第9話 揺れる淡い心
灰の里を脱出し、北の廃都へと足を踏み入れてから四日が経過していた。
空は低く垂れ込めた鉛色の雲に覆われ、巨大な歯車の残骸が墓標のようにそびえ立つ。
かつて精錬技術で栄えたこの都市は、今や里の「規律」から外れた者たちが野垂れ死ぬ、凍てついた巨大な棺桶と化していた。
猛烈な吹雪が一時的に凪いだ夜。
ヨミは、崩れかけた廃教会の地下、かつて聖なるワインを貯蔵していたであろう石室を見つけ出した。
煤けた石壁が外気を遮り、湿った静寂が二人を包み込む。
「……、……」
ヨミがカグチを壁際に座らせると、彼は糸の切れた人形のように、泥のような雪の上へ崩れ落ちた。
右半身を覆う漆黒の結晶は、渓谷でのボルドやサレンとの死闘を経てさらにその領域を広げていた。
いまや鎖骨を越えて喉元を絞め殺さんばかりに這い上がり、そこからは熱を失った不純物の澱みが陽炎のように立ち昇っていた。
ヨミは、道中で手に入れた古びた手回し式のランタンに火を灯した。
小さな、頼りないオレンジ色の光が、カグチの銀灰色に変色した髪を不器用に照らし出す。
(……カグチ。貴方の色は、もう戻らないのかしら)
ヨミは、カグチの左腕を自分の肩から下ろし、その傍らに腰を下ろした。
カグチはうっすらと目を開けているが、焦点が合っていない。
味覚、聴覚を失った彼の世界は、いまやヨミという「唯一の熱源」と、自身の右腕から伝わる「不気味な脈動」だけで構成されていた。
ヨミは、外套の中から硬い干し肉を取り出し、カグチの口元へ運ぶ。
カグチは機械的に顎を動かしたが、何も感じていないのは明白だった。
かつて、あの小さな村でトトから分け与えられた温もりを「戦うための燃料」として捨て去って以来、彼の魂は少しずつ、無機質な「器」へと作り替えられていた。
「……、……」
カグチが、動かない右腕を庇うように、左手でヨミの外套の裾を掴んだ。
子供が何かに縋るような、あまりにも無防備な仕草。
里で「ゴミ」として扱われていた5年間、彼は誰かに触れることを、ただの汚染や損傷としてしか知らなかったはずだ。
ヨミの胸の奥が、吸血鬼としての渇きとは違う、鋭い「疼き」を上げた。
「……馬鹿ねカグチ。私を、信じすぎよ」
ヨミは自嘲するように微笑んだが、その声はカグチの耳には届かない。
彼女はカグチの左手を取り、その掌
に指先で文字を綴った。
『、ダ、イ、ジョ、ウ、ブ、カ?』
カグチは微かに頷く。喉の結晶が声帯を圧迫し、言葉は形を成さない。
だが、彼はヨミの掌をなぞり返した。
『、ヨ、ミ、……ツ、メ、タ、イ、ゼ』
「……貴方の熱が、高すぎるだけよ」
ヨミは黄金の瞳を伏せた。
カグチは、音を失った代償として、肌に触れる感覚に異常なほど敏感になっていた。
ヨミの指先が彼の銀髪に触れるたび、カグチの身体が微かに震える。
それが、恐怖ではなく、自分という存在を繋ぎ止めるための証を求めているのだと気づいた時、ヨミの中にある余裕が、音を立てて崩れ始めた。
彼女は、外套の中から小さな古びた「櫛」を取り出した。
「……貸しなさい。その髪、放っておくと野良犬みたいに絡まってしまうわ」
ヨミはカグチの背後に回ると、優しく、しかしどこか独占欲を隠さない手つきで、彼の髪を梳き始めた。
石室を包む湿った静寂の中、ヨミが振るう櫛の音さえも、カグチの世界には届かない。
けれど、髪の根元から頭皮へと伝わる規則的な刺激が、荒れ果てたカグチの神経を凪がせていく。
カグチの銀灰色の頭が、重力に抗うのをやめたように、すとん、とヨミの膝に落ちた。
「……っ」
ヨミは息を呑み、髪を梳かしていた手を止めた。
冷たい空気の中で、カグチの頭の重みだけが、生々しい熱を持って彼女の太ももに沈み込んでくる。
カグチは何も聞こえない世界にいる。自分の喉が結晶に焼かれ、掠れた音しか出せないことも、今の仕草がどれほど無防備かも、彼は自覚していない。
ただ、里の追跡から逃れ、毒煙の届かないこの暗がりに安堵し、唯一の「温度」であるヨミを求めて、迷子のように目を閉じている。
(……この男は、本当に……)
ヨミは、カグチの項に触れた自分の指先が、微かに震えていることに気づいた。
かつて、崖下で彼を「拾った」ときは、ただの便利な道具だと思っていた。里の廃液を吸い込み、自分の渇きを潤すための、壊れない器。それだけの存在。
けれど今、膝の上で規則的な寝息を立てるカグチを見つめる彼女の黄金の瞳には、捕食者の冷徹さは欠片も残っていなかった。
ヨミは、カグチの左手を取り、自分の掌を重ねる。
カグチの指先が、無意識にヨミの指を絡め取った。それは、剛剣の男や重圧の男に立ち向かった時の力強さとは無縁の、弱々しく、縋るような力だった。
『、ア、ッ、タ、カ、イ、』
カグチがヨミの掌に、指で文字を綴った。
ヨミは自嘲するように、鼻先で笑った。
「馬鹿ね。冷たいのは私の方よ。……貴方の血が、熱すぎるだけ」
届かない言葉だと分かっているのに、ヨミの胸の奥が、吸血鬼としての本能とは違う「熱」で疼く。
カグチがヨミの冷たさを心地よいと感じるように、ヨミもまた、カグチのこの不純で、泥臭い「生」の温度に、救われていることに気づいてしまった。
ヨミは、カグチの銀髪を指で弄んだ。
自分を爆弾に変えた傷跡。そのすべてが、ヨミを守るためにカグチが差し出した欠片だ。
(……どうして私なんかのために、そこまで差し出すのよ)
ヨミは、眠るカグチの顔に、自分の顔をゆっくりと近づけた。
ランタンの炎が揺れ、二人の影が石壁に大きく重なる。
聴覚を失ったカグチは、彼女がどんなに近くで荒い息を吐いても、気づかない。その「無防備な沈黙」が、ヨミの理性を危うくさせる。
彼女は、カグチの額に自分の額をそっと押し当てた。
カグチの熱が、ヨミの冷たい肌に溶け込んでくる。
その瞬間、ヨミは悟った。自分がカグチを求めているのは、血が必要だからではない。
この男が、私の名前を掌に綴ってくれる、その「瞬間」に支配されているのだ。
「……責任、取りなさいよ。……食事のくせに、私をこんなに『不純』にして」
ヨミの唇が、カグチの耳元で震える。
彼女は、眠るカグチの胸元に耳を寄せた。そこには、里の精錬炉の底で刻まれ続けた、歪で、力強い「生」の鼓動が響いている。
ヨミはカグチの身体を、壊れ物を扱うように、しかし逃がさないように強く抱きしめた。
石室の隅、小さな火が静かに消えた。
闇の中で、ヨミの頬だけが、カグチの体温を移されたように、赤く、熱を持っていた。
(……ドクター・ギルのところへ行けば、この腕も、耳も、治るかもしれない)
(けれど、もし治ってしまったら。貴方はまた、あのスープの味を思い出して、私じゃない誰かの方へ行ってしまうのかしら……)
そんな醜い独占欲が、ヨミの心臓を、吸血鬼らしからぬ速さで打ち鳴らしていた。
凍てつく石室の闇が、廃都の煤けた夜明けに白く染まり始める。
ランタンの火はとうに消え、石造りの窓から差し込む冷たい光が、二人の境界を曖昧に描いていた。
ヨミは一睡もせず、膝の上で眠り続けるカグチの温もりを、ただひたすらに吸い込んでいた。
「……、……」
カグチのまつ毛が微かに震え、重い瞼が開かれた。
視界に飛び込んできたのは、自分を見下ろすヨミの黄金色の瞳。
そして、自分が彼女の膝を枕にし、その細い指に髪を弄ばれていたという事に気づいた。
カグチは弾かれたように起き上がろうとしたが、右腕の「重り」がバランスを崩させ、再びヨミの胸元へと倒れ込んだ。
(……、……っ!)
ヨミの顔が、夜明けの冷気とは対照的に一気に熱くなる。
音は聞こえない。だが、ヨミの胸の鼓動が、カグチの頬を通じて直接響いてきた。
それは、吸血鬼としての静謐なリズムではなく、今にもはち切れそうなほど、不規則で、激しい「熱」の連打だった。
ヨミは、カグチを突き放さなかった。
それどころか、逃げようとする彼の背中に左手を回し、さらに深く、自分の体へと引き寄せた。
「……おはよう、カグチ。よく眠れたかしら。」
ヨミの唇が動く。カグチはその振動を肌で感じ、戸惑いながらも、ヨミの掌を左手で掴んだ。
『、ミ、ッ、ト、モ、ナ、イ、……ゴ、メ、ン、』
不器用な文字。
ヨミは、その文字をなぞったカグチの指を、自分の口元へ運び、慈しむように牙を立てずに噛んだ。
「謝らなくていいわ。……貴方は、私の所有物なのだから」
ヨミの瞳は、これまでにないほど深く、濁った光を帯びていた。
それは彼を地獄へ誘った時の冷徹な誘惑ではなく、爆発の中で彼が見せた「悲しい笑い」に呼応するような、深い執着の色だった。
カグチは、ヨミの肩越しに、窓の外を見た。
そこには、錆びついた歯車が沈黙を守り、ドクター・ギルが待つという「最深部」へと続く廃道が、霧の向こうに伸びている。
(……この腕が治れば、俺はまた戦える。……ヨミを、守れる)
カグチはそう自分に言い聞かせた。
だが、ヨミが自分の髪を梳きながら見せた、あの「名前を付けられない表情」を思い出すたび、カグチの胸の奥も、得体の知れない不純な熱で満たされていく。
ヨミは、カグチの銀髪に最後の一櫛を通すと、立ち上がった。
彼女の足取りは、いつもの凛としたそれだったが、その指先はまだ、カグチの熱を欲しがるように微かに震えている。
「行きましょう。……あの『死神』に、貴方を元通りにさせてあげる」
ヨミは、カグチの左手を強く握りしめた。
それは、指の骨が軋むほどの力だった。
カグチもまた、その力に応えるように、彼女の手を握り返す。
聴覚も、味覚も、言葉も失った。
けれど、この「痛み」に近い手のひらの感触だけが、今の二人にとってのすべてだった。
二人は、灰の廃都の深淵へと歩み出した。
カグチの右腕は、昨夜ヨミが梳いてくれた感触を忘れないように、不気味に、しかし力強く、新たな「新生」を求めて脈打っていた。




