1.地下室の床は冷たい
ーーーー世界が反転した。
光は闇に、闇は光に。
正は負へ、負は正に。
それは、かれこれもう五年も昔のこと。
森林は、そのあらましが荒廃し、鼻を刺すような腐臭は世界中を呑み込んだ。
私の内に巣食う凄絶なる激情は温厚へと姿を変え、あれだけ血の気を逆立ててた、暴れ馬のような昔の自分は、もうどこにもいない。いや、それだけではない。
もう私の知っている世界は、この世のどこにもない。探しても、探しても、見つからなかった。
家族ーーない。友達ーーない。知り合いーーない。
ーーーーーーない、ない、ない、ない。
私は、柄にもなくあらゆる書物に目を通した。テレビや新聞でニュースも見た。ラジオも聞いた。
この異常状態が何なのか、焦燥の念にかられ、私はあらゆる方面から情報を掻き集めた。
無論、誰の助けもあるはずもない。
なんせ人の属性は『悪』。私の家族や友達、街の人の悲劇的な変わりようを見れば悟るのは容易い。
だから助けがない、いや助けを求めない。
他人と目線を合わせることが、今は心底恐ろしい。
『天邪鬼』となった今の私なら尚更。
ただこの世界において独立した私は、今置かれている状況を理解しようと一心不乱に足掻いた。
そして運良く逃げ込んだ実家の地下でただ一人、時には雨を飲み、数少ない貴重な食料である虫や木の実に意地汚く貪りつく生活が続いていた。
♧
現在、17歳。これまでに得ることが出来た情報は、大きくまとめて三つとなる。言い換えれば三つだけだ。
私の五年間は、ほとんど意味を成さなかった。
それでも私は、それを薄汚れた「ノート」に事細かに筆を持って綴り始める。
初めは取るに足らない情報でも、数を集めれば、あるいは、真意に近付けるかもしれないと考えたからだ。
…………内容の大部分を割愛するとこうなる。
一.人格の反転。
人の善悪は入れ替わった。大きな慈愛の心を持つものほどその変貌は目に余るほど醜悪なものである。
二.異変の起きた日時。
2042年、7月7日。早朝四時頃。
当時。外では時期外れの、窓を割るような、強いひょうが降っていた。
これは観測史上最大のものとなり、犠牲となった死者は何十人も出てしまった。
同時に、地球全体を包み込むように積乱雲が何の前触れもなく突発的に出現した。
三.霧の正体。
7月7日以来、当時とまるで同じ強さのひょうが、毎月のように降っている。
その間に地面から湧き上がるように出現する妖しげな薄暗い霧。
水上置換法により調べてた結果、正体は普通のものより分子の大きい二酸化炭素だった。
しかし、出現する場所やその色による問題など、まだまだ謎は多い。
ーーーー
ーーー
ーー
ー
そこまで書き終わったところで、ようやくギシギシと私は椅子にもたれかかった。
どっと疲れが波のように押し寄せてくる。
気を抜くと、そのまま倒れてしまいそうだ。
この地下室、間取りは3LDKほどで、電気やガスは勿論通っていない。
灯りはロウソクだけが頼り。
しかし、それももう尽きかけている。
なんたる、不憫さ。しかしそれでも私は地下室で暮らすしかないのだ。
この上の実家には歪んだ感情を持つ人間が入りこんでるかもしれない。元正義者。今は悪者だな。
そんな危険に身を晒すぐらいなら、ここで暮らした方が精神的に楽だと判断した結果である。
ベッド、机、木工椅子がこの部屋に存在し、余分な家具は置いていない。ただでさえ狭い部屋だ。
これ以上狭くしてはストレスが溜まってしまう。
「……………、」
何となく気になって、机の引き出しを開ける。
取り出したのは小さな小汚い手鏡だ。
果たして3ヶ月以上手入れしてない私の姿はいかに。
少しでも可愛ければ上等なんだけど……。
淡い期待は一瞬のうちに塵芥へと変わってしまった。
「うわ、これ私かよ!流石にこれは酷いな……クマひどいし、肌荒れすげえ……」
想像以上だ。悪い意味で。
四方八方を向いた薄い金色の髪の毛たち。はっきり言ってしまえば痛みまくっている。
これ、手入れして治るかな。治るといいな。
そして顔の毛穴も少し目立ってる気がするし、クマも沈着して目立ってる。
もう最悪だ、やってらんねえ……。
よし決めた。絶対に外には出ない。
まあ、いつも出てないけどね。
「んっ?なんか臭くね?」
次に目線を顔の下にまで落として、またもや愕然と肩を落とした。
予備がないので、ずっと着続けていたピンクのモフモフしたパジャマも、遂には寿命が来たようだった。
今までノート書くのに集中して気づかなかったが、結構黒ずんでて足裏みたいな匂いがする。
「あーあ、パジャマはデパートで盗ってこないとダメなのかなあ。人に見つからないように行くの結構疲れるんだよなっ……って冷たしっ!」
地面は純白のコンクリート貼りで、驚くほどヒンヤリとしていた。もう冬が来たのだろうかと思わせる。
言ってしまえば、実際に冬が来たかなんて、カレンダーも時計さえ持っていない私に分かるはずもない。
なんなら、ここまで冷たく感じたのは私が素足だったのもあるかもだ。
「う、靴下とかもそろそろ盗らないと」
……………………………、
「まあ、明日行けばいいか。……今日はもう寝る……」
そして行動することを先送りにしたした私は、椅子に座ったまま、スッと息を絶ったように、三日ぶりの就寝を始めようとしていた。
明日のデパート遠征に備えて存分に力を蓄えなくては……。ゆらりと消えていく真紅の静光を目尻で見ながら、すぐに私の視界は暗転した。