20・ココロノイロ
「おれの頭の中に、別なやつの心が入ってくる。」
彼にしては珍しい、なんだか泣きそうな表情をしたアローンにそう聞かされたのは、神殿の前でおかしな行動を取っていた研究員の身柄を確保したと報せを受けた、その翌日の事だった。
「何を言っているのかわからないと思うが、おれ自身にもわからない。
だが、おれがこれまで感じた事のない、強い想いが強烈に、おれの心を揺らしてくる。
このままだとおれの心が消えて、【そいつ】に塗り替えられてしまうのではと思えるほどに。」
…最初は本当に、何を言われているかわからなかった。
捕らえた男の尋問にも立ち合わなければならなかったから、彼の側ばかりにいるわけにもいかなかった事もある。
けど、答えは意外なところから得られることになった。
捕らえた男が捨てたのは、彼の複製の『失敗作』だった事。
状況によっては彼を偽物にしかねないその事実に慌てて、神殿に探りを入れたところ、『複製』は何故か勇者の神託を受けて、神官長である俺の姉が教育係を引き受けている事、そして『複製』はその姉を、世界の全てであるかの如く慕っているという事がわかった。
王城の隠し通路を通って、俺たちはお互いに自分の姉を助けに行くという事で話がまとまり、俺がアンダリアスに絡む姉さんを止めている間に、彼は自分の姉である王女を城から連れ出した。
その途中で、会った事もない【神官長】を助けなくてはならない、という強い想いに捉われて、自分の姉を部下に託して戻ろうとした時には、事態は既に収束していたらしい。
その時彼は、自分の心に入ってくるのが誰の心であるかを知った。
「理由は判らん。だが、おれの心に入ってくる感情は、確かにあいつのものだ。
そしてその感情を一番強く揺らすのが、おまえの姉であるあの神官長らしい。
おれは一体どうすべきなんだ、ゴロー。
いっそすべてが侵食される前に、あいつを殺すべきなのか?」
「それは、姉さんが悲しむからやめてくれ。」
そう言うと、思い詰めていたらしい彼は、少し冷静になったようだ。
俺の思いには到底及ばないまでも、彼も自分の姉であるルイサ王女の事は、大切に思っているから。
…その王女は夫を亡くしたショックで心を患い、今はこのシーズン使わない別荘に、信用のおける者だけを側につけて静養させている。
目だけは覚ましたという報告があったが、一日中ぼんやりと過ごしており、状況が理解できている様子ではないという。
本来なら王女の身柄が安全に確保してある事だけでも、王宮に報告しなければならないだろうが、それはアローンの存在同様に時期を待てと、父に言われている。
帝国として、ライブラの王女は欲しい駒なのだ。
下手に王宮に戻すと、伴侶を亡くした彼女を得ようと、帝国が本格的に仕掛けてくる可能性が出てくる。
行方不明のままにして、様子を見た方がいい。
どちらにしろバルゴ王国との話し合いを終えてからでなければ、戦争の準備すら整えられない。
……いやまあ、うちの商会は現時点で、どんな注文も受けられるよう急ピッチで準備を進めているけどね。
戦争にさえ勝てば、帝国の干渉を憂う必要がなくなり、王女を次期女王として立てる必要もなくなる。
その時こそ、アローンをロアン王子に戻す時だ。
商会として、せっかく恩を売れる王子が王になるのに、生命の危険のある状態のままの王宮に返すわけにはいかないのだ。
…なんて事を言いつつも、父が自分が命を救った王子に対して、そこそこに情が移ってきているのは、見ていて丸わかりなのだが。
☆☆☆
「…今日はありがとう、アローン。
君も今日は泊まって行くといい。
いつもの部屋を、いつ来てもいいように整えてあるから。」
「ああ、そうさせてもらう。」
おれが王都に戻ってきたのはこの1年足らずの間だが、それから何度もこの家で寝泊まりしていて、勝手は既に判っている。
ゴロー(本当の名はメルクールだが、今は外では基本、本名と商会の御曹司の身分を使わないとの事で、ボロが出ないよう普段からそう呼ぶように言われている。やつに言わせるとおれは単純だから、使い分けをしようとすると混乱すると…改めて考えると酷い言いぐさだ)に促されていつもの部屋で休ませてもらう事にし、話をしていた部屋を辞した。
用意されている部屋に続く廊下を歩いていたら、反対側から何か、丸いものが転がって来たように見えた。
…だんだん近づくのをよく見れば、太った猫が歩いているだけだった。
猫はおれの足下で一旦立ち止まると、おれの顔を見上げた。
「うなんな。」
そう一声鳴いて再び歩き出し、おれの足元を通り過ぎる。
………何だったんだ。
そう思いながら再び前方を向くと、並んでいるドアのひとつが薄く開いて、そこから中の灯りが漏れ出しているのに気がついた。
どうやら猫は、あの部屋から出てきたものらしい。
何という理由もなく、その内側を覗き込むと、一人掛けソファーのひとつに、人がひとり座っているのが見えた。
どうやらこの部屋はプライベートサロンであるらしい。
…何故だか判らない衝動のままに、おれはその部屋に足を踏み入れた。
件の人物は、おれが真正面に立っても、全くなんの反応も示さない。
大まかな形と大きさからするとどうやら女であるらしい、そいつの顔を覗き込む。
女は、ソファーの背もたれにすっかり身を任せ、その瞼は閉じられており、すうすうと規則正しい呼吸を……
………………うん。とてもよく、寝ている。
何故だと思うと同時に、こんなところで寝かせていては風邪をひくのではと、近くの呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばし、その直前で思いとどまる。
使用人を呼ぶのはともかく、彼女の眠りを妨げるのは、どうにも躊躇われたからだ。
改めて、その女の寝顔を見下ろす。
艶やかな長い黒髪、血色の良い、健康的な肌色と、形のいい赤い唇…そこまで目にして、はたと気付いた。
おれの世界に、色がついていた。
これまで目にしたことのない、鮮やかな色が。




