1-5 対峙
その日は時間の流れが遅く感じられた。
時計の針は止まっているかのようで、授業にも身が入らない。絵でも描いていられるならばあっという間なのだろうが、クレヨンを使っていることは誰にも知られたくないからそれもできない。
そして、ついに。
四限目の終鈴が鳴る。声を上げたい衝動を必死に抑え、吉野はノートと筆記用具を机の中に仕舞った。
そのまま横に掛けていた弁当袋に手を伸ばそうとしたとき、教室の扉が開く。
「篠原吉野という子がいるのはここか?」
開口一番、今朝のあの男がそう言った。
当然クラス中の注目が集まるなか、吉野は平静を装いながら廊下へと出る。
「今朝の続きですか」
あくまでも警戒は怠らないままに、吉野は問う。
もし彼がその気なら、クラスメートたちの目があるここで戦うのは避けたいところだ。
「否、ここで争うつもりはない」
男は首を横に振り、手にしていた物を吉野に差し出した。
「落とし物だ」
「生徒手帳……私の?」
思わず制服のポケットを探してみるも、有るべき感触はそこには無く。
「中庭に落ちていた。……飛び降りた時に落としたんだろう、あまり無茶をするものじゃないぞ」
言い終えると、男は吉野の手を取って生徒手帳を受け渡す。
そのまま何事も無かったように立ち去ろうとする男に、吉野は思わず呼び止めた。
「これだけのために?」
「これでも平和主義者なんだ。『彼ら』はともかく、君はまだ普通の学生で居られるだろう?」
それだけ言うと、男は再び歩き出した。
◇◆◇
「シノ、陰山さんと知り合いなの?」
教室の中から九曜が声をかけてくる。話している内容までは聞こえていなかったのか、純粋に好奇心からくる問いかけのようだ。
「ううん、今朝少し話しただけよ。その時生徒手帳を落としたらしくて、それで届けてくれたみたい」
聞かれて困るほどではないがわざわざ言うほどでもない。
そう考えた吉野はざっとあらましだけを説明する。
無論、二階から自発的に飛び降りる等の詳細を知るダブルアイズやミスティがその心情を知れば「そんな気楽なものじゃないだろう」と全力で抗議するだろうが。
「カナちゃんこそ、あの人と知り合いなの? 名前も知っているみたいだし」
すると九曜は驚いた表情で「有名人だよ」と答える。
「陰山明宏さん。フリーの演出家で、音響も照明もぜんぶ一人でできちゃうから、『独演装置』なんて呼ばれているみたいだよ」
「詳しいのね」
吉野が感心していると、九曜がこっそり耳打ちする。
「ここだけの話、文化祭のゲストとして呼ぶ予定なんだって。会長さんと副会長さんが用事だから今日は生徒会ないんだけど、もしかして打ち合わせなのかも」
そこまで言って九曜はふっと表情を変えて、パンフレットが刷り上がるまでは内緒だよ、と慌てて付け加える。
「……打ち合わせって、体育館でやるのかしら」
男──陰山が歩いていった先を思い出しながら吉野が尋ねる。九曜は、違うんじゃないかな、と否定して、
「やるとしても、生徒会室か小会議室あたりだと思うよ」
「そう」
文化祭までもう少し。下見や、搬入という可能性もある。
だが吉野はどうしても嫌な予感が拭えなかった。
「ごめんなさい。なるべく早く戻るから、カナちゃんは先に食べていて」
「え? シノ?」
九曜の制止も聞かずに駆け出す吉野。渡り廊下を抜ければ、体育館まで一分とかからない。
カタン、と簀の子の音が響く。一瞬迷ったが、上履きを脱いで吉野は出入口の扉に手をかけた。
ゆっくりと。静かに。音で気付かれないよう細心の注意を払う。
そうやって、開いた扉の先は暗闇だった。
場内は暗幕も下ろしているらしく、何も判別がつかない。
まずは明かりだ、と足を踏み出す吉野。照明のスイッチへ向かおうとする彼女の目に光が飛び込んできた。
闇の中の光。
それが予想外だったのか、吉野の体が硬直する。
「警告はしたぞ」
奥から陰山の声が聞こえた。
ああそうか。
音に気を遣ったところで。
吉野を照らす光の向こう側からして見れば、今の彼女は格好の的だ。
自身の軽率さに歯噛みしながら、しかし視線は光から逸らさない。
「警告? 保身に走って、代わりにあの二人を見捨てろと言うの?」
金縛りにかかったような重圧が吉野を拘束する。乾ききった口内がひたすら不快だった。
「そのために、君自身の人生を棒に振るとしても?」
「あなたにそんなことを言われる筋合いは無いわ!」
がくん、と膝から崩れ落ちる吉野。全身が心臓になったかのように鼓動が煩い。
「そうか」
諦めたような陰山の声が耳に届く。
だがそれは一瞬だけのことで、
「ならば魔道に堕ちぬよう、今日この場所で死んでくれ」