第1章 高原のカフェレストラン
〈眩しい陽の光に~目が覚めて~〉
ケータイから宮里祥子の歌声が流れ始めた。
「う~ん、よく寝たぁ」
私は大きくノビをして、カーテンを一気に開けた。
「うひゃあ~!」
朝陽のあまりの眩しさにクラクラとした。
まるで、アラームの着うたにしている「夏の扉」と同じ出だしだ。
季節も、そろそろ夏ね。
でも、この天気が最高。
ここは信州でも標高の高い場所にある高原だ。
一年を通して天気がいいことの方が多い。
たまに大荒れしたり、霧が立ちこめることもあるけれど、それも自然を感じるから大好き。
窓を開け、爽やかな空気を思いっきり吸い込んで、深呼吸をした。
「うん。今日も陽当たり良好!」
こうしてパジャマ姿で大きく手を広げている私は栗田摩美、27才。
私は、さっさと着替えて、二階の洗面所で顔を洗い、部屋へ戻ると軽くメイクをした後、いつものように姿見の前で身繕いをした。
一緒に住んでるとはいえ、これは必要な儀式だ。
白いシャツにジーンズは、ある意味制服。
この上に後で黒いエプロンをつける。
「よし、OK」
階段を下りていくと、トントントンと、リズミカルな音が聞こえてきた。
いつものように、勇作は既に起きている。
アラームのセットの時間自体、先に起きる気はないのだけど。
「おはよう~」
「おはよう、摩美」
ダイニングキッチンへ行くと、包丁でキュウリを切りながら、勇作が微笑んだ。
テーブルには既にパンや目玉焼きなどが並んでいる。
「うんうん、今日も美味しそう~」
私は、後ろ手に匂いをかいで言った。
「摩美、たまには料理しようと思わないのか?」
「だって、勇作にはかなわないもん」
勇作は、どうしようもないなという感じで、軽く首を振った。
勇作はキュウリとレタスをボールでドレッシングと合わせた後、お皿に盛ってテーブルへ置いた。
サラダなんて、上からドレッシングをかければいいじゃないと思っているけど、勇作は手を抜かない。
彼は武田勇作。
あまりのしっかり者で、私と同い年なのに、人はそうは見ない。
いつも兄妹と見られてしまうし、私自身、勇作がかなり年上に思えてしまう。
二人とも不遇な境遇で育ってきたので、勇作が大人びて見えるのは有りかもしれないが、私が「天真爛漫」と言われるのは納得がいかない。
でも、ここの土地柄のせいかもしれない。
落ち込む気にならないくらい、気持ちが良い場所なのだ。
休日には、観光客で賑わって、片道1車線しかない県道は渋滞するけど、その素性はのどかな高原だ。
爽やかな風に頬を撫でられれば、誰だって、深呼吸したくなる。
深呼吸すれば、気持ちも落ち着き、のんびりできる。
本当に澄み切った青空を渡る雲を見上げたら、つい目で追ってしまって時間が止まると思う。
そして、メトロノームみたいに左右に揺れる草花を見れば、自分もその緩やかなリズムに取り込まれる。
焦る必要のない時間がここにはある。
そんな高原の霧が原町に引っ越してきたのは、私が小学生の頃だった。
父が脱サラをして、憧れのこの高原で小さなカフェレストランを開いたのだ。
母も幸せそうに、それを手伝っているのを、ずっと見て育った。
天真爛漫にならない方がおかしいでしょ。
そして、しばらくして、両親は近くの施設にいた勇作を引き取った。
店は元々貸室6部屋のペンションとして作られていたので、余分な部屋はある。
子供好きの両親はもっと引き取りたかったみたいだが、経済状況が勇作一人に留めた。
孤児を集めた施設「天空の家」には、現在も20人くらいの子供達がいて、園長の武田猛さんと娘のみゆきさんが面倒を見ている。
勇作は赤ちゃんの頃、施設の前に捨てられていたそうだ。
一緒に置かれていた手紙には、「私たちには育てられません」と書かれていたらしい。
「私たち」と書かれていたからには、当時は両親は健在だったということだ。
父は勇作を引き取る時に、養子にはしなかった。
もしかしたら本当の両親が現れるかもしれないからと言っていた。
手紙には「勇作」としか書いてなかったらしい。
身元がわかるからあたりまえか。
園長は届けを出す時に自分の姓で届けた。
だから、勇作の名字は「武田」だ。
そんな勇作を、うちの両親は本当の子供として、私と分け隔て無く扱って、育てた。
その両親は、5年前、車の事故で亡くなった。
両親を同時に亡くし、天涯孤独となった当時の私の狼狽ぶりは、今では信じられないくらいだった。
そのショックにも負けずに今の私がいるのは、勇作が傍にいてくれたから。
立ち直るのに、半年かかった。
勇作は黙って傍にいて、私の世話をしてくれた。
確かに、当時はいくら優しい言葉をかけてもらっても、私の心には届かなかったと思う。
私は、現実を拒絶する世界に閉じこもっていた。
ただ、生きていた。
何も考えないコトが、救いだった。
それでも、勇作の手が触れたり、勇作の作ってくれたご飯の味に、たまに感じる暖かさが、段々と、私を現実の世界に引き戻してくれた。
そして、ショックから立ち直ることはできたけれど、これからのことを考えると途方に暮れたのも確かだ。
そんな私に、勇作が言ってくれた。
「俺がついているから大丈夫だ」と。
勇作は当時、かなり程度の高い大学へ通っていたが、すぐに辞めた。
私も、別の程度の低い大学へ通っていたが、もちろん辞めた。
そして勇作は、うちのカフェレストランを引き継いでくれた。
近所の人たちも人情溢れる人ばかりで、いつも来てくれた。
しかも、勇作には料理人としての素質があった。
同情で来ていた人たちも、そのうち、その味の虜になった。
だから私は、生活の心配もすることなく、ここで幸せに生きていられる。
「今日はハーブがいい感じだから、メインを鶏肉のハーブソテーにするよ」
「うん、わかった」
私は、食事を片付けた後、メニューボードにランチの料理名を書き込んだ。
そのボードを、入り口のドアの横の小さなテーブルにセットした。
さて、8時半だ。
ドアのプレートをオープンに換えた。
今日も開店だ。
大きな湖のある市内から、県道を北へくねくねと上って来ると、最初は雑木林が続くが、段々と白樺林になっていく。
その県道の白樺林の辺りから霧が原町だ。
そして、その白樺林も段々と少なくなってきて、坂を上り詰めた辺りで、いきなり木のない草原が広がる。
霧が原町はかなり広い面積をほこるが、標高が高いため、その大部分は草原や牧草地、観光施設で、人口はそれほど多くない。
南北に抜ける県道以外に、霧が原スカイラインと呼ばれる景色の良い道路がくねくねと、東西に抜けている。
標高が高いことの恩恵として、視界の邪魔になる木が無く、さらに尾根部分を走るので、全線を通じて景色が良い。
目の前に中央アルプスの山々が見渡せるが、空気が澄んでいる時は、遠く富士山まで見える。
さらに湿原やスキー場、小さな湖などもあり、自然がいっぱいの町だ。
うちの店、カフェレストランフォレストは、観光道路と化している県道から道1本入ったところの先にある。
ペンションとして作られた外見は洋風の店構えで、この辺りでは特に目立つ造りではない。
ただ、レストラン部分の壁に特徴がある。
20cm幅の細めの壁と2m幅で天井から足下までのガラスが交互に壁を成している。
見た目は、ほぼ全面ガラスという感じだ。
天井から足下までの1枚ガラスは、開放感があって気持ちが良い。
それに夜は外から見た時に、店内の照明で、かなり美しく暖かい雰囲気を醸し出している。
店内は、一応4人席だが小さめのテーブル6つに、カウンター6席、そして天気がよい時に使うテラスのテーブル3つの小さな店だ。
父は、店舗部分に力を入れた造りなので、ここにしたらしい。
入り口から入ると、目の前に大きなストーブが置いてある。
近くにスキー場があるくらいなので、冬はそれなりに寒さが厳しい。
二階に4部屋、一階に2部屋とオーナールームがある。
私は二階の1室を使い、勇作は一階の1室を使っている。
オーナールームは共用だ。
周りには数件のペンションやお土産屋もあり、小さなコミュニティを形成している。
さらに道を奥に入った辺りに集落があり、その一角の高台に天空の家がある。
勇作には、天空の家は自分の実家のようなものだ。
だから、今でも天空の家の子供たちの面倒も見ている。
特に、今年小学校に上がったばかりの香奈は、うちにもよく遊びに来るので、勇作もかわいがっている。
それに香奈は、ちょっと他の子と事情が違っていて、園では浮いているから余計に目をかけているのだ。
天空の家の子供たちは、本来、孤児だ。
でも、香奈にはお母さんがいる。
隣町の病院で眠り続けた状態で入院しているのを、「いる」と言うのが正しいかどうかは別として…
それでも、他の子たちには、母親がいる香奈を仲間と認めていない雰囲気がある。
当然かもしれない。
勇作には、その気持ちもわかるが、香奈の良いお兄さんをやっている。
いつも強がって、頑張っている香奈は、私にも大事な妹分だ。
私と勇作が普通に接するので、香奈は自然でいられるらしい。
天空の家で見る香奈と、うちの店で見る香奈は明らかに違っている。
香奈が園に来た3年前、まだ若干両親の死を引きずっていた私を、香奈の存在が完全に立ち直らせた。
誰かを守ろうとすると、人は強くなれるのかもしれない。
彼女を守ろうと思った時に、ふと気がついた。
勇作も、両親が死んだ時、そんな気持ちを抱いてくれたんじゃないかと。
「こんにちわ!」
ランチタイムが一段落した頃、学校の終わった香奈がさっそくやって来た。
「おお、香奈~。今日も元気だね」
私は香奈のランドセルを下ろしてあげた。
学校の帰りにうちに寄るのを、園長とみゆきさんは許してくれている。
二人は子供たちのことをちゃんとわかっているけど、香奈を溶け込ませることができないことに心を痛めている。
私たちが香奈のオアシスになることは、結果的に良いことではないかもしれないが、今のところ、それに頼るしかないと思っている。
「勇作は?」
ランドセルを下ろしてもらい、くるっと振り返ると、香奈はキラキラした目でおませな感じに言った。
「裏の畑で野菜を取ってるよ。勇作兄ちゃんって言いなさいよね」
「じゃあ、わたしも手伝ってくる!」
香奈は私の言葉を無視して、ポニーテールを振りながら元気に飛び出していった。
「小っちゃいけど、きっちりライバルね」
私は腰に手を当て、笑顔で軽くため息をつきながら、後ろ姿を見送った。
そんな時、ふと、誰かの視線を感じた。
店の大きな窓から外を見てみたが、見える範囲には誰もいなかった。
その視線には、何か不安と戸惑いが乗っているようだった。
そこまでハッキリと感じる視線。
「……気のせい?」
そういえば、今朝もそんな感じを受けたのを思い出した。
「ま、いっか」
私はディナーの仕込みのために厨房に向かった。
店の裏手の畑で野菜を取っていた勇作は、ふと視線を感じて手を止めていた。
立ち上がって見たが、誰もいない。
「勇作~!」
「おっす」
勇作は手に持っていたほうれん草をカゴに入れると、声のした方を振り向いた。
元気に香奈が走ってきた。
「勇作、手伝うよ」
「そっか。じゃあ、そっちのにんじんを10本抜いてくれる?」
「え?もうこっちのカゴに、にんじんいっぱいあるよ?」
「いいんだ。お土産の分」
「そっか。はあい」
香奈はすぐにしゃがみ込むと、にんじんを抜き始めた。
勇作はそんな香奈を見て微笑むと、もう一回視線を感じた方を見て、誰もいないのを確認すると、ジャガイモを掘り始めた。
勇作も、朝方、同じような視線を感じたのを思い出したが、特に気にならなかった。
横を見ると、香奈がにんじんを抜くのに小さな手で力一杯奮闘している。
それを見て、微笑んだ時は、既に視線のことは頭になかった。
「ただいま!」
「おかえり。はい、ご褒美」
香奈からにんじんのカゴを預かると、代わりにオレンジジュースを渡した。
「ありがと!」
「それ、袋に入れてやって」
「今日はにんじんが豊作?」
カゴを覗いて私は言った。
「ああ。足りないけどね」
天空の家は全部で22人いる。
まあ、近所の農家や牧場の人たちも差し入れをしているから、大丈夫だけどね。
「そうだね。でも、香奈もそんなに持てないし」
「あと、こっちのジャガイモも」
カゴには10コのジャガイモが入っていた。
「香奈、持てる?」
私はしゃがんで香奈の顔を見た。
「大丈夫!香奈いいオンナだもん」
「なんじゃ、そりゃ?」
私は吹き出しながら袋を渡した。
香奈は、野菜の袋をランドセルの横に置くと、テーブルに座ってジュースを飲み始めた。
「ねえ、勇作。外に誰かいた?」
私は厨房に行こうとした勇作に声をかけた。
「ん?いや。……そういえば、なんか視線を感じた気がするな」
「勇作も?」
勇作が軽く振り向いた。
「入ろうかどうか迷っているお客がいたんじゃないの」
「そんなところか」
勇作は、あまり気にしてない感じで厨房へ入っていった。
勇作が、気にしてないのなら、大丈夫だろう。
私も、また笑顔に戻って香奈の横に座った。
「摩美ちゃん、どうしたの?」
「ううん。なんでもないよ」
ズズっと音がした。
「ん?一気に飲んだな?お代わりいる?」
「うん!こんどはアップルでいい?」
「いいよ。じゃ、待ってて」
「はあい」
香奈は片手を大きくあげて返事をした。
ここにいると、こんなに素直なのに、園で見る香奈は……
引き取ることができれば……と思う。
本当は、勇作もそうしたいと思う。
でも、香奈だけを引き取ることができないのも勇作だ。
勇作に園の子たちを差別することはできない。
だから、そのうちの一人を引き取ることもできない。
現実問題、世間からは、私と勇作は兄妹と見られているのだから、許可は下りないと思う。
せめて夫婦ならいいのだろうけど、そうではない。
夫婦か……
血が繋がっていないのに、私と勇作の今の兄妹のような関係はいつまで続くのだろう。
勇作が私のことをどう思っているのかなんて、今さら聞けない。
彼の態度からは、「兄」としての雰囲気しか感じたことがない。
「もしかしたら……」というような出来事もなかった。
彼が私を守ろうと一生懸命なのはわかっている。
私は、それに答えるしかない……
「じゃあ、わたし帰るね」
16時を過ぎた頃、テーブルで宿題を済ませたらしい香奈が、厨房に顔を出した。
「うん。気をつけてね」
私はランドセルを背負わせてあげて、野菜の袋を渡し、外まで見送った。
天空の家まで歩いて15分くらいだ。
「バイバイ!」
「バイバイ」
私が手を振ると、それに答えるように、香奈は2つの袋をそれぞれ手に持って、クルクルと回りながら帰って行った。
「ころぶよ!」
「だいじょうぶ~」
その声を聞いて、私はまた笑顔で小さく手を振った。