どちらが怖い?
浦野ハイツまで戻ってくると、均は新田さんと別れて203号室へと向かった。
これから雨漏り修繕に業者さんが来ることになっているのだ。ちなみに押入れのカビは朝のうちに除去を済ませている。その後、新田さんと待ち合わせ墓参りに行っていたというわけだ。
(まったく、休日だってのに働き詰めだよな)
心中でぼやいていたところで、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「どうも、ご苦労様です」
予想通り、ドアを開ければ作業着姿の中年の業者さんが立っていた。
さっそく部屋へ上げ、雨漏りの起きている押入れへと案内する。
「あー、これは酷いですね」
カビを除去したとはいえ、壁紙はベロベロで汚損も著しい。
「張り替えはどうします?」
「併せてお願いします」
「かしこまりました」
それから業者さんは天井板を外すと懐中電灯を片手に天井裏へ上半身を突っ込み、しばらくゴソゴソやっていたが、すぐに戻ってくると隣の部屋を見せて欲しいと言い出した。
というのも、203号室の天井裏からでは雨漏りの箇所が特定できないらしいのだ。
「多分、雨漏り自体は隣の部屋でしてるんですね。ただ、水は天井裏を伝ってこっちに出てきちゃってるって状態だと思います」
そんなわけで、二人して202号室へと移動。
洋室の有様にはさすがに驚いていたようだが、そこはプロだ。特に突っ込みを入れられることも無く、さっさと屋根裏へ上っていく。
やがて、戻ってきた業者さんが調査結果を報告する。
どうやら無事に漏水個所の特定はできたらしく、充填剤などを使って処置を施すことになるとのことだ。
これで一件落着かと、均が胸を撫で下ろしたのもつかの間のこと。
「それとは別件で、ちょっと気になることがあるんですが」
業者さんの追加報告は、多大な困惑を引き起こすものだった。
そもそもアパートの屋根裏というものは、当然ながら部屋ごとに界壁という隔壁で仕切られているものである。だからこそ、203号室からは202号室の天井裏の様子がうかがえず、こうして部屋を移動してきたわけだ。
しかしながら、この界壁は必ずしも強固なものとは限らないらしい。実のところ、多くの集合住宅で界壁は石膏ボードを重ね貼りしたものに過ぎず、その強度は人の手で破壊できる程度ということだ。
さて、御多分に漏れず裏野ハイツの界壁もまた、石膏ボードを重ね貼りしたものだった。
そして――
「ボードが壊れているんですよね」
微妙な表情で告げる業者さんの前で、均はしばし硬直した。
その事実を、一体どう捉えるべきなのだろう?
帰宅してからも均はずっと自問自答を続けていた。
――誰かがボードを壊したのか?
その場合、もっとも容疑者に相応しいのは今までで最も迷惑な住人だった麸谷という男だろう。
――では、麸谷には破壊衝動があったのか?
麸谷は昼夜を問わず騒ぐような非常識男ではあったが、少なくともアパート内で破壊行為に及んだりといったことは無かったようだ。
――ならば、何の為にそんなことをした?
隣室への侵入の為に開通させた可能性がある。もっとも、開通したところで天井裏は非常に狭く、よほど小柄な人間でなければ通れはしないだろう。そもそも、誰かがそうした被害を受けたという話はない。
(……むしろ、そんな話があったのは202号室の方なんだよな)
均は溜息をついた。
最初から思い当たってはいたことなのだ。界壁を壊したのが新田さんであるとすれば、隣室での怪現象が説明できてしまうことは。なにより小柄な新田さんであれば、屋根裏伝いに隣室へ侵入できる可能性は高い。
隣室の不在時に密かに侵入し、騒音を立てる老婆。
想像しただけで、均の全身が総毛立つ光景だった。
(いや、でも何の為にそんなことをするんだ?)
物盗り目的というわけでもなく、ただただ謎の怪現象というトラブルが引き起こすだけの行動。新田さんは、住人同士がいがみ合うのを見てほくそ笑むような性根の腐った老人だというのだろうか?
(何か違うんだよな……)
彼女は裏野ハイツの管理を生き甲斐のように感じているようだった。それなのに、トラブルを起こすというのはあまりに矛盾した行動だ。
根本的に、何かを勘違いしているのだろうか?
(やっぱり界壁が壊れていたのはただの偶然で、202号室の現象は超自然的なものであるとか。いや、そんな馬鹿なこと……)
と、そこで携帯にメールの着信音。
画面に表示された名前はまさに悩みの元凶、新田さんからのものだった。管理を任せるにあたって、祖父のように管理日誌でやり取りするつもりはないので、アドレスを教えておいたのだ。
暗澹たる気持ちで確認した内容は、要約すれば今日の墓参りについての感謝やアパート管理への意気込み等々、末尾は今後とも仲良くしてね、的な感じで締められていた。
そんなメールを読み終えて、ふと均は全てが腑に落ちたような気がした。
つまり、新田さんは寂しい人なのだ。
どこかにいるらしい孫にも会えず、思い出があるらしいアパートで一人暮らしを続けているような。だからこそ、暇の埋め合わせに管理に精を出し、やがて大家との交流を楽しみにするようになった。そう考えれば、真の動機が見えてきはしまいか。
――隣室への嫌がらせ行為は何の為なのか?
麸谷の死後、初めて騒音苦情があった頃の管理日誌には、次のような記述がある。
『202号室の件ですが、騒音を出しているのが私ではないかと言いがかりをつけられています。もちろん私はそんなことはしていませんし、同時刻にお隣が在宅であることを確認しています』
どうやら、新田さんとお隣には何らかの確執があったものと思われる。嫌がらせを始めるのに十分な理由といえるだろう。
――その場合、どうして住人が入れ替わった後も嫌がらせを継続したのか?
そんなことは分からない。隣人とは常に不仲になってしまうとか、隣室に人がいること自体が気に食わないとか、無断で立ち入ることに快感を覚えてしまったとか、適当な推測だけなら幾らでも成り立つが。
だが、ここでは新田さんが寂しがり屋であることを重視してみるとしよう。
この場合、そもそも隣室への嫌がらせ自体は目的でなく、トラブル化した状況をこそ欲した可能性が浮かび上がる。
管理日誌からは、そうした時期に祖父とのやり取りが濃密になっている状況が読み取れる。
当然ながら、管理人である新田さんはトラブルが起きるほどに、大家である祖父と話す機会が増えることになるものだ。祖父と交流をしたいがためにトラブルを引き起こす。一応は動機として成り立つだろう。
――友人相手にそんなことをするものなのか?
友人という言葉だけで実際の人間関係は推し量れない。
そもそも新田さんは祖父を友人と言っていたが、それはあくまで新田さんにとってのこと。祖父にとって新田さんがどういう存在だったのかは不明である。
(こう考えると、トラブルこそが新田さんと祖父とを繋ぐ歪な絆ということになるわけか……)
隣室で起きた不可解な騒音トラブルを、祖父は心霊現象と受け取った。
そして、二人で色々と相談して加持祈祷を受けたりしたわけだ。それは、新田さんにとっては楽しいイベントのようなものだったのかもしれない。魔除けの像を貰いに行くのだって、小旅行気分と言っていたではないか。
ぽたり、と腕に冷たい汗が落ちる。
いつの間にか、全身がぐっしょり汗塗れとなっていたようだ。均は思考を打ちきって、タオルで全身をくまなく拭った。すぐに、おそろしいほどの寒気に襲われたので、布団にもぐりこみそのまま眠りについた。翌朝起きた時、最悪の気分だったことはいうまでもないだろう。
その後――
均は一度だけ裏野ハイツを訪れた。
雨漏り修繕と界壁の再構築工事に立ち会うためだ。
その際、偶然102号室の入居者と会ったのだが、彼は見違えるようにご機嫌になっていた。
なんでも就職が決まったらしく、来月からは月々の支払いを多目にして滞納分に充てるとのこと。朗報に胸を撫で下ろしつつ、均は最大の懸念事項を確認する。
「最近、騒音の方はどうですか?」
「ええ……そういえばずっと無いですね。最後に音がしたのも五か月くらい前でしたっけ」
管理日誌の既述によれば、その頃に山寺へ魔除けの像を取りに行ったとある。
時期的には、新田さんが入院する少し前のことだ。それから間もなくして祖父が亡くなり、管理人不在のまま三か月が経過。魔除けの像は半年程で効果切れになるということだから、理屈的にはいつ騒音が発生してもおかしくはない。
だが、今日の工事で界壁は塞がれた。もし新田さんが犯人であるとすれば怪異は止まることになる。
そして、均は思うのだった。
心霊現象が事実である場合と、新田さんが犯人である場合。
どちらに確定した方がより怖いのだろうか、と。