第8話 怪しい噂
渓谷の惨劇から三日が経過していた。
降りしきる雪は、カグチがぶちまけた衛士たちの鮮血も、引き裂かれた肉の残骸も、すべてを無慈悲な白さで塗り潰していた。世界は平伏し、沈黙している。
だが、カグチの内側だけは、いまだにあの日の爆音と、肉が焼ける脂の匂いが、逃げ場のない熱となって渦巻いていた。
カグチとヨミは、死人の肌のように冷たい風を突き抜け、北へ、さらに北へと歩みを進めていた。
カグチの右半身を侵食する漆黒の結晶は、渓谷での「自壊」を経てさらにその領域を広げている。
いまや鎖骨を越えて喉元を絞め殺さんばかりに這い上がり、呼吸の一つひとつが、肺をガラス片で削り取るような激痛を伴っていた。
二人がたどり着いたのは、切り立った崖の合間に、煤けた石造りの建物がひしめき合う「灰の里」だった。
そこは、カグチがいた里ほど巨大ではないが、独自の閉鎖的な「規律」が息づく掃き溜めだ。街全体を覆うのは、安価な石炭を燃やした際に出る、喉を刺すような黄色い煙。空は常に濁り、陽の光さえも不純物に濾過されて届かない。
「……着いたわよ、カグチ。ここなら、少しは身体を休められる」
ヨミが、カグチの左腕を自分の肩に回し、崩れそうな彼を支える。
二人は、殺した衛士から剥ぎ取った厚手の外套を深く被っていた。15歳という年齢は、ここでは「どこにでもいる浮浪児」として、皮肉にも最高の隠れ蓑になる。だが、その外套の下には、里の「規律」が鋳造した重い呪鋼貨が、奪い取った命の匂いを纏って詰め込まれていた。
里の門番は、二人の若者を一瞥し、鼻を鳴らして通した。
吹雪で遭難しかけた、どこにでもいる哀れな少年少女。門番の目にはそう映ったはずだった。だが、カグチを支えながら歩くヨミが、ふとフードの隙間からその横顔を覗かせた瞬間、男の呼吸が止まった。
透き通るような磁器の肌に、深い夜の闇を溶かしたような黒髪。そして、冷徹なまでの光を放つ黄金色の瞳。
その美しさは、泥と煤にまみれたこの里において、あまりにも純粋で、それゆえに毒々しい。すれ違う男たちは、彼女の姿を網膜に焼き付けた瞬間、自分が今何をしようとしていたかさえ忘れ、ただその背中を、呪縛されたように見送った。
カグチには、それが見えていない。
聴覚を失い、味覚を失い、温度さえも曖昧になった彼の世界は、いまやヨミという「唯一の熱源」と、自身の右腕から伝わる「脈動する呪い」の二色だけで構成されていた。
「……ヨミ、……俺、……臭うか?」
カグチが掠れた声で漏らす。
自分の肉が、里の毒と漆黒の結晶に焼かれ、腐り落ちているのではないか。その不安だけが、感覚を失った彼の脳内にこびりついて離れない。
呪力を通してヨミの声を捉える。
「いいえ。貴方は今、誰よりも綺麗な銀の色をしているわ」
ヨミは嘘をついた。
カグチの髪は、吸血鬼の呪力と里の廃液が混ざり合い、**光を拒絶する鈍い鉛色**へと変色していた。
それは生命力が枯渇し、人間であることをやめた「死の色」だ。栄養を失った髪は、ヨミが触れるたびにボロボロと雪の上に抜け落ちていく。だが、ヨミはその抜け落ちる髪を慈しむように指で弄んだ。
(そうよ、カグチ。貴方はもっと、人間から遠ざかればいい。そうすれば、貴方の拠り所は私だけになる……)
彼女の脳裏には、かつて自分を追放した”白の里”の長老たちが怯えるように囁いていた禁忌の名が蘇っていた。
『灰の里には、肉を刻む彫刻師がいる。名を【ドクター・ギル】……。あやつは、わしら里の聖なる術理を泥にまみれさせた大逆罪人だ。近づいてはならぬ。あれは、死神よりも質が悪い』
ヨミは無言でカグチの肩を抱き寄せた。彼を救うためなら、どんな禁忌に触れても構わない。いや、彼を「救い」という名の檻に閉じ込めるためなら、悪魔の手さえも取るだろう。二人の歩みは、里の最下層にある、地下酒場「錆びた歯車」へと向かった。
地下酒場「錆びた歯車」の重い鉄扉を開けると、安酒の腐臭と、不衛生な体臭、そして煮込み料理が腐敗したような脂の匂いが、カグチの残された嗅覚を乱暴に揺さぶった。
カグチは視神経を極限まで集中させた。音のない世界。だが、酒場の喧騒は空気の「振動」として彼の肌を打つ。男たちが机を叩く震え、大声で笑う喉の震動。それらがカグチの脳内で、不細工な幾何学模様となって展開される。
ヨミは迷うことなく、カウンターに一枚の呪鋼貨を置いた。
「……医者の情報を買いに来たわ」
鈴を転がすような、しかし芯まで凍りつくような声が、酒場の騒がしさを一時的に凪がせた。
彼女の美貌と、分不相応な大金。ならず者たちが、薄暗い影の中から、じりじりと包囲の網を狭めていくのを、ヨミは冷めた黄金の瞳で捉えていた。
店主が声を潜める。
「よしておけ。ドクター・ギルは、里の規律を逆手に取って、死体や異形をツギハギにする狂人だ。今は北の廃都の地下深くに潜んでいる。……どんな欠損も治すが、代わりに『一番大切なパーツ』を持っていかれるって話だ」
「治す……」
ヨミの呪力を通じてその言葉が、カグチの胸を突いた。味覚、聴覚、そして死んだようにぶら下がる右腕。それがもし戻るのなら。もう一度、ヨミの声を、この耳で直接聞けるなら。
酒場を出て、里の監視の目から外れた細い裏路地。
「待ちな、お嬢ちゃん」
影が伸びた。酒場にいた四人の男たちが、ナイフを抜き、二人の退路を断った。
「その金を置いていきな。……それと、その綺麗な顔に傷がつかないうちに、俺たちと一緒に来てもらおうか」
一人がヨミの髪に触れようと、汚れた手を伸ばす。
カグチの視界が、一瞬で「赤」に染まった。
里の連中に見つかるわけにはいかない。姿を晒せば、ここも渓谷と同じ地獄になる。
「……わかってる。……音は、……出させねえ」
カグチは、自身の力『転写』を発動させた。標的は、男たちの肉体ではない。**【空間の振動】**そのものだ。
男が何かを叫ぼうとして、大きく口を開けた。だが、そこからは空気の抜けるような音さえもしない。カグチが、男たちが発するすべての「音」を、自身の右腕の漆黒の結晶の奥底へと、強制的に吸い込み、閉じ込めたのだ。
「――っ!? ――!!」
自分の声が出ないことに、男たちがパニックに陥る。無音の静寂。
だが、代償は即座にカグチを襲った。吸い込んだ震動が右腕の中で逃げ場を失い、超高周波の刃となってカグチの内側をズタズタに切り刻む。
「……ッ、ガ、……ハッ……!!」
カグチの耳管からどす黒い血が溢れ、骨が超振動で軋みを上げる。静寂を作るために、カグチの内部では数千人の絶叫が響き渡っているも同然の激痛。
その「内部の地獄」の中で、ヨミが舞った。
彼女は慈悲もなく、男たちの急所を穿った。肉を裂く音、骨が砕ける音。そのすべてをカグチが「内部」で引き受けているため、外側にはただ、人形が崩れるような不気味な光景だけが広がる。
最後の一人の頭を掴んだとき、カグチは右腕に溜まった振動を一気に男の脳内へ逆流させた。
――ドォォンッ!!
外部には響かない。だが、男の頭蓋の中で爆発的な共鳴が起き、眼球が弾け飛ぶ。
路地裏に残されたのは、傷一つないのに中身を破壊された四つの塊と、血を吐いてうずくまるカグチだけだった。
「……汚らわしいわね。せっかくの髪が、汚れちゃうわ」
ヨミは死体を見下ろすこともなく、抜け落ちそうなカグチの鉛色の髪に指を通した。彼女は、聴覚のないカグチの耳元に唇を寄せ、甘く、冷酷に囁く。
「ねえ、カグチ。味も、音も、光も……全部失えばいい。そうすれば、貴方は私の熱だけを頼りに生きる、私だけの『物』になれるもの」
カグチには、彼女が何を言っているのか分からない。ただ、指先に伝わるヨミの体温だけが、この狂った世界で唯一の「本物」だと信じるしかなかった。
「……ヨ、……ミ……」
カグチの喉から、血の混じった掠れた音が漏れる。
彼は気づいていない。自分が彼女を守っているつもりで、実は**「自分を壊すことでしか彼女の隣にいられない」**という、底なしの共依存に沈んでいることに。
二人は、再び霧の立ち込める廃都へと足を進めた。
カグチの右腕は、先ほど飲み込んだ「悲鳴」を内側で反芻しながら、さらなる破滅を求めて不気味に熱を帯びていた。




