漏らした。
視線が合うと、希美がまるでとろけるんじゃないかというような表情で笑った。
きっと、私も同じだ。
「本当に、心配させてごめんね」
「いいよ」
私は声も出すのが面倒なくらいとろけていた。
「でも、やっぱり何でもなかったね」
「うん」
「何かあるんだったら、行く前にきっと、希美にはわかったと思うよ」
私がぼーっとした感じでそう言ったが、希美は答えなかった。
遠い目をしている。
話を聞いていたのか、聞いていて答えないのかわからなかった。
でも、その時はどちらでもよかった。
判断力は無いに等しい。
(何もなくて良かった……)
私は、まだ激しく雨戸を叩く風雨の音を聞きながら、それだけを思った。
お風呂から上がると、勇作と遊馬さんが珈琲を飲みながら話をしていた。
「温もったか?」
「うん」
「摩美たちも珈琲飲むか?」
「あ、いいよ。自分で淹れるから」
私は手をぱたぱたとしてカウンターに向かった。
希美は、「私のもね」というジェスチャーをして、遊馬さんの隣に座った。
「ところで、遊馬さん、みゆきさんのとこには行かなくていいの?」
希美は遊馬さんの顔をのぞき込んだ。
「ああ?もちろん一番最初に様子を見に行ったぞ」
遊馬さんは腕組みして偉そうに答えた。
「へえ、さすがだね~」
希美は頬杖を突きながら笑った。
「もちろん!俺は自分の身を犠牲にしてでも彼女を守るさ」
「うわぁ~、愛だねえ~」
希美がそう言いながらつんつんすると照れ笑いをしていたが、きっと、遊馬さんなら言葉どおりにするだろう。
「希美のことはもういいの?」
私はカウンターから珈琲を淹れながら聞いた。
「いやあ、希美さんがあまりにも素敵だからさ、俺もどうかしてたんだよな。でも、元々みゆきさんに惚れてたわけだし。初志貫徹ってやつ?」
「希美が素敵って、私と瓜二つなのに?」
「ああ、希美さんは、素敵だな」
彼は「希美」を強調した。
「あ、ひっどー!覚えてなさいよ。今度は辛子珈琲の刑じゃ」
「おまえの淹れた珈琲は二度と飲まねー!」
「フンだ!」
そんな会話を聞きながら、勇作と希美が笑っていた。
夜になると、希美にとって「未知の嵐」は無事に過ぎていった。
私は自分の部屋の雨戸を開けると、黒い雲の速い流れの上に星が瞬いているのを見つけた。
しばらく、その輝きを眺めていた。
今回も、思い返せば、希美の言動にいろいろと気になることはある。
希美に秘密があるのは、私の中で確信に近い。
彼女が本当のコトを話してくれるのは、いつのことなんだろう。
いろいろなことの間隔から、それは意外と近い様な気がしている。
ただ、その時には、良くないことが起こる不安感も感じる。
感じる……
これが、もう少しはっきりすると、希美と同じ「予知」になるのだろうか。
私達は双子だ。
希美にそんな能力があるなら、私にも何かしらの能力があってもおかしくない。
予知じゃないにしても、何かしらの能力が…
小さい頃からの出来事を思い返してみたけど、そんな能力の様なことに思い当たらなかった。
さらに、その予兆も、まだ少しもない。
彼女のように、特別な能力が欲しい。
人を救える様な……
ふと、それは誰もが小さい頃から夢見ることだと気付いた。
本気でそんなことを考えるなんて、どうかしてる。
希美だけが特別なんだ。
きっと。
私は、また星を見つめると、一つため息をついて、窓を閉めた。