ネフレン=カの帰還
Ⅰ
「何故あんなことをしたんだね?」
目の前の警官が信じられないと言いたげな顔で、私に話しかけた。
「被害者とあなたの間に何かトラブルがあったという証言はない。他人のあずかり知らぬところで何かがあったとして、無関係の学生まで殺す必要がどこにあったんだ?あの『ネフレン=カの石室』の発見者として脚光を浴びたあなたが、何故あんなことをしでかして」
「ですから、今からそれをお話しするところです。」
私は警官の質問を遮った。何も隠すつもりはない。全てを話さなければならないのだ。あの「N文書」の危険性を、作田がやろうとしていたことを。
「ご存知のとおり、私は1年ほど前にいわゆる『ネフレン=カの石室』をエジプトで発見しました。おそらくもとはピラミッドであったのが、歳月を経て地上部が失われ、地下室のみが残ったものです。」
そう、発見時は日本でもずいぶん話題になったものだ。地下の石室部分だけとはいえ、エジプト第三王朝期の未発見のピラミッドが見つかり、しかも中身はほとんど盗掘の被害を受けていなかったのだから。中から運び出された品々のいくつかは、私が勤めていた大学の博物館で展示の目玉になっている。だが、そんなことより重要なのは。
「あの石室の発見により、エジプト第三王朝の系図に関する通説は覆されました。伝説上の人物と思われていた、ネフレン=カは確かにエジプト第三王朝最後の王だったのです。」
「俺もテレビで見たが、そんなことは今どうでもいいだろう。まさかこんなところで、自分の業績を自慢したいのか?」
警官が苛立ったように言ったが、私は気にせずに話し続けた。
「あの石室からは多くの貴重な発掘品が見つかりましたが、実は最も重要な発見については、公表されていません。あの石室には、床から壁の手の届くところ全てに、当時の文字が刻み込まれていました。これは今までに発掘されたピラミッドでは、全く見られなかったことです。」
「何だ、死者の霊を慰めるためのおまじないか何かか?」
警官は心底どうでもよさそうに相槌を入れた。
「こっちは他にも仕事があるんだ。発掘がらみの自慢話はやめて、事件の話を」
そんなことをわざとこちらに聞こえるようにつぶやいている。
「いえ、そうではありません。あの文字は石室の主自身によって刻まれたものです。」
「ミイラが生き返ったとでも?」
「いえ、生きた人間によるものです。あの石室はマスコミ向けの発表では、エジプト第三王朝最後の王、ネフレン=カの墓とされています。『最後のファラオが眠る家』なんて表現もされていました。しかし実はあれは墓ではありません。無理やり家にたとえるなら、座敷牢と言ったほうがふさわしいものです。ネフレン=カは死後にあの石室に葬られたのではなく、生きているときに反逆者によって幽閉されたのです。文字は監禁されていた彼が、死ぬまで刻み続けたものです。」
「じゃあ、何だ。反乱を起こされて地下牢に入れられたことに対する、恨みの言葉だったのか?」
「そんな可愛いものではありません。あれは」そう言いながら私は、あの石室を発見したときのことを思い出していた。
Ⅱ
「いやあ、ここまで完全な形で残っているとは思いませんでしたね」
渋い顔をした現地人に導かれてたどり着いた石室の内部を眺めながら、作田は嬉しそうにつぶやいた。彼は私と同格の教授なのだが、元々私の教え子であるため、私にはいつも敬語で話した。
案内に雇った現地人は盗掘を生業にしているのだが、慣れない酒に酔った拍子に、盗掘人でさえ近づかないピラミッド跡地があるという話をしたのだ。作田と私はそれを聞き逃さなかった。盗掘人が近づかない墓なら、貴重な遺物が必ず見つかると判断したのだ。現地人はかなり嫌な顔をしたが、私たちは報酬という飴と、盗掘について仲間もろとも当局に訴えるという鞭をつきつけて、その石室に無理やり案内させたのだった。
結果は期待通りだった。残念ながら黄金製の調度品などはあまりなかった(王朝の交代期の墓なので、国庫に余裕がなかったのだろうと、そのときは思っていた)が、当時の日用品と思われる道具や古代エジプト人の神を模したと思われる彫像が、盗掘されることもなく、ほぼ完全な形で残っていたのだ。
特に神像については収穫だった。ギザの大スフィンクスに似ているが、かぶっている冠のデザインが違う。また特徴的なのは、一般的な石灰岩ではなく、黒い御影石で作られており、顔に当たる部分がないのっぺらぼうの像であることだ。古代エジプトの宗教の変遷を考える上で、貴重な資料だと思われた。
しかし、私は嬉しさのなかにかすかな不快感を感じてもいた。あの石室を暴けば世界が滅びるという現地人の子供じみた言い伝えなど信じてはいなかったが、石室内にはそんな話が出来るのも無理はないと思わされるような、一種独特の雰囲気があった。
まず石室の主はミイラではなく、白骨だった。長身の男性のものと思われる骨が、ほぼ完全な形で部屋の隅にうずくまっていたのだ。ピラミッドを建てるような王族の死体は普通ミイラに加工されていたことを考えると、これは非常に珍しいことであり、尋常ならざる何かがこの人物にはあることを示唆していた。
白骨から目をそらして壁のほうを見ると、そこには膨大な象形文字、いわゆるヒエログリフの羅列があった。小規模な体育館並みの広さがある石室の壁ほぼ全面に、当時の文字が書かれていたのだ。確かに他の遺跡でも柱や壁の一部に文字が刻まれている例はあったが、この石室の文字はそれとは違っていた。彫刻の素人が刻んだようないびつな文字が、壁一面に並んでいたのだ。それはどこか呪詛を思わせた。
そして何より、床面に描かれた奇妙な印。基本的には歪んだ楕円形に十数個の平面図形を組み合わせたものなのだが、まともな人間が、というより人類が考え付くとは到底思えない代物だった。私はそれを見た瞬間、本能的な恐怖を覚えた。人類が地上を這い回るサルに過ぎなかった時代に、暗闇から忍び寄る巨獣の牙に対して感じたであろう恐怖を。理解不能な存在の圧倒的な力によって、全身を引き裂かれる間際の戦慄を。
あの平面図形の中には何かが映っている。人類が決して見るべきではないものが。駄目だ。見てはならない。だが私は見てしまった。まるで、部屋にいる何者かに強いられたように。
それはおそらく地球の姿だったのだろう。だが、私たちが今住んでいる世界とは全く違うものだった。多くの大陸は半分以上が水没し、代わりに新しい大陸が濁った海面に黒々とした姿を現している。太陽の姿が消えた空からは雨が絶え間なく降り続き、何とも形容しがたい轟音が鳴り響いてる。
やがて、視点が沈みかかっている大陸の表面に映った。迫りくる海が地上のおそらくかつては巨大都市だったらしい廃墟を洗っている。廃墟に蠢くのは人型をしてはいるが、どこか本質的なところで異なるカエルじみた奇形の生き物。これが別種の生物なのか、人類のなれの果てなのかは考えたくもなかった。
そして、カエルじみた生物とともに世界を支配するのは、悍ましい怪物の群れだった。直立歩行する巨大な蛸のような生き物に、カエル共が跪いている。空には人間の戯画じみた輪郭を持つ巨大な何かが舞い、その周りを奇怪な蝙蝠のような生き物が取り巻いている。海からは得体のしれない触手が伸びていて、その下には姿を想像するだけで吐き気を催すような怪物の影があった。
そして地上の海に浸食されていない部分では、おそらく人間の最後の生き残りらしき人々が、怪物を神として崇めていた。この石室にあったスフィンクスに酷似した怪物、黒い翼と三つの赤い目を持つ影、顔のない円錐形の頭部に伸縮する手足を持つ存在が、ボロボロの服を着た人間たちに崇拝されていたのだ。
よく見ると、ボロをまとった人々の中に、何故か一人だけ場違いな礼装に身を包んだ男がいた。浅黒い肌と端正な顔をしたその男は私のほうを見て微笑みかけた。その微笑は限りなく魅力的でありながら、同時に不快な嘲笑のようにも感じられた。私はこの男が人間たちに崇拝される怪物共と同じ実体であることに気づいた。男はこちらに手を振っている。
それを見た瞬間、私の意識は現実に引き戻された。隣では作田が震えている。彼も私と同じものを見たのかもしれないと、私はわけもなく思った。
「とりあえず、遺物を運び出す前に配置がどうだったかを撮影しておこう。」
私は気を取り直して、記録の準備に取り掛かった。この部屋の雰囲気は異常だが、それは研究価値が高いということでもある。さっき見たものは、おそらくここまでたどり着くまでの疲れと、室内の異常な雰囲気がもたらした幻覚だろう。
私たちは部屋の全体像や中にあるもの、それに壁に刻まれた文字を撮影していった。作田は特に壁のヒエログリフの撮影を熱心に行っていた。私が遺物から当時の生活習慣を明らかにするということを中心にしていたのに対し、作田の研究室は文字資料重視だったからだ。それにこの石室は異例尽くめだが、文字を解読すれば何故そうなのかの手がかりが掴めるかもしれなかった。
作田は入り口の左側の一番上の文字から順番に撮影していた。おそらくそこが文章(まあ、この文字群が文章ならばだが)の先頭だと判断したからだ。左側の一番上の文字は王冠型の象形文字、古代エジプト語のNに当たる表音文字だった。そこで私たちはとりあえず、壁に刻まれたこの大量の文字をN文書と呼ぶことにした。
Ⅲ
私が内部に残されていた神像と道具を調べている間、作田はN文書の解読に没頭していたと言いたいところだが、実際には私たちはマスコミ対応に追われて没頭する暇もなかった。最初の一文からとんでもないことが書かれていたのだ。「ネフレン=カ、ここに記す」、それがN文書冒頭の一句だった。
「ネフレン=カ」、それはエジプト及び周辺国の住民の一部に、細々と伝えられている伝説の登場人物だった。
伝説によるとネフレン=カはエジプト第三王朝最後の王であり、それまでのエジプトの神とは全く異なる神を崇拝し、残虐な生贄の儀式を行った。その儀式の邪悪さは、ネフレン=カの異名である「暗黒のファラオ」のもとになった。ネフレン=カの邪悪な信仰は一時はエジプト中を席巻したが、その統治は結局、第四王朝創設者のスネフィルによって打倒され、彼自身もピラミッドの内部に幽閉され、そこで生涯を終えた。だが、ネフレン=カと彼が崇拝していた神はいつか蘇り、この世を支配するだろう。そんな伝説だった。
主流の考古学者はこの伝説を、単なる作り話とみなしていた。エジプトのどの王朝の家系図を探しても、ネフレン=カなどという名前は見当たらなかったからだ。また、「全く異なる神を崇拝」という部分も怪しまれた。
伝説によるとその神はエジプトはおろか、当時周辺国で信仰されていたどの神とも全く異なっていたというのだが、普通そんなことはありえない。まず、人間は急激な変化を嫌う。王一人が新しい神を信仰することを決めたからといって、周囲がやすやすとついてくるものだろうか。さらに、信仰が一時はエジプト全土まで広まったというなら、なぜその神の名さえ残っていないのだろう。
そんなこともあって、ネフレン=カ伝説は複数の暴君の逸話を組み合わせて作られた架空の物語とされていたのだ。だが、ここにネフレン=カの署名がある文書が存在する。
私たちがこの事実を論文として公表すると、エジプト考古学界は騒然となった。まず未発見のピラミッドの一部が見つかったというだけで結構な騒ぎだったのだが、その主がそれまで架空の存在とされてきた人物だったのだ。しかもエジプトでは発表直後に内戦が勃発し、石室の現地調査は不可能な状況になっていた。
そのため考古学者には、未だに私たちの発表を信じておらず、遺物も盗掘屋から購入したのだと思っている人が多い。私はそのことに憤慨していたが、今となっては安堵している。あの石室には、もう誰も足を踏み入れるべきではないのだ。
やや遅れて騒ぎ出したのがマスコミである。日本人が未発見のピラミッドを発見し、これまで存在が確認されていなかったファラオの実在を証明した。暗い世相が続く中、このニュースに彼らが飛びつかないわけがなかった。作田と私は一躍ヒーローに祭り上げられ、発掘にまつわる(ほとんど彼らの作文による)冒険談をカメラの前で延々と話す羽目になった。
なお彼らはネフレン=カがどのような人物とされてきたかについては話さないようにと頼んだ。忌まわしい逸話のせいで、日本人が成し遂げた偉業にケチがつくとでも思ったのかもしれない。
マスコミ対応がひと段落すると、作田は猛烈な勢いでN文書を解読し始めた。彼の言語能力は明らかに私より高いのだが。その能力を持ってしても、N文書の解読は容易な作業ではなかったようだ。とにかく一文一文が長い上に、難解な言い回しが非常に多かったらしい。しかも作田の話によると、中には古代エジプト語ではない未知の言語で書かれた部分があったという。
それでも作田は信じられないほどの集中力を持って解読を続けた。大学の食堂で会ったときも、ノートパソコンに向かっていたほどだ。私は石室から運び出された遺物のほうの解析をしていたが、時々作田の研究室を訪れては解読の進捗状況を聞いていた。私も石室が何故あのような状態になっていたのかを知りたかったのだ。
作田の話によると、とりあえず冒頭は、著者であるネフレン=カが真の神を崇拝したために幽閉されたという内容だったらしい。真の神とはネフレン=カが生贄を捧げていたというあの神だろう。つまり、伝説が真実だったことは確認されたわけだ。あの部屋の主の遺体が、ミイラにもされずそのままになっていたのは、伝説のとおりあれが墓ではなく、牢獄だったかららしい。私は幽閉された男が壁に文字を刻み続けるさまを想像し、何とも不快な気分になった。
Ⅳ
作田の様子がおかしくなったのは、解読が中盤に差し掛かったあたりだったという。熱に浮かされたように、N文書に見入っているかと思えば、悲鳴を上げてそれから目を背けようとする。さらにしばしば放心状態になっては、古代エジプト語はおろか、世界のどの言語とも異なる謎の言葉で呟きを発する。
私は時々しか会っていなかったのでなかなか異常に気づかなかったが、彼の研究室にいる学生は早くから気づいていたようだ。さらにN文書の内容はどんどん支離滅裂になっていき、作田に勧められて訳を読んだ私の頭までがおかしくなりそうだった。なお、この訳文は非常に正確なものだったことは私が保証できるし、彼の研究室にいた学生たちも同意してくれるだろう。
解読が後半に入ると、作田の様子はますますおかしくなっていき、私を含む誰の目にも明らかになった。学生たちは研究室に寄り付かなくなり、部屋にはコンビニ弁当やインスタント食品の包装、そしてN文書の原文と訳文が書かれた紙が乱雑に積み上げられていた。部屋には臭いにつられたのか大量のネズミが集まっていたが、作田はその中で一人、N文書の解読を続けていた。
N文書の解読開始から二週間ほど経ったある日、私が部屋に足を踏み入れると、足元から一匹のネズミが逃げ去った。普通ネズミは人目がある場所で行動しないものだが、作田の研究室には常にネズミの群れがいて、N文書が印刷された紙のそばでじっとうずくまり、甲高い鳴き声を発していた。
それを見た私は生理的な嫌悪感と共に、不愉快かつ非現実的な考えが浮かんでくるのを感じた。このネズミたちは、N文書を読んでいるのではないだろうか。
作田はというと、私が訪れたことに気づきもせずN文書に見入り、ときどき意味不明の言語を口にした。すると、部屋の中のネズミたちは逃げもせず、その声に呼応するかのように鳴き声を発するのだった。作田の言葉はほとんどが聞き取れなかったが、Nyarlathotep、日本語にするとナイアルラトホテプという単語が含まれていることは分かった。Nyarlathotep、それはN文書冒頭でネフレン=カが帰依を表明していた「真の神」の名だった。
作田がその名を口にするたびに、ネズミたちの声が部屋中に反響し、私の神経をかきむしった。よく見ると、先ほど私の足元から逃げたネズミがこちらに視線を向けていた。その顔はネズミにしては異様に丸くてつるりとしており、どこか人間じみているように見えた。
「ああ、山本さんですか。いらっしゃったのなら、声をかけてくだされば良かったのに」
いきなり、作田がこっちを振り向くと、私に話しかけてきた。先ほどの異様な言動からは全くかけ離れた自然な態度。十数年前に私の指導の下で研究していたときや、3年前に教授としてこの大学に戻ってきたときに見せたような、さわやかな態度だった。
「いやあ、意味が分からない文が多くて大変でしたけど、あと少しで理解できそうなんですよ。理解できたらまたお話します。たぶん、山本さんのご専門とも関連しそうなので」
「そんなことより、この部屋の状態は何だ。とりあえず家に帰って休んで、疲れが取れたら部屋を片付けたほうがいい。」
「それは後にさせていただきます。今はN文書のほうが重要なので。」
「いや、とりあえずN文書を読むのは止めろ。君はたぶん仕事のしすぎで疲れてるんだ。さっきも訳のわからないことを言っていたし」
「訳のわからないこと? ああ、あれですか。N文書の一部を音読していただけですよ。ぱっと見てよく分からない文章でも、声に出すと意味がわかることがあるんです。心配していただかなくても結構です。」
「そうか、まあ無理するなよ。」
作田がつぶやいていた言語はどう考えても古代エジプト語ではなかったが、私はとりあえず話を打ち切った。本人は違うと言っているが、作田は仕事のしすぎ、及びあの支離滅裂な文書を一日中読んでいるせいで、少しおかしくなっているのだろう。
だが本人がどうしても解読を続けたいというなら、その意思を尊重するしかない。私はそう考えながら、作田の部屋を後にした。後ろから、あのネズミがじっと見ているように感じた。
それから数日後、作田が私の部屋にやってきた。
「やあ山本さん、やっと完全に意味が分かりました。あの文書は…」
そう言って作田は、文章の内容について延々と話し始めた。それは一応信仰についての話だったが、いわゆるエジプト神話とは完全に異なっていた。世界を創造し、今も宇宙の中心でまどろむ実体、そこから生まれた時空、生命、意識を象徴する三柱の神、誕生間もない地球に降り立った種族、彼らは今は眠りについているが、やがて目覚め、再び地球を…
私は適当に調子を合わせながら、何か理由をつけて作田を短期入院させる方法を考え始めた。古代エジプトで発見された文書にそんなことが書かれているはずがないし、あの支離滅裂なN文書に筋の通った意味があるとも思えない。
作田は解読しようとの強迫観念に駆られるあまり、自分の妄想と実際に書かれていることを混同してしまったのだろう。しかし作田がこんなカルトの教義めいた話を考え付くとは意外だった。学生時代からずっと完全な合理主義者だったはずなのだが。
「ということで、文書の内容は分かったんですが、ここに書かれていないこともいくつかあるんですよ。でも大丈夫です。今晩それについて聞く予定ですから」
「聞く? 誰にだ?」
私はいよいよ作田の精神状態について危機感を覚え始めた。これはもう、無理やりにでも病院に放り込むべきかもしれない。経歴に傷がつくのが心配だが、このまま妄想の虜になっているよりはましだろう。
「もちろん、ナイアルラトホテプ神にですよ。かの神を召還する方法はすでに私の頭にあります。あっ、ここにN文書の訳と私がつけた注釈があります。読んでおいてくださいね」
そう言うと作田は、呆然とする私を残して出ていき、私の手元には分厚い紙束が残された。
Ⅴ
その夜は急な仕事が入って遅くなったが、それもやっと終わり、私は帰り支度を始めた。とりあえず家に戻り、妄想性疾患の治療を行える病院を探すつもりだった。作田は30代前半で教授職を得たほどの優秀な考古学者だ。こんな馬鹿げたことで失うのは日本、いや世界の考古学界にとっての喪失といえる。何としても治療しなければ。
そう思いつつ部屋を出た私は、廊下の電気が非常灯を含めて全て消えていることに気づいた。その次に気づいたのが、かすかに聞こえる人間の声と、おびただしいネズミの鳴き声だった。完全な暗闇の中で、声はそれ自体が何らかの邪悪な生命力を持っているかのように、廊下に響き続けていた。この学校にこれほどの数のネズミがいたのだろうか。そして、何故彼らは鳴いているのか。
照明が消えた廊下に響き渡る声、それが作田の研究室からのものであることを私は直感的に悟った。というより、そんなことをやる人間は作田以外にいない。照明が消えているのも彼の仕業だろう。私は暗闇の中、壁を伝うようにして作田の部屋に向かった。とにかく馬鹿げた真似は止めさせなければならない。
作田の部屋のドアを開けた私がまず感じたのは異臭だった。床で蠢いているであろうおびただしい数のネズミの体臭だろう。それが漆黒の空間を埋め尽くすように濃密に漂っている。そして声、まるで全体が一匹の動物であるかのように一斉に鳴き喚くネズミの群れと、その中に混じる人間の声。意味はさっぱり分からないが、作田が時々口にしていた正体不明の言語に似ている。ということは。
「おい、作田。何やってるんだ。」
声は全く反応せず、謎の言語を話し続けた。言語というより呪文のようだったが、よく聞くと、その間に古代エジプト語が混ざっている。それは、おおよそこんな内容だった。
「ナイアルラトホテプ神よ。強壮なる使者よ。百万の愛でられし者の父よ。あなた様の臣、ネフレン=カはここにおります。どうかそのお姿をお表しください」。そしてまた、呪文の詠唱が始まった。
「作田… 一体何を」
そうつぶやきながら、私は凄まじい違和感を感じていた。声は作田のものだが、その口調には別人のような威厳とカリスマ性を感じる。確かに以前から様子はおかしかったが、ここまで口調や人格が変わるとは思えない。口調が変わったというよりまるで、作田の口を借りて別人がしゃべっているようだったのだ。
とにかく駆け寄ろうとした私は、床に転がっていた何かぐにゃりとしたものに躓いて倒れた。その物体の感触に私はぞっとした。生暖かく、何かの液体で濡れていて、鉄錆のような臭いが漂っていたのだ。手で探ると、ちょうどそれの真ん中あたりに何かが刺さっている。おそらく上は木製で、ぐにゃりとした物体に刺さっている部分は金属製。私はN文書の著者の名と、彼が行ったとされる行為を思い出さずにはいられなかった。ネフレン=カ。黒きファラオ。彼は生贄の儀式を行ったために幽閉されたのではなかったか。
私は悲鳴を上げた。目の前にいるであろう男は、作田は完全に狂っている。ネフレン=カが残した文書に憑り依かれ、彼の忌まわしい所業までを再現してしまったのだ。何故こんなことになったのか。作田は、私の昔の教え子は、将来を渇望される優秀な考古学者だったはずだ。 学生のころから徹底した懐疑論者で、古文書のオカルトじみた儀式を行おうなどという発想は全く持ち合わせていなかったはずだ。それが何故こんなことに。これでは作田の学者としての将来が。古代史の研究では日本有数と評価を受けているこの大学の評判が。あの発見でようやくちゃんと下りる雲行きになっていた研究予算が。
パニックになった私の脳内を駆け巡っていた思考の断片は、やけに利己的だった。誰とも分からない被害者を悼むというより、作田と自分のこれからのことを憂う気持ちのほうが強かったのだ。そんな私を他所に、呪文の詠唱は続いた。
そして、その声に応えるかのように、この場には全く場違いな音が聞こえ始めた。澄んでいるが、どこか神経をかきむしられるような単調な音。それは、フルートの音に聞こえた。ネズミたちがそれに呼応して今まで以上に鳴き喚いている。嫌だ。聞きたくない。あの音は人間が聞いていい音ではない。
私は耳を塞いだが、音はずっと聞こえ続けた。いや、そもそもあれは音だったのだろうか。人間の感覚では捉えられない何かが、音として聞こえたのではないか。そして私は、部屋が音以外にも異常な状態にあることに気づいた。何故ここまで完全な闇なのだ。星明りや街灯の明かりすら入らないなどということがあるのか。いや、そもそもここは部屋の中なのか。私が蹲っている場所は本当に床なのか。そんな私を他所に、フルートのような音は続いた。
気が付くと、作田が唱える呪文の声が大きく、高くなっている。その声は、狂喜しているように感じられた。そして次の瞬間、空間におぞましい瘴気が入ってきて、一箇所に集合し始めた。全くの闇の中だったが、私は確かにそれを感じた。そして瘴気が集まっていった場所には、完全な暗闇のはずのこの場所よりもさらに黒い影が表れ、その中に三つの赤い光が出現した。それは、目のように見えた。ナイアルラトホテプ、私は無意識にその名を呟いた。「真の神」は戻ってきたのだ。彼はその神官、ネフレン=カと共に世界を統治する。あの石室で見た光景が再現される。
私はこれまでで最も大きな悲鳴を上げると、目の前の死体に刺さっていた刃物を抜き。呪文が聞こえる方に向かって突進した。相手の息遣いが聞こえるところまで近づいた私は、目の前の男に向かって刃物を思いっきり突き出した。金属と骨がこすれる不愉快な感触が私の手に伝わり、呪文の詠唱が止まった。代わりに聞こえるのは、粘り気を持った液体と空気が混ざったときに出る、ゴボゴボという悍ましい音だった。呆然としてその音を聞きながら、私は震える手で刃物を抜いた。生暖かい液体が吹き出し、私の服を濡らしているのが分かった。そして一瞬後、目の前の男は音もなく倒れた。
その瞬間、部屋に外の街灯の明かりが差し込み、ネズミたちが一斉に逃げ出した。私は横を、三つの赤い目をもつ黒い影が現れたほうを見た。そこにはもう何もいなかったが、歪んだ楕円形に十数個の平面図形をあわせた模様、あの石室で見た奇妙な印があった。そしてもちろん、私の前には作田の死体が転がり、後ろには、ナイアルラトホテプに捧げられた生贄の死体が転がっているのだった。
Ⅵ
「私はその後部屋から飛び出して自分の部屋に戻り、作田に渡されたN文書を焼き払いました。作田のパソコンも破壊しましたから、とりあえず今N文書は石室に行かない限り入手できないはずです。」
私は目の前の刑事に説明した。
「マスコミには、ネフレン=カの石室の発見はでっち上げだった。それを暴露しようとした作田と私の間でトラブルが発生し、私が衝動的に作田を刺し殺してしまった、とでも説明しておいてください。あの石室、そしてN文書に注目が集まってはならないのです。N文書は私が焼き払いましたが、また石室に足を踏み入れる者がいないとは限りません。全てが幻だったことにしておかなくてはならないのです。」
「はは、それはご苦労だった。つまり、あなたは世界を救ったというわけだ。」
私の話を聞いた刑事は、いきなり大笑いしはじめた。やはり、信じてはもらえなかったのか。私は絶望した。
「学者先生のくせに、大事なことに気が付いてないんですね。我々警察はあなたを尋問する前に、現場からいろいろな証拠を集めています。」
おかしい。刑事の口調が最初とは全く変わっている。私からとっとと話を聞きだそうとする態度ではなく、出来の悪い生徒に説明する教師の態度だ。いや、むしろこちらの態度のほうが素で、最初のあれは演技だったのか。
「その中には被害者がネット上に残した文章なんかも含まれています。被害者が最後に解読に取り組んでいた文書。そしてその英訳、和訳と注釈なんかもね。そう、あなたが起こした事件の担当になった『この人物』は、すでにあなたが言うところのN文書を読んでいるんですよ。だから、もう遅いんです。しかし、作田さんは実に優秀な学者でした。『私』が残した文書を、ああも分かりやすくまとめてくれるとは。おかげでこの人物でも、あの文書の意味が理解できたようです。」
何を、何を言っているのだ。この男は。
「あなたは作田さんがN文書を読んで発狂したとお考えのようだが、違うんですよ。あの文書を読んで、その内容を理解した人間は『私』、ネフレン=カと人格が入れ替わる。そういうことなんです。知識はそのままに、人格だけがね。知識がそのままであるおかげで、例えばこういう例えもできたりするわけです。『データやアプリはそのままに、OSだけを交換する感じです』とか。しかし、私が眠っている間に、人間の技術も進歩したものです。インターネットでしたか、N文書が残ったのはあれのおかげですよ。」
私は絶叫して目の前の警官につかみかかったが、たやすく殴り倒された。警官、いやネフレン=カは狂ったように笑っている。いつの間にか、部屋にはネズミの群れが集まっていた。リーダー格らしい一匹が、私のほうを見ている。そのネズミは、作田の顔をしていた。
読んでいただいた方はありがとうございます。筆者はこの作品が初投稿なので、至らないところも多いかと思いますが、これからもよろしくお願いします。
ちなみにこの作品のテーマは、「狂人の思考を理解できる者はすでに狂人である。」ということです。クトゥルフ神話作品にはしばしば魔導書を読んで発狂する人間が出てきますが、あれはどういうことなのかを考えた結果、この作品は生まれました。
いくらなんでも、目で文字列を追っただけで発狂するとは思えません。むしろ魔導書を読むことによる発狂とは、「魔導書の内容を理解できる状態になってしまうこと」そのものを指すのではないでしょうか。




