102号室、203号室のトラブル
ピンポーン、と何の変哲もない電子音が響く。
102号室のチャイムを鳴らすのはこれで三度目となる。どうも居留守を使われているらしい。
(午前中なら単に寝ているだけって可能性もあったんだけどな)
念のためにと電気メーターを確認しておいたところ、回転速度が格段に速くなっている。
(明らかに部屋にいるね、これは)
ひとまず声をかけてみる。
「ごめんください! 大家です!」
すると、わずかに部屋の中から物音がした。
意を決してドアをノック。
「ごめんください! 大家です! ちょっとお時間よろしいですか?」
ややあって――
半開きにしたドアの隙間から姿を覗かせたのは、半袖短パンの陰気な中年男だった。痩せこけていて髪はぼさぼさ。よく眠れていないのか眼窩にはくまができている。
「あなたが大家さんですって?」
訝しげな視線を送られ、均は慌てて返事をする。
「裏野均と申します。この度、祖父に代わって新しく大家になりました」
「……お孫さんですか。それで、今日はどういったご用件で?」
「お伝えすることがありまして。まずは私の連絡先ですね。それから家賃の方ですが――」
「ああ、はいはい、分かってますよ。別に忘れてたってわけじゃないんです」
すると、中年男に唐突に言葉を遮られてしまう。そして衝撃の告白が、
「申し訳ないと思ってます。滞納が続いていることは」
「はえっ、滞納ですか!?」
思わず変な声が出るほどに、予想外のことだった。
振込先を伝えようとしただけなのに、なんでこんな厄介事が出てくるのか。
「あの、いつ頃から滞納……されてらっしゃるんですかね?」
「まぁその、三月分からなので六か月になりますか」
「六か月分! なんでそんなまた?」
「恥ずかしながら、去年の夏に失職してしまいまして。もちろん就職活動はしていたんですが、なかなかうまくいっていないもので」
何てこった。均は頭を抱えたくなった。
(これってまずいんじゃないか? 回収できるのかそんな金額? ひとまず一刻も早く出て行ってもらった方がいいよなぁ)
そんな心中を見透かしたかのように、中年男はこう続けた。
「弱ったことに私は天涯孤独の身の上でして、ここを出たら行く所が無いのです。しかし幸いなことに、あなたのお爺さんはとても理解のある方でした。新しい仕事が見つかるまでは、家賃は待ってくれると仰って下さいましてね」
「……そうだったんですか」
その辺りの経緯については、実際のところどうなのか分かりはしないが、
「とはいえ、これ以上滞納されるのもさすがに。ひとまず月々のお支払いだけでも再開していただけませんか?」
「それはちょっと厳しいです」
「……大変なのは分かります。ですが――」
と、みるみるうちに中年男が険のある表情となった。
「あなた、私に死ねっていうんですか?」
「まさか! そんなつもりじゃ」
「じゃあどんなつもりだって言うんですか? こっちだって、食費すら切り詰めて必死で頑張ってるんですよ! あなたには分からないでしょうね。毎日毎日、職安に通うだけのみじめな生活なんてものは」
「ああ、いや……その」
こういう時、何と返せばいいのやら均にはさっぱり分からない。今更ながら、職場のクレーム対応をちゃんと観察しておけばよかったなぁ、と思う。
(本当、尊敬するわ。俺には無理じゃないのかな)
遠い目をしている均をよそに、中年男は堰を切ったように積もり積もった不満を捲し立てる。
「だいたいねっ! こんな部屋、他に借り手なんてつきやしませんよ。私だって本当ならとっくに出て行くつもりだったんです。それを、未だに住み続けてるんだからむしろ感謝してほしいくらいです」
「……どういう意味ですか?」
さすがに均もムッとした。滞納の上に逆ギレまでされては我慢も限界である。
「そんなにご不満なら、どうぞ出て行って下さって結構ですが」
「っと――これは失礼、さすがに口が過ぎました。申し訳ないですこの通り」
へらへらと愛想笑いを浮かべなら拝み手をする中年男。
失職した理由が、なんとなく見えてこようというものである。そんなことより問題なのは――
「口が過ぎたということは、アパートに何がしかの問題はあるんですよね。どういったことでしょう?」
「ええ、まぁ。ちょっと騒音が……ね」
「騒音ですか」
なんでも、夜中になると上の部屋から耳障りな物音がするらしい。
部屋中を歩き回る足音らしきものや、物を落とした際に生じるような大きな音などである。騒音は以前にも起きたことがあり、その際は大家に苦情を言ったら直ぐに収まったのだが、今回は家賃滞納の負い目があったので大家には黙っていたのだそうだ。
「なるほど……住人の方が夜型なんですかね。分かりました。後で注意しておきますよ」
「よろしくお願いします。ああ、家賃の方ですが、ひとまず来月からはなんとか払うように頑張りますので……」
「了解しました。滞納分については猶予を設けますので、来月分からのお支払いだけはよろしくお願いします」
「ありがとうございます」
そんなわけで、お互いぺこぺこと頭を下げ合いつつ、均は部屋をあとにした。
早速202号室に向かった均は、先ほどのようにチャイムを鳴らしつつドアをノックし名乗りを上げる。だが、今度は何の反応も返ってこなかった。部屋の電気メーターがほとんど動いていないことからすると、これは本当に留守なのかもしれない。
と、階段の方で大きな物音が。
見ればお婆さんが階段を登ろうとしている所だった。小柄な体には不釣り合いに大きなカートを抱えており難儀しているようだ。
「よろしければ手伝いましょうか?」
思わず声をかけると、お婆さんは品の良さそうな笑みを浮かべ、
「ああ、助かります。お願いしてよろしいかしら」
案の定、このお婆さんはアパートの入居者だった。
名前は新田セツ子。201号室に住んでいるとのことだ。
均が祖父に代わって新しい大家になったことを明かすと、新田さんは大層驚いた様子でいたが、
「お茶でも飲みながら、ゆっくりお話を聞かせてもらえないかしら」
とのことで部屋に上がらせてもらうことになった。
だがその前に、長期間部屋を開けていたとかでちょっとした手入れが必要らしい。
そこで均は十分後の再訪を約束すると、空き室となっている203号で待機することにした。この部屋はアパートを訪れる前に連絡を取った不動産屋から、唯一入居者を募集している部屋だと聞いていたため、今日のメンテナンス作業では拠点として使っていたのだ。
203号室のドアを開けるなり均は室内の臭いを確認する。
(よし、大分落ち着いてきたな)
この部屋は長期間放置されていたせいか、当初は下水の臭気が漂う悲惨な状況だったのだ。慌てて換気や水廻りへの注水をしたものの、こびりついた臭いが取れるかどうか一抹の不安があったのだが、この分なら大丈夫そうだ。
一点だけ気になるのは、とある臭いの発生源が見つからなかったことだが――
と、そこで洋室の物入れが目に留まった。
(そういえば、ここってまだ開けてなかったよな)
湧き上がる嫌な予感を抑えつつ、恐る恐る扉を開ける。
「うぉあああああっ!」
悲鳴を上げたのも無理はない。物置の中は黒カビ地獄だったのだ。
その有様は天井からコールタールを垂らしたかのごとく。つまり元凶となる水源が、天井付近にあるということなのだろう。
(てことは雨漏りかよ。何てこった)
急いで業者を手配しなければ。幾らかかるか分からないが、手痛い出費となるに違いない。それに、これ以上のカビを拡大を抑えるためにも、早目にカビ落としをしなければならないだろう。
「あーもー、マジ勘弁してくれよ」
掃除道具はどうするか。祖父の家にならカビキラー位あるかもしれないが。
(と、その前にあのお婆さん……新田さんの部屋に行かないと)
時計を見れば既に十分経っている。均は201号室へと移動した。