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願いの猫様

作者: 海猫銀介

 肌寒い風を受けながら、俺は遠目からでもはっきりと見える一本松へと向かって自転車を漕いでいた。 もうすっかり寒くなったもんだ、少し前まで汗だくで漕ぎ進めていたというのに、俺の両手はがちがちに冷え切って真っ赤になっている。

 そろそろ手袋とカイロに人肌が恋しくなる季節だ、まさに冬の訪れを実感するには十分すぎる程に今日は冷え切っている。

 ようやく目的地についた俺は自転車を止めて、籠の中から缶詰を取り出した。 それを待ち構えていたかのように、一本松の根元から歩み寄ってくる金眼に茶トラの猫。どこにでもいる雑種の猫だ。 こいつの視線は俺が持つ缶詰、つまり猫のエサに釘付けって訳だ。

 こいつとの出会いは少しばかり時を遡る事になる。 丁度夏休みに入る前の頃だった。 俺は学校で流行っていた妙な噂を耳にした。 何でも学校から見える大きな一本松には何でも願いを叶える神様が宿っているんだとか。

 俺の高校では妙な都市伝説が流行る事が多い。例えば死んだ人と通話ができるスマホの噂だとか、或いはコミュニケーションアプリのグループを4人組で立ち上げた際に、一人ずつ順番に発言を繰り返していると謎の5人目が出現するだとか、正直ろくでもない事ばかり耳にしていた。

 それだけの噂でざわつく周囲とは裏腹に、俺はあまり興味を示さずに、ただ愛想笑いをするだけだった。友達にはつれない奴だとよく言われる。

 そんな中、俺が唯一興味を持った噂と言うのが一本松に宿る願いの神様の話だった。 理由なんて特にない。 強いて言えば、その願いの神様とやらに興味を持ったぐらいだ。

 都市伝説のほとんどはスマホやアプリに関するものばかりだというのに、唯一これだけは全くデジタル機器に関連しない、本当に昔話に出てくるような話だったのが逆に好奇心を掻き立てたのかもしれない。

 しかし、俺はすぐにその好奇心を持ったことを後悔する事となる。 わざわざ汗だくになって必死になって自転車を漕いできたというのに、辿り着いた一本松の地には、文字通り本当に何もない空き地となっていた。

 いつからこうなっていたのだろうか、空き地の中心には例の一本松が堂々と深く根を張り立っている。木の事はあまり知らないが、少なくとも相当昔からそこにあったのだろうと推測を立てる事はできる。

 俺はただ呆然と立ち尽くすだけだった。 本当に何もない、なんて面白くないのだろうと嘆いた。 そもそも俺に願いなんてあっただろうかと考える。 普通、俺ぐらいの高校生なら彼女が欲しいだとか、成績で一番になりたいとか、部活で全国大会に出たいとか山ほどあるだろう。

 しかし、ある意味俺は現代の典型的学生と言っていい程、夢も希望もない平凡な学生だ。成績はそこまで望まない、別にやりたい事なんて特にない。彼女が欲しいと思ったことはあるが、別にそこまで血眼になって望んだ事はない。

 友達はよく俺の事をつまらない奴だと言う。多分俺も、ほかに俺みたいな奴がいたら同じ事を思っているに違いない。

 結果、特に願い事も思いつかなかった俺はそのまま帰ろうとした。が、一本松の根元付近で小動物の影が見えた。 もしやと思い俺はそっと近づくと、そこには右足をケガした茶トラの猫が身体を小刻みに震わせていた。

 素人でもわかる程、猫は衰弱しきっている。 俺の事に気づいていないのか、猫は必至で右足を舐め続けている。 俺はそっと手を差し出すと、ようやく気付いたのか猫は耳を立ててフーッと威嚇をしてきた。

 このまま放っておくわけにもいかないな。 ひどく警戒されているが、野良猫である事は間違いない。 人慣れしていないのは仕方ない事だ。

 だが、困った事に俺の家は母親が猫嫌いなせいでこのまま家へ連れて行く訳にもいかない。少し悩んだ挙句、近くに動物病院がある事を思い出して俺は猫を病院へ連れて行こうと捕まえた。

 もちろん、猫は容赦なく抵抗する。 自慢の爪でひっかかれ続けて、捕まえてもジタバタ暴れてすぐに逃げようとする。 気が付けば俺の手は傷だらけだし、このままでは埒がかないと俺はため息をついた

すると猫は急に大人しくなり、俺の事をじっと見つめていた。

 ようやく慣れてくれたのか? 今なら連れていけるだろうと、俺はそっと猫を抱き上げて自転車の籠の中に入れた。 その後、俺は病院でとんでもない金額を請求されて今月のバイト代の半分が吹き飛ぶ事になる。




 と、まあ。そういう訳で、病院で手当てを受けた後、家に連れ帰る訳にもいかず、かといって放っておくこともできなかった俺はしばらくこの地で猫の面倒を見る事にした。

 こいつはいつも日の当たる場所を見つけて心地よく眠っている。こんな何もない場所で寒い思いをしてるんじゃないかと思う事もあったが、どうも上手く木葉で凌ぐだとか、或いは捨ててあった新聞紙だとかダンボールの中に入るなりして凌いでいるようだ。 流石野良猫なだけに逞しい。

 空き地には三つの皿を置いている。 俺がわざわざこいつのために買ってきた餌用の皿だ。

 俺はいつも通りの缶詰をあけてやって、一つ目の皿に出す。二つ目の皿にはペットボトルで組んできた水を補充する。 いつもたっぷり水をあげてるが、こいつはいつも全て飲み干している。 猫だってそりゃ喉が渇くんだろうな。 そして三つ目にはドライフードを適当に置いとく。大体これで一日持っているはずだ。

 今ではすっかりこいつの面倒を見る事が日課になってしまった。 なんというか、今まで何もなかった俺が初めて何かに芽生えた瞬間だったのかもしれない。 もしかすると俺は元々動物が好きだったのかもしれない。いや猫が好き、なのか?

 そういえばこいつに名前をつけてなかったなと、猫と目を合わせる。 が、すぐに餌にがっついてむしゃむしゃと食べ続ける。

 なんだかその姿を見ると名前なんてどうでもよくなる。 ま、気が向いたら考えといてやるか。

 しかし、ずっとこのままこの地で離し飼いにするのも可哀想な話だ。どこか心優しい飼い主が現れてくれればいいが、それよりも俺が何か行動を起こしてやるべきだろうな。

 あの母親を一応説得はしてみたが、やはり猫嫌いはどうしても直らないようで、強引にこいつを連れてったところでヒステリーを起こして俺が猫と共に追い出されかねない。

 さて、どうしたものかと俺は深くため息をつく。そんな人の気も知らずに、猫は餌を食べ終わると暢気に昼寝をし始めていた。

 こいつはどう思っているんだろうな、今の生活を。俺はいつまでもお前の面倒を見てやれるわけではないが、それでも幸せだと思っているのだろうか。 そもそも猫に幸せという感情があるのか? 猫はただ何も考えずに、ただただ生き続けているだけなのか?

 人間みたいにあれこれ悩んで、自分の人生どうするだとか、そんな面倒な事を一切考える必要がないんだろうな。

 まあそこは俺も一緒だ、そんな面倒な事考えたくもない。 ひょっとして、俺達は似た者同士なのかもしれないな。

 と、猫に向かって言ってみるが通じるはずもなく俺は思わず苦笑いをした。 さて、そろそろ帰るか、と俺は一本松をもう一度見上げる。

 この中に願いの神様がいるんだっけか。 もうそんな事すっかり忘れていたな。 もし願いの神様がいるってんなら、どうか猫の願い事でも叶えてやってほしいもんだ。ま、あいつが何を願っているのか知る由もないんだけどな。




 翌日、いつもの如く俺は一本松へと向かう。 今日は手袋をしているし手は寒くはない。 いつもの通り自転車を止めて付近を見渡すが、今日はどうも姿を見せないようだ。

 別に珍しい事ではない、必ずしも寝ている訳でもないし、別に慌てて探し出す必要もない。 餌だけ置いとけば、気が付けば空っぽになってるしあいつにも用事があって外出するときもあるんだろうさ。

 俺も俺で今日は珍しく友達との約束があるので、さっさと餌だけ置いて帰ろうとした。 その時、俺は先客がいた事に気づいた。

 女の子だ、同じ学校の制服を着ている絵に描いたようなブロンド長髪に金目の美少女。 髪を風に靡かせて光の反射でキラキラと輝いていた。

 例の噂で有名なこの土地だ、同じ学校の奴がこの場所に訪れる事なんて珍しくはない。 この前も同級生の女の子がここに訪れてて、俺と遭遇した時に何故かビンタされた事があるぐらいだ。 女心ってのはわからん、多分恋の関係で悩んでたのだろう。 そこにいる子も間違いなく、恋愛関係の悩みを抱えてるに違いない。

俺は交友関係もそんなに深くないし、当然ながらあの女の子とは面識はないのは承知だが、それにしてもこれだけ綺麗な金髪をしていてまるで目に留まらなかったのも不思議なもんだ。 俺の高校は校則は厳しめだし、髪を染める事も禁止されてる。 悪い意味でも金髪ってのはそれだけ注目を浴びやすいはずなんだけど。

 こういう時は一切声をかけず、俺はいつもの通り餌を置いてさっさと帰る。 特に今日はあいつもいないので尚更だ。

 すると、女の子が俺の姿を見て目をキョトンとさせていた。 まあ、そりゃ驚くか。 いきなりチャリ漕いで出てきたかと思えば、何も言わずに猫のエサを手に始めた訳だし。

「ア、アノ」

 例の少女が、俺に声をかけてきた。 少し訛った日本語だ、もしかして留学生か? 俺の高校に留学生がいるなんて聞いた事なかったけど。

「なんだよ」

 驚いた俺はついぶっきらぼうな返事をしてしまう。 もう少し気が利いた言葉が浮かばなかったのか。 どうやら怖がってしまったのか、それ以上少女は何も言わなかった。

「あー…えっと、ごめん」

 一言だけ謝って、俺は逃げるように自転車へ乗った。 別の悪い事をしたつもりはないが、正直見知らぬ少女、ましてや留学生と話すなんて間が持たない。 こんな事している以上、一生俺には彼女はできないに違いない、と俺はひたすら無心になって自転車を漕ぎ進めた。




 今日は土曜日、俺の学校は土曜も休みだ。 わざわざ用事もないのに夕方ぐらいに学校を横切って、俺はいつもの場所へと向かう。

今日もあいつはいないようだ。 二日連続で姿を現さないのは珍しい。 餌の皿を見てもちゃんと空っぽになっている事から、一応戻ってきているとは思う。

 しっかり飯さえ食ってれば余計な心配をする必要もないが、それにしても姿を見せないのは少し寂しい。 とはいえど、これは俺のわがままか。

「ねこ、いるですか?」

「うおあっ!?」

 俺は素っ頓狂な声を上げる。 振り向いた先には、例の美少女が驚いた顔をしていた。

「な、なんだよ。 ビックリさせるなって」

「ごめんなさい、その。 うまく、はなせなくて」

 少女は申し訳なさそうにしている。 なんだか俺が悪い事したんじゃないかと、何故か猛烈に罪悪感を抱いてしまう。

昨日のような訛りは幾分かマシになっているようにも見えるけど、そもそも昨日はあんまり話してなかったわけだし最初からある程度は話せたのかもしれないな。

 よく見ると休日だというのに制服を着ている、学校に用事でもあったのか? そういえば俺には無縁だったが、校庭で部活動に励む生徒達の姿はしっかり見ている。 別に珍しい事でもないか。

 まあ、何の用でここにいるのかはさっぱり知らないけど。

「ここの猫の事、知ってるのか?」

「いえ、その、おさら」

 美少女は皿を指さしていた。 俺が昨日、猫に餌をあげてたからそれが気になったのか。 まあ、普通そうだよな。 野良猫に餌をあげてるなんて不思議に思うかもしれない。

 でも、俺にとってあいつはただの野良猫じゃないんだけど、どう説明したらいいものか。 俺は少し眉間に皺を寄せて考え込んでいた。

「おこってる、ですか?」

「あ、いや。 ちょっと、説明が難しいというか。 飼ってるんじゃなくて、その、ここで世話してるんだよ」

「どうしておせわ、してるですか?」

「そりゃ、可哀想だろ。 野良猫なんてほっとけば長生きできないし」

「やさしいひと、ですね」

「いや、そんな事はないだろ。 こんな外で離し飼いしてる時点で」

 ちょっと俺はひねくれた言い方をした。 実際あいつの事では結構悩んでいる。 自分で飼う事はできないし、だからといって飼い主を探すようなこともちゃんと考えてるわけではない。 俺にできる事はせめて学校帰りに面倒を見ることぐらいだし、まあ休みの日もわざわざ足を運んでるわけだけど。

「そうだ、もしよかったら飼ってみないか?」

「あ、ごめんなさい。その、よくわからなくて」

「ああ、ごめん。忘れてくれ」

 咄嗟に思い付きだった。 この子は猫に興味があるようだし、優しそうな性格をしている。 少し話しただけでもそれなりに人柄と言うのは伝ってくるもんだ。

 ただ、俺もいきなり飼えだなんて無責任なもんだ。 当然すぐ承諾するわけでもないし、断られて当然だろう。

「あの、あなたはどうして、ここに?」

「いや、特に理由がある訳じゃないんだけど…もしかして、知らないのか?」

「しらない?」

 少女は首をかしげていた。 俺はてっきり例の噂目当てでここに来ていると思ったが、どうも違うようだ。

「あの木あるだろ、でっかい一本松だ。 どうもあの中に願いを叶えてくれる神様が宿ってるんだってさ。 俺の高校じゃ有名な話なんだけど、知らなかった?」

「え、えと。 その、まだなじめてなくて」

「もしかして転校生?」

「ううん、えっと。 ごめんなさい、うまく、いえない」

 わざわざ俺に合わせて慣れない日本語で話してくれてるのはありがたいが、少し気の毒にも感じてきた。 俺が英語でもできればこんな苦労はなかったんだろうけど。

「まーなんだ、慣れない言葉だと伝えられない事がたくさんあってもどかしいよな。 俺ももし英語で話せって言われたら、そりゃもう単語とジェスチャーで何とかごまかすぐらいしかできない。 それに比べたら十分立派じゃないか、謝る必要もない」

 少女は呆然と俺の目を見つめていた。 なんだか照れ臭いから思わず目を逸らしてしまう。 それに俺は何を言っているんだ。

「そうだ、神様に願ってみたらどうだ? 学校に馴染めるようにだとか、日本語をもっと上手く話せるようになりたいとかさ」

「あ…もしか、すると」

 彼女は何か言いかけると、首を横に大きく振るった。

「今日はその、ありがとでした。 また、おあいしましょう」

 すると、彼女は急にそそくさと逃げるように去っていった。 一人残された俺は思わず呆然と立ち尽くした。 不思議な子だ、なんだか放っておけないし、危なっかしいというか。

「ああ、そうか。 あいつに似てるんだな」

 俺は一本松の木に目線を向けて呟く。 いつもそこで寝ているアイツの姿を思い浮かべながら。




 今日は日曜日。 変わらず俺は例の場所へと足を運んだ。

二日ぶりにあいつの顔を見た。 元気そうに餌を貪っている。 全く、この二日間どこで何をしていたのやら。

 俺は一本松を背に青空を見上げた。 ふと、昨日の少女の事が思い浮かぶ。 転校生か、これから先の学園生活に不安を抱いていたのだろうか。

 もう少し彼女の悩みを聞いて力になってやるべきか? まあ、そこまでお節介を焼く必要もないかもしれないが、それにしても気になってしまう。

 綺麗だったな、可愛いというより綺麗が似合う、正真正銘の美少女だ。 純粋そうで、でも世間を知らなさそうな危なっかしさも持ってて。 今時あんな子、いないよなぁ。

「お前もそう思うだろ?」

 毛繕いをしている猫に声をかけるが、俺の事なんて気にも留めていないようだ。 まあ猫なんて気まぐれな奴だよなぁ。

 と思ったら、そんな俺の事を気遣ったのかぴょんと膝の上に乗ってきて、そのまま丸まって気持ちよく眠りだした。 膝の上に乗ってくるなんて初めてじゃないか? ようやくこいつも俺に慣れてきてくれたんだなと嬉しく思う。

「こいつの事、もう少し真剣に考えないとな」

 自分で口にした通り、こいつをそのまま放し飼いにする訳にもいかない。 これから先、どうするか。 飼い主を探すか、はたまた母親を再度説得してみるか?

 こいつは何を望むんだろうな、このままここにいたいのか? それとも、暖かい家に拾われたい? わからない、俺にこいつが望んでる事なんて、何が幸せなのかなんて。 もしかするとここから離れたくないとか、仮に飼い主が見つかったとしてもちゃんと面倒見てくれるのか、こいつがそれを望むのか? そんなのわかりっこない、だったらこのまま現状維持で放し飼いし続けるのが最適なんじゃないか? と俺は頭を悩ませた。

「そう難しく、考える事じゃないだろ?」

 俺は自身に問いかけた。 そうだ、俺の考えすぎだ。 こいつがここにいる事が幸せなはずがない、このままでいいはずがないんだ。 言い訳ばかりしてないで、こいつの為にちゃんと飼い主を探してやろう。

「待ってろよ、お前の願いしっかりかなえてやるからな」

 猫だって幸せぐらい願うはずだ。 勝手な事を言ってしまったが、お前を助けてしまった以上、俺は責任を取らなきゃいけないしな。

 人の気も知れず、暢気に寝ている猫を起こさないようにそっとどかし、俺はその場を立ち去った。




 世間が最も憂鬱な曜日と言えば月曜日だ。 大半の人は月曜日と言えば休日明けであり、気怠い中、学校や仕事へと向かう憂鬱なスタートを切る事が多いだろう。

 まあ、どっちかと言えば俺はそこまで学校は嫌ではないし面倒でもないし、どーせあの場所へ行く以上はいつもと変わらない。

 今日もあいつの姿はないようだが…その代わり、あまり見たくなかった光景を目の当たりにする。

 例の美少女が、一本松を前に佇んでいる。 それだけなら何も問題はなかったんだが、どうも今にも泣きそうなぐらい悲しそうな眼をしていた。

 いつもの俺なら、このまま見なかった事にして放って帰るところだ。 こういう場面に出くわしのは初めてではない。 よく失恋した女子生徒がここで泣いている場面を見る事はあったんだ。

 勿論、大半の人は一人でいたいと思う事が多いし、俺なんかがいたら気まずい雰囲気になるだろうから空気を読んでいるつもりだ。 だが、今日はどうしても気になってしまって声をかけてしまった。

「どうしたんだ?」

「あ…」

 俺に気づいたようで、彼女は溢れそうな涙をそっと自分で拭う。 そして、俺に向かって微笑んでくれた。

「いえ、その。 かなしいわけじゃ、ないです」

「なら悩みか? もしかして、クラスの誰かにいじめられたか?」

「ちがうのです、その。 えっと、あなたのおかげです」

 俺の、おかげ? 俺は思わず言葉を失って呆然とする。

「かなしくなんてありません。 その、あなたがおしえてくれた、から。 ねがいごと、かなうです」

「願い事? 何か願ったのか?」

 彼女はゆっくりと首を縦に振る。 そしてもう一度笑ってこう言った。

「これで、さいごかもしれません。 いままで、ありがとうございました。 わたしはとても、しあわせです」

「…は? なんだって?」

 それだけ言い残すと彼女はふっと姿を消した。 ――消えた?

「お、おい…どこ行ったんだっ!?」

 俺は必至で辺りを探し回った。 名前も知らない綺麗な少女。 特に多くの言葉を交わした訳ではないけど、俺はもしかするとあいつの事を知っていたのかもしれない。

 もう一度確かめたい、確認したい。 そう思って俺は無我夢中に探して回って、でもやっぱり見つからなくて諦めた直後だった。

 俺はいつもの一本松へ戻ると、思わず目を疑いたくなるような光景が俺を待ち受けていた。

「嘘だろ……」

 俺は言葉を失った。 一本松の根元で横たわる茶トラの猫。 ただ寝ているだけだと思った、でも明らかに様子がおかしい。

呼吸をしていない、いつもは少しでも寝息を立てていたり、ほんの少しお腹周りが呼吸の度に膨らんだりしているんだ。

 俺は勇気をもって触ってみた。 驚く程冷たくなって、固かった。 俺はもう一度触った、そして猫を何度も何度も揺さぶってみた。

 やはり目を覚まさない。 あんなに元気だったんだ。 昨日も餌を貪って、野良猫の癖に腹を膨らませて思いっきり俺に見せつけながらゴロゴロして。 初めて俺の膝に乗って、一緒に昼寝もしたんだ。

「どうして、だよ」

 これからちゃんと、お前の幸せのために…何とかしてやろうと思ったのに。 どうして黙って行っちまうんだ?

気が付けば俺は泣いていた。 あの少女の事を探す事なんか忘れるぐらいに大泣きしていた。 参ったなぁ、俺はあの子を励ますつもりだったのに。

いつぶりだっけな、こんなに泣いたのは。 ああそうだ、小学生の頃に友達と大喧嘩して、お互いにわんわんと泣き散らかした事があったな。 ったく、高校生にもなって、俺はとんでもなく恥ずかしい奴だ。




 しばらく経つと俺は学校へと戻り、スコップを借りてきた。 せめてあいつの墓ぐらい用意してやらないと。 幸せにできなくてごめんな。 もっと俺が早く動いていれば、お前の異変に気付いていればこんな事にはならなかったはずだ。

 せめて、生まれ変わったら今度こそ幸せになってくれ。 もっといい飼い主に恵まれて、もっといい暮らしができるように、と俺は願った。

「……願いの神様」

 ふと、俺は思い出した。 そうだ、ここには神様がいるじゃないか。 神様の奴、ちゃんと猫の願いを聞いてやったのか? だとしたら薄情なもんだ、猫の願いをかなえるどころか、あいつを不幸せにしやがって。 なんでちゃんと見てやらなかったんだ?

「いや、違う……」

 そうだ、見てやらなかったのは俺じゃないか。 神様になんて八つ当たりしてどうするんだ。 願いの神様のほうがよほどあいつの事を見守っててくれたんじゃないか? ひょっとして、俺があいつと出会ったのも、神様の力なんじゃないか? だとしたら、あいつの願いって一体……何だったんだ?

「わかりっこねぇよ…あいつの願いなんて」

 やめだやめだ、現実逃避するのはやめだ。 俺はただひたすら猫の冥福を祈って、あいつを土に埋めてやった。

 もう、二度とこの場所にも来ないだろうと俺は三つの皿を回収した。 なんだか心が空っぽだった。 明日からは、またいつもの日常に戻る。 あいつと出会う前の、つまらない日常に戻されるんだ。

 こんなに喪失感を感じる物か。 それだけあいつの存在は俺にとって重要だったのかもしれない。 何気ない日常と言うのは失ってから重要さに気づくもんだ。

 去る前に俺はもう一度一本松を眺めた。 ちょうど夕暮れ時と重なって、俺の心情と相まって妙に哀愁漂っているように見えた。 でも美しかった、悲しいぐらいに。

「じゃあな」

 俺は吐き捨てるように呟き、その場所を後にした。 どうかあいつが、幸せであるようにと願って。




 あれから二か月後、我が家にちょっとした変化が訪れた。 つい最近、あれだけ猫を毛嫌いしていた母親が急に猫に目覚めたようで、気が付けば家中猫グッズに埋もれていた。

 猫のカーペットから猫のカレンダー、猫のTシャツにぬいぐるみやらと、思わず俺もうんざりするほど猫で溢れている。

 一体どういう風の吹き回しだかわからない。 なんだか友達に猫カフェへ連れてかれたら、その時猫の魅力に気づいたらしい。 そもそも猫嫌いは、昔猫に自分の布団へおしっこをされた事が起因していたらしいが、今思うと可愛いから仕方ないで済まされるようになったようだ。 まるで何かにとりつかれたかのような心境の変化っぷりに思わず恐怖さえ抱く。

 そして、ついに我が家は猫を飼う事が決まった。 どうも近所の猫が二カ月前に子猫をたくさん産んだらしく、里親を募集してたところ母親が飛びついたらしい。

 今日、我が家に新たな家族が迎えられようとしているのだが、俺としては複雑な気持ちだ。 もし、もう少し早く母親が猫嫌いを克服していれば、あいつをここに連れて、もしかしたら今でも元気な姿が見れたかもしれないのに。

 過去を悔やんでも仕方ない。 そろそろ母親が猫を連れ帰ってくるはずだがと待ち構えていると、玄関からチャイムが鳴る。

 母親が開けてくれと叫ぶと、俺は玄関のカギを開けて扉を開いた。

母親は猫用のキャリーバッグを抱えていた。 実は猫を飼うと決めた時に、先に買っておいたキャリーバッグらしいが、気が早い事だ。 それに、外へ連れまわす気満々のようだが、まあ深くは追及しない。

「ねぇちょっと見てみなさいよ、クリクリと可愛い目をした子猫なのよぉ?」

 母親は声を甲高くして喜んでいる。 少し前はその声で真逆な事を言っていたはずなんだが。 ともかく、なんだかんだで俺も猫の到着を楽しみにしていたので、そっとキャリーバッグを開いた。

「あ…」

 俺は思わず絶句した。 キャリーバッグの中にいた子猫は、あいつそっくりだった。 茶トラの毛並みにキラキラとした金眼。 毛の模様まで驚く程似ている。

「どうしたの?」

「いや、別に」

 冷静に考えて、そりゃ同じような外見の猫はいるだろう。ただの思い違いだよな、と思っていた。 だが、ふと俺は同時にあの美少女の事を思い出した。

 あれ以来あの地へ訪れていないし、学園内でも逢ってはいない。 そういえばあの子が消えたと同時にあいつが現れて、そして二か月後に…やってきたこの猫は?

「ねー? 可愛いでしょぉ? そうだ、名前つけてあげないとね。 ほら、アンタ得意でしょ。 名前考えてあげなさいよ」

「え、俺が?」

 そんな無茶ぶりをするなよ。 俺はあいつにさえ結局名前をつけなかったというのに。 まあでも、これがもしあいつの願いだとしたら……今度こそ。

「ああ、ちょっと考えていた名前があったんだ。 それはな――」

 一本松に眠る願いの神様、ねぇ。 俺には全く実感はないが、少なくともあの場所に神様がいたってのは間違いないようだ。

 どうやら願いの神様とやらも大の猫好きのようだ。 いや、むしろ神様自身が猫なのかもしれない。 もしかしたら俺たちはとんでもない勘違いをしていて、あの一本松に眠る神様の正体は、願いの猫様だったのかもしれないな。

 なんて、な。 と俺は鼻で笑いながら、あいつそっくりな猫を両手で抱きかかえた。 心なしか、あいつがよろしくなと言っているような気がした。 だから俺もこう返してやった。

「ああ、これからもよろしくな」

 あいつそっくりな猫は、俺の声に応えるかのように、にゃんと短く返事をした。


2年ぶりの文書なので特にひねりもなく練習のつもりで書きました

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