①草庵の法師
草庵に法師ありけり。
昔、法師、いまだ世を捨てぬほどに、時の後宮にときめきたまふ女御の、御妹君をなむ恋ひたりけるとや。
左の大臣がむすめなれば、男の際のいまだ浅うて、さきのこととやかう契りあひはべりし。
折に、姉女御、にわかに病みづきたまひて、そのまま雲隠れたまひにしなり。
帝、げにかこちさせたまひて、女御をゆめにもえ忘れさせたまはずして、政もおろそかになむなりたる。
さることありて、帝、紫のゆかりをば思ひかかせたまひて、妹君を召させたまふ。
男、いかにか思ひけむ。
いかなる因縁にかあらむ。妹君、御入内ありてほどなく、先女御に次ぎて消え果てにけり。
帝、大御位を御弟宮に譲らせたまひけり。
男、世の無常を思ひて、世を捨てたり。
草庵の法師、ありし世のことどもをつれづれに思ひて、かく詠める。
草庵に繁く鳴きぬる鶯よ呼ぶもあだなり我が春はなき
法師の日記の、末の世まで伝わりたると聞きはべりしが、先つ方の戦火に失せはべりけるとや。いと口惜しきかな。
我のものがたりするは、人の口伝へにしことどもなり。
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《現代語訳》
ある草庵に、ある法師がおったそうな。
昔、法師がまだ出家していなかったころに、その時の帝の後宮で寵愛されていた女御がいて、彼はその妹君に恋をしたそうな。
だがその姫は左大臣の娘だったから、男の身分はまだ低くて、将来のことを姫とあれこれ誓い合ったのだった。
ある時、姫の姉である女御が、突然に病気におなりで、そのままお亡くなりになってしまったのだ。
帝は、たいそうお嘆きになって、女御のことを少しもお忘れにならないで、政治も疎かになってしまった。
そのようなことだから、帝は、姉妹の血の繋がりを恋しくお思いになって、女御の妹君を後宮にお召しになった。
妹君と恋仲だった男は、どのように思ったことであろうか。
どのような因縁があったものか。妹君は、後宮に入って間もなく、先に女御だった姉に次いで亡くなってしまった。
帝は、帝の位を弟宮にお譲りになった。
男は、世の中の無常さを感じて、出家した。
草庵の法師は、そのような過去のことをぼんやりと思い出して、このような歌を詠んだ。
「草庵にやってきては頻繁に鳴く鶯よ。いくら春を呼び込もうとしても無駄であるぞ。わたしの春は、あの人との日々は、もう失われてしまったのだから」
法師の日記が、後世まで伝わっていたと聞いていたのだが、この間の戦火のなかで失われてしまったのだとか。本当に、残念なことだ。
わたしが今語っているのは、日記がなくなっても人が口伝えに語り伝えていることなのだよ。