第六話「乱戦」
「遊んであげる前にひとつ訊ねてもいいかしら? あなたはアタシたち――アスティカ軍のことをどこまで知っているの?」
「……?」
手にした鞭を弄びながら、六人のレイヴンのうち一人が紘子に問いかける。質問の真意が分からず、紘子は剣を構えたまま答えない。
「魔法界の連中からいろいろ聞いているでしょうけれど。この人間界をつけ狙うタチの悪い侵略者集団……大方そんな程度のざっくりしたことしか知らないでしょ?」
不敵な笑みを崩さずに、別のレイヴンが言葉を続ける。
「……だったらどうだって言うの」
紘子が低い声で返す。今この病院の騒ぎを見れば、目の前にいる彼女たちがしていることは侵略行為の何でも無い――そう思っているからだ。
「フフ……いえ、別に? その認識は間違っていないわ。それにそもそも憎むべき敵の事情なんか知ったことではないわよね。それでいいのよ、あなたたちは」
「……何が言いたいの」
「さぁ? 自分でもよく分からないわ。あなたたちがあんまりイイコちゃんだからつい、ね」
一言ずつ別々のレイヴンが続ける。その表情は変わらなかった。
「さて、お喋りタイムはおしまいにして始めましょ。アッチの方はなかなか盛り上がってるみたいだし?」
チラ、と一人のレイヴンが視線を別方向へ向ける。
「ホラぁっ! どうしたのよガキんちょッ!?
「くぅぅ……!」
その先ではまっ黒な羽を広げたリコリスがカナに襲い掛かっていた。鋭い爪を力任せに振り下ろす。カナは防護魔法を眼前に展開し受け止めるが、その防御が破られるのは時間の問題に見えた。
「カナちゃん……!」
助けに入ろうとする紘子の視界に、鋭い速度で迫る何かが映った。
咄嗟にその場から横跳びで離れると、コンクリートの床を鞭の一撃が砕いた。
「あなたの相手はアタシって言ったわよね? お友達のところに行く前にやることあるんじゃなくって?」
先程までの笑みに明確な殺意を込め、鞭を振るったレイヴンの視線が紘子を射抜く。
「……アンタを、倒す」
「そうね。やれるもんならやってみなさいな」
剣を向け、目の前の敵へと駆け出す。鞭のしなる音が空を切った。
金属同士を叩きつけるような音が響く。その度に走る衝撃が小さな体を突き抜け、大きなダメージこそないものの確実に体力を奪っていく。
「ぐ、ぅ……!」
「何よぅッ、いつまでそーしてるつもり!? 守ってばっかじゃリコには勝てないわ、よッ!!」
一際力の籠った攻撃がカナの防護魔法を打ち据える。
「うあぁぁっ!?」
何度も打撃に耐え抜いた光の盾は限界を迎え弾け飛ぶ。受け止めきれなかった衝撃でカナの体が吹き飛ばされる。
「ぐ……、ぅぅ」
またも壁に打ち付けられカナが呻く。膝をついて杖を支えに立ち上がろうとするが、その前にリコリスが立ちはだかった。
「何よアンタ、ぜんっぜん話になんないじゃない。姉様もなんでこんな弱っちい奴らを気にしてるのかしら? それとも何、アンタもしかしてリコのことナメてるわけ?」
苛立たしげにカナを見下ろしながら吐き捨てる。
「ホラ、いい加減本気出してみなさいよ。じゃないとホントにツブしちゃうわよ? たかが人間のガキひとりどーってことないんだからさぁ」
「あ、ぐぅ……」
片手でカナの首を掴むと、そのまま無理やり立ち上がらせる。指が喉元に食いこみ、カナの口から苦しげな声が漏れた。
「あーぁ、もういいわ。向こうのデカブツもあのおばさんがサクッとバラしちゃうだろーし、ホンット来た甲斐がないってのよ」
「ぐ……あうぅッ!!」
カランッ、とカナの杖が落ちて音を立てる。リコリスの手がより一層細い首を絞め上げる。カナは両手でその手を振り解こうとするがビクともしない。
「そうねぇ……ムカつくからくたばり損なったここの連中もついでにヤッちゃおうかしら? 周りに来てる奴らもウザいから一緒にさぁ。ヒマつぶしくらいにはなりそうじゃない?」
そう言い終わらない内に、振り解こうとしていたカナの右手がリコリスの目の前にかざされる。
「……あ?」
直後、その掌に小さな光の球が収束していく。ヤバい――リコリスが危険を察知したのとその場から離れたのはほぼ同時だった。
カナの掌から強烈な光が拡散され、リコリスが翼を全開にして空中に避難したのはその直後のことだった。
「……ケホッ、ケホッ……はぁ、はぁ……」
右手から僅かに煙が立ち込め、左手で首元を抑えながら苦しげに咳き込む。そんなカナをリコリスは呆然と空中から見下ろしていた。
(何よぅ今のバカみたいな量の魔力解放は……!? あんなチビのくせに……!!)
冷や汗をかきながらリコリスは驚愕していた。まったく予想外の反撃をしてきた相手は、ようやく呼吸を整えこちらを真っ直ぐ見つめている。
「……させない……みんなを傷付けるなんて、絶対にさせない!」
落とした杖をもう一度手にし、空中のリコリスを見据えながら叫ぶ。
気魄に圧されつつも、リコリスは忌々しげに舌打ちをした。
「あっそ……なら」
黒い翼の角度を変えると、カナへ向けて急降下する。その表情は苛立ちを隠せず、薄ら笑いは完全に消え失せていた。
「力づくで止めてみなクソガキィィィ!!」
少女を八つ裂きにしようと、鋭利な爪が凄まじい速度で迫った。
「はぁあああああっ!!」
気合を乗せた大剣が振り下ろされる。しかしその一閃は虚しく空を切った。
「フフ……そんな大振り、避けてくださいって言ってるようなものよ。単細胞の機兵ちゃんたち相手ならまだしも、ね」
一瞬前には剣先の軌道上にいたはずのレイヴンが、わずかに移動した場所で不敵に笑っていた。
「この調子じゃいつまで経ってもこの人数差、縮まんないわねえ」
「そろそろ疲れてきてるんじゃない? 動きのキレが落ちて来てるわよ」
周囲を取り囲む六人の魔女が口々に剣士をあざ笑う。その言葉通り、剣を振るい続けた紘子の息は次第に乱れて来ていた。
「はぁ、はぁ……」
剣を構えた少女剣士の足元に汗が落ち始めていた。
彼女を疲弊させているのは常に全力を乗せた一閃の空振り続きだけではない。コンクリートの床には何か強い衝撃が走ったような跡がいくつも刻み付けられている。
「その疲れ始めた体で避けられるかしら? ……ほらぁっ!」
「くぅっ……!」
紘子の正面に立っていたレイヴンが右手を素早く横薙ぎに振るう。張り詰めた空気を切り裂くような音を聞き、紘子はその場から飛び退こうと脚に力を込める。
数分前なら問題なく成し得たであろう回避行動。その直後にこそ反撃の好機は生まれる、そのはずだった。
「……あぐッ!?」
ビシィィィッ!! という渇いた音と短い悲鳴が重なって響いた。
右肩に鋭い痛みが走る。衣装を切り裂き肌に焼きつくようなその痛みに、紘子はたまらずその痕を手で抑える。
「ウフフ……大当たり♪ 痛いでしょ? 鞭で叩かれるって」
剣士を打ち据えた鞭を手元で弄びながら上機嫌そうに笑う。そんな蠱惑の魔女を紘子は睨み返す。
「ぐ……っ、こんなの、どうってことないっ……」
「あらそう? もしかして痛いのが好きなタイプ?」
――ズバァァァンッ!!
「うぁあああッ!!」
またしても鳴り響く打撃音。
背中に走る激痛に、その場に膝をつく。
「う……! ぐ、あッ……!」
背後にいたレイヴンの振るった鞭は、紘子の背中にくっきりと痛々しい痕を刻み込んでいた。
べったりと張り付く痛みに紘子は歯を食い縛って呻く。
「あらあら、二回叩いただけでもうダメ? お子ちゃまにはハード過ぎたかしら」
「やっとおとなしくなったわねぇ。あんな威力の斬撃、避けるにしても肝が冷えたわよ全く」
「どう? もうアタシたちのジャマしないって誓うならこのへんにしといてあげるわよ。レイヴンお姉様ってば優しいでしょ?」
痛みに耐える剣士を取り囲む輪がどんどん小さくなる。抵抗を続けるなら逃げ場は無い――無言の圧力でそう伝えているかのようだった。
「……誓うわけない……そんなことっ……」
低く芯の通った返答だった。俯いたまま、剣を支えにゆっくりと立ち上がる。
肩から背中に焼け付く感覚は薄れるどころかジリジリと痛みと痺れを伝えてくる。
それでも剣士は立ち上がり、正面の魔女を真っすぐ見つめ答えた。
「このくらいで……私たちは、負けない……!」
「ふぅん……いいわぁ。あなた本当にアタシ好みよ。ブラッドがお気に入りなのもよーく分かるわ」
「じゃあもうちょっとキツ~いお仕置きしちゃおうかしら。いつ音をあげるか楽しみねぇ」
言い終わるが早いか、ヒュン――と小さな音がした。
「ぐ、うっ……!?」
やっと立ち上がった直後、呼吸を阻害される感覚に紘子はくぐもった声をあげる。
首に鞭が巻き付いたことに気づいたのはその数瞬後だった。
「フフ……このまま一気に絞め落とすなんてつまらないことはしないから安心しなさい」
「もっともそのほうがまだラクかもしれないけどねぇ」
首に巻き付いた鞭を振り解こうとする両腕、さらに両脚にも鞭が一本ずつ巻き付く。
計五本の鞭が少女剣士の体を拘束した様子はさながら蜘蛛の巣に絡めとられた蝶である。
「ぐ……離してっ……この卑怯者……!」
「これだからお子ちゃまは嫌ねぇ、正々堂々なんてコトバだけじゃ世の中やってけないわよん?」
「そもそもさっきから使ってるこの幻惑分身も鞭捌きもアタシの大事な能力なの。自分の能力を最大限に生かして何が悪いっていうのかしら?」
解放されようともがく紘子だったが、鞭の拘束は一切緩まないどころが徐々にきつく締まり体の自由を奪う。
「さて……言ったように今からはお仕置きタイムよ」
「ただの人間じゃどうだか知らないけれど、正義の味方なら耐えられるわよね?」
いつの間にか十五体にまで増えたレイヴンの分身が一斉に鞭を構える。
「覚悟はいいわね? ……いくわよ」
振り下ろされる鞭の嵐。
そのすべてが一人の剣士に唸りを上げて殺到する。
「ぐ……ああっ!? あぐぅっ……! う……ッあぁあああああーーーーっ!!」
勢いをつけた鞭の数々に全身を打たれ、紘子が絶叫する。
打ち付ける箇所をずらしながら、かつ打撃の無い瞬間が無いように、全身を満遍なく絶え間なく何発も打ち据えられる。
その度に紘子の身体は激痛にのたうつが、自由を奪われた状態では痛みから逃げることも出来ずまともに鞭の雨に打たれ続け叫び続ける。
「いいわよぉっ、アナタの声とっても素敵! もっと聴かせてちょうだい!」
恍惚とした、それでいてそこはかとなく興奮したような表情を浮かべながらレイヴンは鞭を振るい続ける。
「うあああッ……!! ぐうう、あっ……くぁあああッ……!!」
魔力に保護された魔法衣のあちこちが裂かれ全身が鞭の痕に覆われた頃、ようやく魔女の責めが止む。
拘束していた鞭が離れ、紘子は力なくその場に倒れた。
容赦のない打撃に晒され続けた身体をうつ伏せに横たえるその姿はダメージの大きさを物語っている。伸ばした指先に剣の柄が触れるが、握るだけの力も残っていなかった。
「……う……ぐ……」
「フフ、久しぶりに楽しかったわ。でもちょっとやり過ぎちゃったかしらね」
立ち上がる気配のない紘子を見下ろしながら満足げに笑うレイヴン。勝負はついたと確信して満身創痍の剣士から後方へと視線を移す。
その視線の先ではもうひとつの戦いが決着を迎えていた。
「うあああっ!!」
背中から壁に叩きつけられカナが叫ぶ。
痛みに顔を歪ませ、力なく壁にもたれかかったままその場に崩れ落ちる。
衣服が破け、ところどころに痣や傷が出来ていた。
「う……うぅ」
「フン、いい加減くたばれってのよクソガキ。弱っちいクセに何度も何度も立ち上がってホントめんどくさいんだから」
鋭い爪の生えた右手を退屈そうに遊ばせながらリコリスが近寄る。
「んんっ……負けない、もんっ……」
それでもなお杖を支えに立ち上がろうとするカナを見て、リコリスの顔は怒りに歪む。
「……アンタ、マジでウザいわ」
吐き捨てるように呟くと、ブーツを履いた右脚で少女の腹部を蹴り飛ばした。
「っ……!!」
無防備なお腹を爪先で無慈悲に抉られ、カナは目を見開く。
痛みと苦しさに呼吸を阻害され、蹴られた腹部を両腕で抱えてうずくまった。
「……っ、あ……ぐ、うぁ……は、うぅっ……」
投げ出された杖がコンクリートに落ち、苦痛に震える少女の傍らで音を立てる。
黒い羽の生えた小悪魔がその様子を冷徹に見下ろしていた。
「アンタさぁ、マジでアタマおかしいの? そんなザマでどうやってリコ達に勝とうっての? ねぇなんとか言いなさいよ」
「……あ、ぐ……! あああぁぁっ……」
頭を踏みつけられ、徐々に力を入れられる。その小さな身体のどこにこんな力があるのか、脚と床に挟まれた頭がミシミシと悲鳴を上げ始める。カナは悲痛な声を絞り出す。
「デカ女もどうやらおばさんに叩きのめされちゃったみたいだし、なんかもう飽きたからどーでもいいわ。じゃあねクソガキ」
「う、ぎ……あ゛ぁあああぁぁあああッ!!」
更に強い力でギリギリと頭部を圧迫され、少女のものとは思えない程の絶叫が響き渡った。
「……かわいそうに、あの魔導士のお嬢ちゃんったらリコリスを本当に怒らせちゃったみたいね」
「ああなったらもうブレーキ利かなくなるのよあのコ。子供って残酷よねえ……あら?」
少女の絶叫を聴きながら他人事のように口々に呟くレイヴンだったが、何かに気付く。
「……驚いた。その状態で立とうっていうの?」
鞭の嵐に散々痛めつけられたはずの剣士がゆっくりと体を起こし始めていた。
地に手をついて上体を浮かすだけでもそのダメージの深刻さは色濃く、それでも剣を足元に突き立てて無理やり身体を動かそうとしている。
「……カナちゃん……っ、今……助け……っ……」
息切れしつつ、何度も倒れ込みそうになりながらも確実に立ち上がって来る。
足元はおぼつかず、支える剣にまでその震えが伝わりすぐに崩れてしまいそうな紘子の様子にレイヴンは少なからず驚嘆の念を抱いていた。
(凄い……今にも倒れそうなのにこの剣気、迂闊に手を出したらこっちが飲まれそう。それにさっきまでと比べて魔力の絶対量が異常なまでに膨れ上がってる。大型機兵を単身で粉砕出来たのはこのせいかしら?)
ようやく立ち上がりこちらを射抜く紘子の視線は、満身創痍の少女とは思えない程強い意思を持っていた。
(仲間の危機に奮起して――なんて説明で片付けるだけじゃ納得できないくらいのチート級バカブーストね)
「傷付いた体で無茶をするものじゃないわ、フラフラじゃないの。そんなにお友達が心配?」
「でも残念ね、あなたはあのコの所へは行けない。ここで倒れるの!」
今一度その身体を打ち据えようと紘子の元へ鞭が殺到する。
避けることすら敵わないような猛撃の嵐の刹那、紘子は何かに弾かれたように地を蹴る。
鞭の嵐を無理やり掻い潜り、一瞬で一人のレイヴンの懐へと距離を詰めた。
「……!? 速……!!」
鞭を振り抜いた所への超速接近に、目は追いついても体の反射神経がついていかない。
「――あぁあああああああああ!!」
咆哮と同時に振り下ろされた大剣は稲妻となってコンクリートに叩きつけられる。
その衝撃でレイヴンの分身は跡形もなく掻き消えた。
「……呆れた。こんなの何体作っても追っつかないわね……」
一閃で自分の分身を一人屠ってみせた剣士にレイヴンの額から冷たい汗が流れる。
分身とはいえ自分本体と何ら遜色のない力を持たせ、本気を出せば三十体程度は複製し同時に操れる。その技術と魔力の容量には自信を持っていたつもりだったが、目の前にいる手負いの剣士はそんな彼女すらも震え上がらせた。
「……だけどその体でいつまで無理が利くかしらね!?」
怯まず鞭を振るい続ける。相手の抱えるダメージは大きい。ならばもう一度叩き伏せるのは容易いはずである。
だが手負いの剣士は止まらない。その身にいくつ新しい傷を刻まれようとも、次々に敵の前まで疾走し全力で刃を振るい続ける。
(嘘……どうしてそんなに動けるの!?)
分身が次第に数を減らしていく中、レイヴンは目を見張る。
防御も回避も全く考えていないその立ち回りは、通常なら長く続くはずが無かった。しかし何発打たれても紘子は止まらない。肌が裂け血を滴らせている箇所も数えきれないのに、全く速さが落ちない。
レイヴンの胸には徐々に焦りと、確かな恐れが芽吹き始めていた。
(とにかくどんな手を使ってでも動きを止める……それで終わりよ)
握った鞭の柄に力が篭る。その表情からはあの不敵な笑みは消え失せ、目の前の脅威に対峙する魔女の姿だけがそこにあった。
「……らぁぁああああああっ!!」
全身の傷の痛みと疲弊を吹き飛ばすように叫ぶ。
横薙ぎの剣先が魔力で作られた分身を切り裂く。残された最後の一体だったその残滓は、しかしそれまでの分身の消え方とは違った。
「……っ?」
魔力の塵はそのまま霧状となり、消え去ることなく紘子の体の周りに纏わりつく。
剣を振り抜いた余韻で一瞬無防備となったその隙間に視界が霞み、吹き荒ぶ一陣の風となっていた剣士の体がほんの毛一本ほどの停滞を産んだ。
直後、霧の奥から黒いものが自分へ向かって迫って来るのが見えた。
頭が避けなければと直感していても、疲れとダメージの蓄積した体はその命令をほんのコンマ何秒か遅れて受け止めた。
そのごく僅かの遅れのせいで、紘子の身体は黒いものに抑え込まれた。
「……くっ……こいつは……!」
紘子の体を腕ごと抱きかかえるように一匹の闇蜘蛛が貼り付いていた。
八本の脚を正面から背中側に回し、その眼は獲物を捕らえた喜びに笑っているようにも見える。
「フフ……びっくりした? 闇蜘蛛ちゃんの召喚もアタシの能力のひとつなの。能力は最大限に使うものって言ったでしょう?」
「くぅっ……離せ、このっ……」
何とか体を揺すって脱出しようとしても意味を成さず、闇蜘蛛の脚は強い力で紘子を抑えつける。
「無駄なことはおよしなさいな。……さて、やっと捕まえたあなたをまた分身作ってイジメちゃうのもいいんだけど、ワンパターンだし何より疲れるのよねぇ」
なおももがき続ける紘子を舐めるように見ながら、再び不敵な笑顔を作る。
「このコも腹ペコのようだし……せっかくだから餌になってちょうだい」
右手を掲げてパチンと指を鳴らす。それを合図に蜘蛛が動き出した。
キキ……と鳴くとちょうど紘子の顔の前にある牙のような両開きの顎が待ち侘びたように開閉する。
器用に拘束したまま頭部分を動かすと、紘子の胸元にある赤い宝石――マギクリスタルに目を付けた。
「くっ……やめ……っ」
紘子の制止など気にも留めず、鋭い顎が宝石を挟み込む。
「ぐ、ぁうううッ!?」
拘束された体がビクッと大きく跳ねる。
「どうやらご馳走を見つけたようね。たっぷりいただいちゃいなさい」
闇蜘蛛の目が妖しく光る。
その直後、クリスタルから赤い光が闇蜘蛛の体へと流れ込み始める。
「う……っあ……! くっ……ぐうぁああああーーーーッ!!」
紘子が悲痛な叫びをあげる。
抑えつけられた身体が苦痛のあまり暴れようともがくが、蜘蛛の八本の脚がそれすらも許さなかった。
「フフフ……魔力をモトから直接奪われるのはとっても苦しいでしょう? それとも気持ちいい? 蜘蛛ちゃんてばがっついちゃって、あなたの魔力が特別美味しいのかしらね?」
「うぁあああっ! く……あぐぅぅううう! ぐあぁぁあああっ!!」
下卑た笑みを隠そうともしないレイヴンの声も届かず、紘子は叫び続ける。
苦痛から少しでも逃れようと身をよじらせるが、蜘蛛の顎はクリスタルを捉えたまま微動だにしない。
その間にもドクン、ドクンと魔力が吸い上げられ手負いの剣士は苦しみ続けた。
(くる、しい……私、もうダメ……なのかな……)
延々と与えられる耐え難い苦痛に、意識が薄れて来る。
力なく開かれた手からも感覚が失われつつあった。
(カナちゃん……ごめん、ね……守ってあげられ、なくて)
(由香里さん……亜矢さんに……尚美さんも……ごめん……)
(……兄さ、ん……怒るかな……)
「……は……ぁっく……かはぁっ……」
「フフ、そろそろ限界かしら。正義の味方にしては張り合いが無かったわね」
苦痛にもがくだけの力も残されていないのか、膝をついてくたっとうなだれたまま紘子は断続的に喘ぐ。
魔力の最後の一滴まで吸い上げようと蜘蛛は赤い宝石に吸いつき続けている。
「あ~ぁ、姉様のお気に入りなのに結局二人ともツブしちゃった。まぁこいつらが弱っちすぎるせいよね、リコは悪くないもん」
紘子の様子を見物しながらリコリスはさもつまらないといったようにつぶやいた。右脚はすでに気を失っているカナの頭に乗せたままだ。
それにしても、とリコリスはふとある事を思い出す。
(このクソガキ……一回だけバカみたいな量の魔力をぶっぱしやがって。アレは何だったってのよ?)
病院や周囲にいる人間に手を出す――特に大した事とも思わず軽く挑発の意味で口にしたその言葉の直後、この少女は確かに予想外の力を発揮した。
あの大女が先ほど見せた、限界を超えるような鬼気迫る力にも驚かされた。
(あのいつもスカシてるおばさんがちょっとの間とはいえマジでビビるなんて……)
「人間――いったいなんなのよ、アンタらは……」
突如、どこからか大きな音が響いた。
パァンッ――という何かが炸裂するような、渇いた音だった。
「ギィィィイイイーーーーッ!!?」
直後に耳をつんざくような不快な声をあげたのは、紘子の魔力を貪っていた闇蜘蛛である。
紘子から離れるとボトリとひっくり返った状態でコンクリートの上に落ち、八本の脚をばたつかせて足掻き始める。
「な、何事よっ!?」
レイヴンが叫ぶと、さらに炸裂音が二度三度と鳴る。それと同時に闇蜘蛛の体があちこちから弾け、闇蜘蛛は激しくのた打つ。
そしてついに動かなくなった蜘蛛の体は粒子となって解けるように消え去っていった。
「……う……ぁ……?」
何が起きたかも理解できぬまま、戒めの解かれた紘子の身体はぐらりと後ろに倒れ込む。
その上体が固い床に落ちる直前に、突然現れそっと抱き支える者が現れた。
「遅れてごめんなさい……もう大丈夫だよ」
凛とした中に優しい響きを持った声を紘子は聞いた。その心地よい声には確かに聞き覚えがあった。
自分の手を暖かく包む温もりも紘子はよく覚えていた。
翠色がまばゆいセミロングの髪と、胸元に同じ翠の色を湛えたクリスタル。
同じく翠色をアクセントとしたコルセットにフリルスカートのドレスという装いは、基調とするデザインこそ紘子やカナの魔法衣と通ずるものの一際少女的な雰囲気を漂わせている。
「……由香里……さん……? どう、して……」
息も絶え絶えに紘子は疑問を口にする。自分たちの帰りを待っているはずの彼女がなぜ、戦いの場に現れたのか。
その問いかけに由香里は何も言わずに微笑む。心配しないで――そう言われている気がした。
「そういえばもう一人お客さんが来てるって事すっかり忘れてたわ。でも随分遅かったわねぇ、寄り道でもしてたの?」
「とぼけないで。この空間に変な細工して普通じゃ入れないようにしてたのはあなたたちの方でしょう?」
「フフ、ええそうよ。こっちとしては別に三人一緒に相手してあげても良かったんだけどねぇ。今日の目的はあくまでそのボロボロ剣士さんと向こうの魔導士ちゃんの二人だけだったから、他のコにはちょっとイジワルして空間断絶魔法で門前払いさせてもらったのよん」
そこまで言ってからレイヴンは「あら?」と気付く。
「じゃあどうやって入って来たの? あなた」
「……よぅ、そこの性悪おチビちゃん。うちのチビッ子が随分世話になったみてーだなぁ」
「何よアンタ……だったら何か文句でもあるワケ?」
カナを足蹴にしたままリコリスは訝しげに吐き捨てる。
その視線が見上げる先にはボリューム満点の金髪に胸元の開いたレザーの上下という、いかにもな風貌の大柄な男が立っていた。口には煙草を一本くわえている。
「あー大アリも大アリよ。とりあえずアレだ、おじさん怒らせないウチにその足どけようや。ハナシはそっからだよ」
「ハァ? いきなり現れたよくわかんないオヤジにそんなこと言われる筋合いないわよ」
「んー、そりゃそうだ。ただなぁ、おじさんカワイコちゃんにはめちゃくちゃ優しくするタチなんだけども今日ばかりはちっと事情が違うのよ。これでも今めちゃくちゃハラワタ煮えくり返ってんのを頑張ってガマンしててよぅ」
くわえていた煙草を指で弄びながら、男は続ける。
「なぁ、おじさんの言うこと聞いとけって。悪いこと言わねーからよぅ」
「ふーん……イヤだって言ったら?」
その瞬間、リコリスは背中から強い衝撃を受けて吹き飛ばされた。
黒い羽を広げて受け身を取ってから気づいたのは、目の前にいた男に『後ろから』蹴り飛ばされたということだった。
「わりぃ。ガマン汁が出ちまった」
避けるどころか動きを感知することすら出来なかった――その事実にリコリスは軽く混乱した。
「人にゃ超えちゃなんねえラインてのもあるんだよ。……さぁどーする?」
蹴った状態から脚を戻しつつ男は静かに言う。
男の眼光にただならぬものを感じ、リコリスは羽をはばたかせて空へ舞い上がった。
「……フン! アンタのせいでどっちらけちゃったわよっ! そのクソガキ次は絶対に泣かせてやるんだから! バーカ!!」
捨て台詞を吐きながら上空に現れた魔法陣に吸い込まれていった。
「若いってなイイねぇ、怖いもんナシで」
煙を吐きながらそれを見上げる男。
「っと、うちのチビッ子は大丈夫かね。おい、カナ。おいってばよ」
足元に横たわる小さな身体を抱え起こす。返事はないものの呼吸は確かに続けている。それを確認して男は安堵したようにまた深く煙を吐いた。
「……こんなちっちゃな身体で頑張りすぎなんだよお前さんは。他人よりもてめぇがこんなに傷付いてどーすんだっての」
グリグリと小さな頭を撫でてやる。短くなった煙草から灰が落ちた。
「……結局勝手に先に帰っちゃうんじゃない、ホンット困ったお姫様だわ……」
「何? 今なにか言った?」
背後を振り返ることもなくつぶやいたレイヴン。由香里は訝しげに問いかける。
「いいえ、別に? それにしても……なかなかやるわねお嬢ちゃん」
三人目の戦士の姿となった由香里が両手に持つリボルバー式の二丁拳銃。見た目こそ銃身が長めなこと以外は特徴の無い銀色の拳銃だが、そこから連続して撃ち出される弾丸はレイヴンの召喚した闇蜘蛛数匹をことごとく撃ち抜いていた。
「どうしてこの世界はこうもおもしろいコばかり見つかるのかしらね。お姉さん嬉しくなっちゃうわぁ」
「……さっきからしてるよねその笑い方。人を傷付けて、苦しめて……いつもそんな風に笑ってるの?」
「ええ、そうよ。楽しそうでしょ?」
「最っ低……」
由香里が怒りを露わにする。そんな友人の姿を見るのは紘子も初めてだった。
「フフ……そう思うならアタシ達を止めてみなさいな。どんなに泣こうが喚こうが、結局のところ力が無ければ何も変えられないってこと、きっと思い知らせてあげるから」
そう言うとレイヴンの足元に魔法陣が描かれ、その中心に彼女の体はゆっくりと沈んでいく。
「今日はとっても楽しかったわ。また会えるといいわねガンマンのお嬢さん。剣士さんもまた素敵な声聞かせてちょうだいね、フフフ……」
やがて頭の先まで消えると魔法陣も消え失せ、辺りに静寂が戻っていった。
「鬼頭さんっ、大丈夫……じゃ、ないよね?」
敵がいなくなったのを確認するが早いか、由香里は背後で休ませていた紘子の元へ駆け寄る。
痛々しい鞭の痕に、力の入らない身体。どう見ても無事とは言い難い有様だった。
「さすがにちょっとしんどい、かな……ごめん」
「だからどうして鬼頭さんが謝るのっ!? 私がもっと早く……ううん、ポチから話を聞かされた時に最初から引き受けていれば、鬼頭さんもカナちゃんもこんなことにはっ……」
友人の傷だらけの姿を目の前にして由香里は罪悪感と悔しさで胸がいっぱいだった。
「あー、またそんなハナシかい。まったくおめぇらダチのくせして遠慮が過ぎねーか? 助かったんだからもっと喜べっての」
いつもの無神経な声。しかし振り向くとそこにいたのはいつもの小動物ではなく、カナを抱きかかえて煙草をくわえた屈強そうな男だった。
「……さっきから思ってたんだけど、誰この人……?」
突如現れた謎の男の素性を紘子は尋ねる。由香里の話によれば、レイヴンの空間断絶魔法を時間は掛かったとはいえ無効化させたのもこの男らしい。そのおかげでギリギリのところで紘子も助かったのだが。
「なにユーモラスなこと言ってんだよ。それともおじさん限定の塩対応かい」
「あのね、鬼頭さん。言ってなかったんだけどこの人……」
「いややっぱりちょっと待って……声とか喋りで大体分かって来ちゃったんだけど」
由香里の言葉のトーンで瞬時に何かを察する紘子だったが、もしその推察が当たっていたとしてその事実を飲み込めるか、それが不安で仕方なかった。
「おう、ポチだよポチ。みんなのアイドルポチちゃんだよ」
ああやっぱり……と思ったのと、体力の限界をとっくに迎えていた紘子の意識が途切れたのはほぼ同時だった。
狼狽えたように自分の名前を何度も呼ぶ由香里の声と、おいおいリアクションえぐいなお前、というポチの声を遠くに聞きながら紘子は深い闇へと沈んでいった。