姉弟盃
腫れあがった頬に、ひときわ冷たいものが触れた。
雪だ。
天井どころか屋根まで抜けた廃屋の一室で、少年は視線を空へと向けた。星々がまたたく漆黒の夜天から、綿毛のような雪が舞い降りてきた。
冬期には氷点下の極寒をもたらす西帝国の夜である。ぶあつい防寒着や酒の助けもなく、むやみに出歩くような人間は多くない。だが、近所からは愉快そうな老若男女の歓談や笑い声が、ひっきりなしに聞こえてくる。
十二月の待降節シーズン真っ盛りのいま、通りを隔てた向こうでは、大規模な市が催されている。きらびやかなオーナメントで飾られた市庁舎のもみの木を中心に数百におよぶ屋台が軒を連ね、街中どころか州の人々のほとんどが、その場に詰め掛けているのではないかと思えるほどだ。各々が祭事用の民芸品やお菓子の類を買い求め、グリューワインで体をあたためながら、教会に集った子供たちによる合唱をほほえましく見守り、ひとしきり生誕祭への期待を高めてから、やがては家族とともに帰路につく。
少年には帰りを待つ家族などはない。物心ついた時からスリや置き引きで金銭を得て暮らしてきたし、金がなければ盗むまで。そうやって飢えた腹を満たしながら生きてきた。
住まいにしても長く一か所にとどまることはなく、雨風がしのげるような場所をただただ転々としていた。あたたかい季節であればためらいなく野宿という手段をとるものの、年末ともなると、さすがの彼も屋根のある建物の庇護を求めるようになる。さいわい今年は、入居者が決まっていないアパートメントの一室に忍び込むことができていた。
少年が暮らす部屋に長く入居者が現れなかったのは、前の住人がある病で死んだことに原因があった。数十年前に南はヒスパニアで猛威を振るった肺病だ。そのせいか、アパートメント自体が腫物のように扱われていたのである。
案の定、少年もまた肺を病んだ。
だが、日銭を稼ぐために、今日も寒空の下へ飛び出した。
今は待降節だ。勇者さまや救世主の降臨をことほぐおめでたい季節だ。そのしあわせをひとかけらでもいいから、おすそ分けしてもらおうじゃないか。そうして普段以上に、どこか力んで仕事に励んだのがよくなかったのかもしれない。
しくじったのだ。いつものように人ごみに紛れ財布をかすめ取ろうとしたが、その犯行が露呈した。
狙ったのは、仕立てのよいコートに袖を通した長身の中年男。恵まれた体格のわりに鈍感そうな身のこなしから、少年は即座に男をやりやすいカモだと判断した。きっとその判断が甘かったのだろう。
男の陰で、屋台に並ぶチョコレート菓子に目を奪われていた少女の姿に気づかなかった。身なりのよい少女は、彼の娘であった。敬愛する父親のコートに薄汚れた手指を差し込もうとする小汚い浮浪児の存在を視界の端で認めると、彼女は甲高く叫んだ。
周囲の視線が即座に少年のもとへと集まり、それらはやがて拳や蹴りというかたちを伴って彼をしたたかに打ち据えた。男が少年を痛めつけるあいだ、少女とその母親は、鼠の骸を見るような眼で、少年のことを見つめていた。
そのうち警察官連中がかけつけて、次なるかわいがりが始まった。執拗に顔を責め立てたのは彼らである。警察署に連行される前に、なんとか少年は暴行の合間を縫ってその場から逃げ出すことに成功した。
ただ、傷めた足が言うことを聞かない。軽度の脳震盪にも見舞われていた。空咳も止まらなくなり、血痰が出るようにもなっていた。アパートメントにまっすぐ戻ることもできず、路地をうろうろしているうちに、この廃墟へとたどり着いたのである。
屋根のほかも老朽化が激しく、壁や床板もぼろぼろだ。住人が去ってかなり長そうだ。
さて、壁際には生地が腐ってスプリングの一部がむき出しになったソファがあった。その上には、グレーの布にまかれた物体が置かれていた。横に長い。観葉植物かなにかが、植木鉢ごと遺棄されているのかとも思ったが、どうやら違う。人間である。
「一人残らず息の根え止めてやりたいわあ、マーケットで浮かれとる人らぁ全員まとめてえ……男も女も、爺イも婆アも」
不謹慎なことをのたまったのは、ぼろぼろの外套にくるまった若い女だった。少年が耳にしたことのないほどの、強烈な南部訛りの帝国共通語。
「うちが粗大ゴミみたいに吹きだまってる間、あの人らきっと、来週のディナーやプレゼントのこと考えてウキウキしてはるんやろな。アドヴェントカレンダーも大詰めやし、さぞかしお幸せなこって」
怨嗟の言葉をだらだら並べて、女はむくりと体を起こした。血と泥にまみれたぐずぐずの金髪を振り乱しながら起き上がった直後、ふたたびぐったりと背もたれに身を預けた。着衣はさながら、寄宿学校の男子生徒のような恰好である。高そうなドレスシャツはくしゃくしゃで、細身のスラックスは泥だらけ。ぬかるみの中で転げまわったかのような有様だ。少年の薄着を笑えないほどの装いながら、女はこの寒さに身じろぎ一つ見せない。
「でも、うちはそんな無粋な真似はせん。あんた、なんでかわかる?」
不意に言葉を投げかけられ、少年はどきりとした。女の瞳は、屋根の向こうの天空へと投げ出されていた。
「捕まるから」
「カッコ悪いからや。自分と関係ないカタギどついたって何の得にもならへんし、だいいちあんま気持ち良うなさそうやわあ。想像してみ。うちがひとつ野暮なことするだけで、マーケットのお楽しみがおシャカになるんよ。かたづけた女が凄腕のビール職人やったら? かたづけた男が凄腕の菓子職人やったら? 生きてくうえでの楽しみを自分から損なうようなこと、賢いお人のするこっちゃないわ」
女がソファの裏から何かを取り出した。ごとんと足の間に置いたのは、半分が飲み干された赤ワインの瓶である。見ると、室内の棚には同じような瓶が二、三、手つかずで並んでいた。いずれも、厚い埃の層に覆われていた。
「うち、面のええ男は大好きやし、お尻の立派な娘ぉも大好き。そういう人らと睦み合うんも、たまらんわけ。食べるんも好き。お肉も野菜もお魚も、全部大好き。もちろんお酒も最高。あと、他人様の鼻柱を折ったるんも好き。自分のこと偉い思とる礼儀知らずの阿呆の面に一発かまして、泣きっ面拝ませてやるんも最高や。やり返されるんも、嫌いやない。そいつがうちのどこをどつきたがってて、どんな風に手えが来るか、ぜえんぶわかるから。うちは、うちが好きなことやってるときが一番気持ちええし、そういう自分が一番カッコええと思ってんの」
女の顔もまた、少年ほどではないが、あちこちに青あざが浮かび上がっていた。瘤や内出血で、彼女の相貌は痛々しくゆがめられていた。
「あんたも、しくじったの」
「うち? うちはしくじらんよ。うちはいつでも正解しか選ばへん。どつきたい奴はどついたし、何も失敗してへんわ。いけ好かん治癒術師の阿呆をボコボコにして、そしたら組合にお暇いただいた。ただそれだけのことや」
その言動で、少年は彼女が探求師だとわかった。
「迷宮仕事しとったら、荷運びに雇った子が事故で死んでもうてな。蘇生してやれ言うたのに、そいつは拒みよった。他ん人らも、人足の蘇生にお金出すん嫌がってな。みんなして、ガキの死体ほったらかして帰るんがリーズナブルや言いよる。せやからそいつらまとめてどつき倒して足腰立たんようにして、イチ抜けしてきたんよ。その子の死体背負ってな。そしたら、他の組合員から袋叩きや。寮も追い出されて宿無し、おまけに違約金と慰謝料、それに死んだ子の蘇生費用でスッカラカンやわ。クッキーの一欠片も買えへん、お笑い草やろ」
八つ当たりを目的とした市への殴り込みには自制心が働く一方で、周りに無粋を強いられると、途端に手が出るたちの性格らしい。聖夜の支度で浮かれる街にあってみすぼらしい醜態を晒している点では、少年はわずかに親近感めいたものを抱いた。
「おれと同じだ」
「せやの? ま、あんたがどんだけ気の毒かはどうでもええわ。あんたそのまま居てはったら凍え死ぬ思うんやけど。家に帰って温まるくらいの知恵あらへんの?」
少年は、今日の自分のいきさつを語った。喉を鳴らしながらのたどたどしい物言いを、女はただしずかに傾聴していた。
「戻れる家なんかない。誰もおれに構ってなんてくれない。外国人だし、それに……」
「せやろね。あんたのことなんか、誰一人気に留めへん。誰もあんたみたいなビョーキ持ちの浮浪児の相手なんかしたくないわ。そこらでくたばられても迷惑や、一刻も早く消えてほしい、そう思ってはるんと違う?」
スラックスに覆われた長い脚を組み替えて、女はつづけた。
「うち以外にはな」
「……」
「あんたは今日、この時間、この瞬間、部隊も組合もクビになってフテ腐れとるうちの目の前に現れた。で、うちは目の前で子供をむざむざ死なせるような無粋を、一番カッコよくないことだと思っとんの。うちのそばに居座る気ぃやったら、うちはきっと一晩あんたを生かそうと努力すると思うわ。病気の面倒も、新しい寝床の工面も、うちがなんとかしたる」
「おれが、ビール職人やパティシエになるかもしれないから?」
「その通り。背中むず痒なるような施しや、湿っぽい同情なんかとはちゃう。うちが得するかもしれへんからや。ただ、条件がいっこだけある」
女は立ち上がり、ワインが収められていたキャビネットへと向かった。我が物顔で備え付けの棚の内部を物色し、ふたつのグラスを手に取ると、ソファのもとへと戻ってきた。そして女は、グラスの一つを少年の目の前の床に置いてみせた。
「こっから先、死ぬまで。うちが言うたような、カッコ悪いことだけはしなや。ムカつくことや、ムカつく人間なんか掃いて捨てるほどおる。けどな、くだらん妥協とか癇癪とかで、そういう世の中のええ部分まで台無しにするような真似、絶対したらあかんで。今ここでうちに、口先だけでも誓えへんのやったら構へんわ。さっさとこの場で死んでまい。そんなどへたれ、うちはまともな人間とは認めへん」
手に持ったグラスにワインを注ぎ、続いて少年に差し出したほうのグラスにも同じように赤黒い液体を満たしていく。
「さ。どうする?」
「今日やったことに後悔はしてない。してないけど、盗みをするよりカッコよく生きられるなら、おれはそうなりたいと思う」
「……そんで?」
「できればおれは、世の中の好きになれる部分を探したい。おれは、あんたみたいになりたい。おれは、あんたのいうまともな人間になりたい」
女は、打ちひしがれた落伍者に違いなかった。無粋を看過できず、食い扶持をふいにして爪弾きにあった愚か者である。まっとうな生き方を目指すのであれば、学ぶべきところなど何一つない。
だが確かに彼女は、生きていて楽しそうだ。自分の求める気持ちの良いことに誰より真摯で、真面目で、頑固そうに見えた。今にも崩れ落ちそうな廃墟で、ソファの残骸に腰掛けながら、悲壮さや後悔といった感情を、おくびにも出していない。
そんな彼女の不敵な微笑に、少年はどうしようもなく惹かれていた。血膿と内出血で無様に膨れあがってなお、その顔が美しかったから? 浮世離れした独善的な思想に憧れたから?
震える手で少年はグラスを持ち、それを掲げた。
「うちの目え、じーっと見つめえ。それが礼儀で作法やさかい」
女もまたグラスを手にして、少年の目を射すくめた。
乾杯の作法。互いの目の見つめ、信頼と親愛を確かめあう帝国人の礼儀である。少年にとって、こんなかたちでワインを口にするなど初めてだ。むろん、年上の女性とこうして見つめあうこともまた、同じである。
女の碧眼は、文字通り口ほどにものをいうかのようだった。グラスに注がれた深い紅色を口にすれば、自分はお前は祝福する。互いにかわした矜持に則る限り、自分たちは同胞だと。世の不条理を根拠もなしに嗤う、仲間のひとりなのだと。
「で、何に乾杯しよか」
「……大皿いっぱいのショコクス」
「胃もたれしそうなチョイスやな」
「あと、レープクーヒェンにベルリーナーにシュネーバル。マーケットに並んでる全部のケーキに……ロリポップ」
「うへえ。ええけど、そんな甘いのばっかやと虫歯なるで。そんならうちはラクレットやわ。てりってりに炙ったベーコンとほくほくにボイルしたジャガイモに、しこたまチーズかけてさしあげたいわ。ベーコンは貧乏臭い藁半紙みたいのとは違てな。靴底よりも分厚うて立派なやつや。東共和国やったら当たり前のお料理やったのに、こっちに来てからは長いことご無沙汰やわ。あれを一切合切ヴァイツェンで喉の奥に流し込むんが、何よりの贅沢やねんけどなあ」
「……ひとつになんか決められない」
「ごうつくばりのガキやな。そんなら、空きっ腹にってことにすればよろしいわ」
「わかった。空きっ腹に」
「空きっ腹に」
――――乾杯。
どちらともなくふたりはグラスをかわし、やがて盃を干した。
そうして、ワイナとクラリネは義姉弟となった。




