第7章 傷跡
翌日、希美は裏の畑で野菜の手入れと収穫をしていた。
朝から晴れ渡って気持ちのいい午前だった。
といっても、最近は晴れが続いている。
雨が降る時は、高原ということもあり、風雨が強いことも多い。
「やっぱり、ここは晴れてる方がいいよね~」
ジャガイモを鍬で掘り起こした後、鍬の柄に両手を載せてアルプスの山々を見ながらつぶやいた。
希美は、さわさわと身体を包みながら通り抜けていく風と、まだ柔らかな陽射しが、本当に気持ちいいと思った。
こうして、畑仕事をしている自分は、以前の自分のままだった。
希美は、目の前に広がる大自然のパノラマを見ながら、ここに来ることができて、本当に良かったと思っていた。
ここにいる以上、何かができるかもしれないし、あのままでは自分が壊れていたかもしれなかった。
今は、深いことを考えずに済んでいるのが確かだった。
「さて、次はニンジンを抜くか」
必要のない鍬を横へ倒すと、ニンジン畑の方へ歩いて行った。
他の野菜も収穫してカゴに集めると、一旦ジャガイモ畑の横に置いた。
少し段差があって置きやすいし、持ち上げやすいからだ。
希美は後ろを振り返ると、腰に手を当てて、また山々をしばらく眺めた。
何も変わらない。
今、自分がどこにいるのかわからなくなるくらい。
ずっと、ここにいたような気持ちになる。
いや、ずっと、ここにいたい。
それが叶うかどうかはわからない。
願いが一つ叶った気がしているが、それもどうなるかはわからない。
最善を尽くして、今を生きるしかないのだ。
「さて、戻るか」
希美はカゴを抱えて持ち上げようとした。
その時、長く雨が無かったために乾いた土が、彼女の足を滑らせた。
「きゃっ!」
見事にひっくり返った希美は、したたかに背中を打った。
一瞬、息が出来なくなり気を失いかけたが、息が戻ると、目の前に青い空が広がった。
「痛ったぁ……」
しばらく身体の痛みに、ひっくり返ったままにしていたが、ゆっくりと起き上がろうとした。
「痛っ!」
その途端、太ももに熱いような激痛が走った。
ゆっくり顔だけ起こしてみると……
さっきの鍬がジーンズを突き破り、太ももの後ろにざっくりと刺さっていた。
倒した時に上を向いていたのだ。
「!!」
希美は悲鳴にならない声をあげた。
頭を地面に落とすと、気が遠くなりかけた。
でも、気を取り直して、激痛に耐えながらゆっくりと身体を起こした。
刺さっているのは4,5センチだった。
きれいに刺さっているのでそんなに出血していないが、抜くと出血してしまう。
でも、助けも呼べない。
勇作と摩美が気付いて様子を見に来るまで待つしかないが、その激痛には耐えられそうになかった。
希美は、左手で鍬の柄を持つと、大きく息を吸って、そして止めた。
思い切って鍬を抜いた。
「ああぁっ!!」
希美は抜いた瞬間の激痛に息が止まり、気を失いかけた。
「だ、だめだ……気を失ったら、死んでしまう……」
再度、気を取り直して、大きく息を吐くと、出血を止めようと起き上がろうとした。
「え?」
さっきまでの激痛が急に消えて、普通に上半身を起こせた。
太ももを見てみた。
出血していない。
希美は、立ち上がると、人目もないので、ジーンズを下ろした。
露わになった色白の太ももの後ろをのぞき込んだが、どこにも傷はなかった。
「なんで……?」
またジーンズを履くと、血がついて穴の開いた部分から指を入れてみた。
傷があるべき場所は、なんともなってなかった。
そもそも、ケガをするはずがないと思っていたのは、大間違いだった。
ここで自分に関することは「予知」の範囲外なのだ。
自分自身に何が起こるかを予知できるわけがなかった。
そのことを、再認識した。
「でも、ケガはどうして……?」
希美はジーンズの穴を触りながら、ぼーっとまた山々を見つめていた。
「ただいま」
希美が野菜を抱えて戻ってきた。
ちょっと蟹歩きで運んでいる。
「どうしたの?」
「えへへへ」
彼女は照れ笑いをしながらそのまま厨房へ運んでいった。
「なんだ?」
気が付くと、そのまま奥に行ってしまった。
しばらくして、洗濯機を回す音が聞こえた。
「そっか」
なんとなく理由がわかって、気にしないことにした。
15時過ぎ、遊馬さんがやってきた。
「勇作~、ひどいじゃないか……」
遊馬さんはテーブルに突っ伏すと力なく言った。
「あ、昨日のことですか?」
「そうだよぉ」
「せっかく希美たちを連れて行ったのに、いなかった遊馬さんが悪いんですよ」
「役場で例の集まりがあったんだよぉ~」
遊馬さんはちょっとふてくされて言った。
「例のって?サマーフェスティバル?」
「おお、摩美。そのとおり」
「で、今年は誰が来るの?」
「おお!よくぞ聞いてくれました!」
遊馬さんは急に元気になった。
「聞いて驚くなよ。なんと……」
「あ、遊馬さんだ。いらっしゃい」
「おお!希美さん!昨日はひどいよぉ~」
遊馬さんは言いかけたのをやめて、傍に来た希美と話を始めた。
「ねえねえ、だから、誰が来るのよ?」
私は聞きたくてうずうずしていた。
でも、うれしそうに希美と話を始めた遊馬さんに無視された……
「ちっ、塩珈琲の刑じゃ」
私は珈琲に塩をたっぷり入れて、希美と話し込んでいる遊馬さんの前に、にやあと小悪魔笑顔で置いた。
「お、すまんな」
言葉だけで、希美から視線をそらさず、遊馬さんは珈琲に手を伸ばした。
一口飲むと……
「ぶっ!!」
「きったなぁ……」
吹き出した珈琲の洗礼を受けて希美が顔をしかめた。
「摩美!!」
遊馬さんと希美が叫んだ時には、私は既にいなかった。
「だ~か~ら~、誰が来るの~?」
カウンターも越えて、私は厨房から声をかけた。
「あ、もしかしてサマーフェスティバル?」
希美が遊馬さんを見た。
「そうそう。あいつには教えん!」
「あ!ひどい!!」
私はブーイングした。
「私にはわかるよ」
希美がにこっとした。
「え?予知?」
「えへへへ。」
希美はVサインをした。
「うそ!?宮里祥子!?moonsprout!?」
どちらも、かなりブレイクしているアーティストだ。
しかも宮里祥子は、私が目覚ましにしてることからもわかるように、私の大好きなアーティストなのだ。
「どう?」
希美が腰に手を当てて、自信たっぷりに遊馬さんに確認した。
「うう、正解……」
遊馬さんはガクッとうなだれた。
「希美さん、本当は知ってたんじゃないの?」
遊馬さんが、頬杖を突きながら言った。
「あり得る?」
希美がにやっと笑った。
遊馬さんは頬杖を突いたまま、上を見上げた。
「あり得ない……。俺も昨日聞いたばかりだし、本当はまだ内緒だし」
再度、頬杖ついたままガクッとした。
「よく呼べたね!?」
私は、厨房から出てくると、遊馬さんからちょっと離れたところから言った。
遊馬さんは、まだ私をど突こうしている雰囲気が見える。
「まあ、今年はエコもテーマにしてるから、その辺りに賛同してくれたみたいだ」
「う~ん、最高!!」
私は一人で舞い上がっていた。
と、思ったら……
横で希美も舞い上がっていた。
希美と目が合った。
「最高!!」
「やったね!!」
二人で抱き合って叫んだ。
「そっか、希美も好きだったんだ」
「うんうん。moonsproutも大好き」
「私も」
遊馬さんと勇作を置き去りにして、盛り上がっている私と希美だった。
「どうしたの?」
香奈がやって来た。
「おお、香奈。お帰り~」
私は両手を振って歓迎した。
「あれ?荷物は?」
希美が聞いた。
「今日は終業式だよ。荷物多かったから置いてきたの」
「そっか、明日から夏休みかぁ」
「うん!」
うれしそうな顔で、香奈はいつものテーブルに腰掛けた。
「なんか飲む?」
「うん、じゃあオレンジジュースがいいな」
「OK」
希美がジュースを取りに行った。
「で、どうしたの?」
「今度のサマーフェスティバルにね、お姉ちゃんの好きな宮里祥子が来るんだよ」
「だれ?それ?」
がくっ……
「香奈は知らないかあ……」
「うん、知らないよ。あ、ありがとう」
説明しようかと思ったら、希美がジュースを持って来たので、香奈の意識はそっちへいってしまった。
私は、ため息をついたが、香奈のつきだしたかわいい唇を見て微笑んだのだった。
そして、外の強い陽射しに輝く夏景色を見ながらつぶやいた。
「そっか、夏休みか……」
その後はなんとなく忙しい日だった。
片付けを終えて、お風呂に入ろうとすると、脱衣所の乾燥機に何かが入っているのに気が付いた。
日頃は、洗濯物は外に干す。
高原の湿気の少ない爽やかな風が吹くので、気持ちよく乾くからだ。
「昼間の希美のか」
忙しくて干すヒマがなかったのだろう。
私は畳んでおいてあげようと思って取り出した。
ジーンズだけだった。
「あれ?」
太ももの部分に大きな穴が2つ空いている。
「何だろう?」
裏から見ると、少し血がついたような後があった。
「まさか……」
希美に聞こうと出ようとしたら、その時、希美の方がやって来た。
「あ、それ私の」
「あ、うん」
「どした?」
希美が笑顔で聞いてきたが、その口元がちょっと引きつっている気がした。
「畳んであげようと思って」
「そっか、サンキュ」
「穴が空いてるよ」
希美は、ちょっとピクッとした。
「ああ、それ?ちょっと、空けてみた」
「なんで?」
「もちろん、ファッションとしてね。破るのもいいけど、穴もいいかなって」
「……そうなの?」
「うん。後ろに穴ってちょっとドキッとしそうじゃない?」
「まあ、……ね」
「……だめかな?」
ちょっと首をかしげて、見上げる感じで希美が言った。
「……いいんじゃない?」
ちょっと、私にはわからないセンスなので、苦笑しながら答えた。
「そっか、良かった」
「お風呂、先に入る?」
私はちょっと思いついて言った。
「摩美、入ろうとしてたんじゃないの?」
「いいよ、やること思い出したから。先に入って」
「わかった。ありがとう」
私は脱衣所から出ると、外の廊下の壁に背中をもたれかけた。
ちょっとして、ドアから覗いてみた。
希美がこちらに背を向けて脱いでいた。
私とそっくりの体型は、同じく色白できれいだった。
別にケガをした訳じゃないみたいだ。
私はホッとして、ドアをそっと閉めた。
「どうした?」
勇作がやって来た。
「希美が入ってるよ。覗いちゃだめよ」
「だ、誰がだよ……」
妙に慌てた勇作に背中を見せたまま手を振りながら、私は店に戻った。
私と勇作は、希美が昼間大ケガをしたなんて、思いも寄らなかった。