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第7話 虚無の残響

 村の灯火が完全に視界から消え、深い霧の立ち込める渓谷へと入り込んで2日が経つ頃。


カグチを背負って歩いていたヨミの足が、不意に止まった。


「……カ、グチ。……もう、いいわよ」


 彼女がその細い肩を下ろすと同時に、カグチの身体は泥のように雪の上へ崩れ落ちた。ピクリとも動かない。右半身を覆っていた漆黒の結晶は、熱を失い、炭化した樹皮のような不気味な質感でカグチの肉に癒着している。

カグチの意識は、底のない深い沼に沈んでいた。


不死身の肉体が、無理やり「生」を繋ぎ止めている。だが、それは救いではない。グンシュの『千年の楔』が放った数千倍の重圧、そしてヨミから流し込まれた「不浄な記憶」の濁流。


それらが肉細胞の一つ一つを焼き切り、神経をズタズタに引き裂いた感覚が、死ねないがゆえに永遠に反復され続けている。


「……ハ、……あ、……」


カグチの口から、濁った吐息が漏れた。ゆっくりと目を開けるが、焦点が合わない。何も味がしない口内。そして何より恐ろしいのは、数時間前まで自分を動かしていた「怒り」や「悲しみ」といった感情までもが、あの黒い大顎が全てを喰らい尽くした後のように、空っぽになっていることだった。


「……すごかったわよ、カグチ。貴方のあの腕、……里の規律を、文字通り『食べちゃった』んだから」


ヨミは笑おうとしたが、その表情はすぐに歪んだ。カグチの右肩から先は、もはや「腕」の形を維持できていなかった。枯れ木のように細く変色し、感覚を完全に失った**「死んだ肉の塊」**として、ただカグチの胴体にぶら下がっている。


不死身の再生能力をもってしても、あの「不純」の反動は癒えない。カグチの身体は、異物を排除するのではなく、異物そのものとして固定され始めていた。


その時、霧の向こう側から、整然と並び、軍靴の音を一つに重ねる数十人の足音が響いた。「里の衛士」。彼らは意志を持つ処刑人、猟犬とは違う。里の『規律』を物理的に守護するために訓練された、感情を殺した兵器群だ。

その中央、一人の少女と、一人の巨漢が立っていた。


「……見つけたわ。すごい見た目ね。グンシュを壊し、シンカイを汚した『粗大ゴミ』そして、吸血鬼。」


少女の名はサレン。里の規律において「浄化」を司る執行者。彼女の手には、巨大な**『銀の洗礼盆せんれいぼん』**が握られている。


彼らは、村の子供からの証言で、ヨミの正体が吸血鬼だと睨んでいた。


「サレン、余計な私情を挟むな。グンシュとシンカイが敗れたのは、奴らが規律よりも『個』の武勇を優先したからだ。我々は違う」


巨漢ボルドが、重厚な声を響かせる。


「シンカイの速さ、グンシュの重圧。それらを食い破ったというのなら、次は『空間』そのものを奪うまでだ」


カグチの脳裏に、かつて里で見た光景が断片的に過ぎる。シンカイ、グンシュ、そして目の前の二人。彼らはかつて同じ精錬炉の周りで、里の「正しさ」を競い合っていた同僚であり、カグチという「器」を管理していた飼い主たちだった。


「カグチ……、逃げるわよ」


ヨミが震える手でカグチの左手を握る。だが、カグチは動かない右腕を引きずりながら、ゆっくりと立ち上がることしかできなかった。


「―― 規律の第四項を適用。『呪具の資産化』を承認、それにより第二項の制約も開始」


「逃げ場などない。――不純物の完全凍結」


サレンが盆を傾けると、空気中の水分が瞬時に凝縮され、逃げ場のない「氷の棺」が形成された。カグチの足元から細胞が凍りつき、再生機能が「壊された」と認識する前に、物理的な凍結がカグチの時間を止めていく。


「……ッ、ハ、……ハァ……」


カグチは、右足に伝わる冷気の「負荷」を、あえて全身で受け止めた。


不死身の再生能力は、損傷をトリガーに発動する。ならば、この氷に「壊される」ことで発生する内側からの熱を、どう利用するか。

カグチの唯一残った左手が、動かない右腕の結晶に触れる。


(……来るなら、来い。……全部、俺の中に詰め込んでやる。)



「サレン、盆を傾けろ。器に『隙』を与えるな。再生の熱すらも絶対零度で固定フリーズしろ」


ボルドの指示は冷徹だった。


サレンが『銀の洗礼盆』を斜めに掲げると、そこから零れ落ちた極低温の呪力が、カグチの周囲の空間を白銀の世界へと変える。


カグチの不死身の特性――それは「壊された先から復元する」という動的なプロセスだ。


しかし、サレンの氷は細胞を物理的に破壊しない。限界まで温度を下げることで、分子の運動そのものを停止させる。


損傷がない以上、カグチの再生能力は「修復すべき傷」を検知できず、エンジンだけが空回りするような熱を帯びた。


「……あ、……ぁ……」


カグチの呼気が白く凍り、肺の奥が裂けるような痛みに襲われる。

さらに、巨漢ボルドが踏み出した。


「―― 規律の第三項を適用。『肉体の資産化』を承認、それにより第二項の制約も開始」


 「『体積』を奪う」


ボルドの手が触れた大気が、鋼鉄以上の密度へと凝縮される。

それは、カグチの身体を物理的に押し潰す「透明な壁」となって迫った。

サレンの氷で表面を固められ、ボルドの重圧で内側へ押し込まれる。

カグチの肉体は、再生しようとする膨張圧と、外部からの圧縮圧に挟まれ、ミシミシと骨を軋ませた。


(……逃げ道はない。……物理的に、分裂するスペースがないんだ……)


カグチは視界を真っ白に染められながら、思考だけを研ぎ澄ませる。

隣では、ヨミが衛士たちの放つ銀の槍に翼を焼かれ、苦鳴を上げていた。


(……俺は、ゴミ箱だ。……なら、ゴミ箱らしく……容量の限界を超えてやる)


カグチは、自身の唯一の力『転写』を、使い、ヨミの体に対して発動させた。


カグチは、ヨミの怪我を右腕の先端、わずか数センチの範囲へと一点集中(転写)させた。


外部からの重圧を一点に集めれば、そこは超高圧状態となる。しかし、カグチの右腕には、不死身の再生能力による「内側からの熱」が逃げ場を失って蓄積されている。


極限まで圧縮された空気や呪力は、急激な温度上昇を引き起こす。カグチは右腕の中で、強制的に「小型の爆弾」を作り出しているのだ。


「……カグチ? 右腕が、赤く……?」


ヨミが異変に気づく。


漆黒だった右腕の結晶の奥底から、ドロドロとした溶岩のような赤い光が漏れ始めていた。


ボルドの重圧が強まれば強まるほど、右腕の内部圧力は反比例して高まっていく。


「何をしている……? まさか、自ら圧力を受け入れ、内圧を高めているのか!?」


ボルドが驚愕し、本能的に手を引こうとした。だが、遅い。


「……全部、……引き受けたぜ……」


カグチは、右腕を覆う結晶の「一点」だけを、あえて脆くした。


ダムが決壊するように、蓄積された高圧の蒸気と、ヨミの呪力が混ざり合った「不純物」が、唯一の出口を求めて噴き出した。


ドォォォォォォォォォンッ!!


「なっ……!? 氷の棺が……爆ぜた!?」


それは爆発ではない。


高密度に圧縮されていた空間が、カグチの右腕を起点として一気に膨張した「物理的決壊」だ。


ボルドの重圧を「反発するバネ」として利用し、サレンの氷を「破片を飛ばすための薬莢」に変えた、極めて合理的なカウンター。


吹き飛んだ氷のつぶてが、超音速の散弾となって周囲の衛士たちを容赦なく貫く。


ボルドは自身の重圧の反動で後方へ吹き飛ばされ、サレンの洗礼盆は、爆風の熱に耐えきれずキィィィンと悲鳴を上げてヒビが入った。


カグチ自身、その爆心地で右半身の肉をズタズタに引き裂かれていた。


しかし、血飛沫を上げながら、彼は笑っていた。


不死身であるがゆえに、自分を「爆弾の導火線」として使い捨てにできる。


「……グンシュは、……あんたらの鎖で……俺を縛ろうとした。……だが、……俺の中にある『汚れ』は、……もう誰にも、……縛れねえよ」


カグチは、突き刺さった銀の槍を自ら左手で握り、さらに深く自身の胸へと突き立てた。

槍が放つ冷気という「新たな燃料」を、次なる爆発のために取り込むために。


爆風が止んだ後の渓谷は、地獄のような熱気と極寒の霧が混ざり合い、視界を白く濁らせていた。


カグチは右半身の肉を焼かれ、剥き出しになった骨が再生の脈動で不気味に蠢いている。


しかし、その顔に苦悶はない。味覚も聴覚も失った彼は、ただ「自分が壊れることで敵を排除する」という物理的な因果の連鎖だけを、脳内で冷静に計算していた。


「……ありえないわ。自分の肉体を爆心地にするなんて。正気じゃない……!」


サレンが、ひび割れた『銀の洗礼盆』を抱えて後ずさる。彼女の浄化の象徴であった盆は、カグチから放たれた不浄な熱量によって、どす黒く変色していた。


「正気だと? サレン、忘れたのか。こいつは精錬炉の底で、毒を耐え続けた『不純物の器』だぞ」


ボルドが、粉砕された右腕をだらりと下げ、苦々しく吐き捨てた。


「かつて、俺たちがシンカイやグンシュと並んで、こいつに何を注ぎ込んできたか。……こいつの中には、里が5年かけて排出し続けてきた『ゴミ』が、圧縮されて詰まっている。今、その蓋が開こうとしているんだ」


カグチの脳裏に、かつての記憶が不快なノイズとして逆流する。


シンカイの刀が、毎日のように自分の腹を貫いていたこと。


グンシュが、重圧で自分の頭を石畳に押し付け、「規律を飲め」と囁いていたこと。


そしてボルドとサレン。彼らはカグチの肉体が限界に達するたび、凍結と圧縮を繰り返し、その「容量」を無理やり拡張させていたのだ。


彼らは仲間だった。カグチを「育てる」という一点において、完璧に連携する飼育員だった。


「……ああ。……あんたらの顔、……今、思い出したぜ」


カグチの喉が、ガリガリと渇いた音を立てる。


「シンカイの速さも、……グンシュの重さも、……俺の中に残ってる。……あんたらの『正しさ』が……俺を、こんな化け物にしたんだ」


カグチは、自身を貫いている銀の槍を左手でさらに深く抉り、その「冷気」の負荷を右腕の特異点へと回した。


ボルドの重圧が、カグチの体内にある不純物と、外部からの冷気を限界まで混ぜ合わせる。


「ボルド、下がりなさい! くるわ!」


サレンの警告よりも早く、カグチは動かないはずの右腕を、ボルドの胸元へと突き出した。


正確には、腕を動かしたのではない。右腕の中で爆発的な「膨張」を意図的に引き起こし、その反動で自身の肉体を前方へと射出したのだ。


「――『転写』、臨界突破」


カグチは、自身にかかっているすべての「重圧」と「凍結」を、一瞬だけ解除した。


ダムが崩壊するように、カグチの右腕に溜め込まれていた物理的エネルギーが、指向性を持ってボルドへと襲いかかる。


「ぐ、あああああぁぁぁっ!!」


ボルドの巨躯が、内側から膨れ上がるような衝撃を受けて宙に浮いた。


カグチの「自壊の衝撃」が、ボルドの肉体に直撃されたのだ。ボルドの強靭な筋肉が、カグチの右腕に耐えきれず、内側から破裂していく。


カグチは止まらない。そのままサレンへと視線を向けた。


足元は凍りつき、右腕は爆発で失われかけている。それでも、彼は這いずりながら進む。


「……規律、……だろ? ……最後は、……俺を、壊して終わらせてみろよ」


その瞳には、かつてトトに見せた優しさは一欠片も残っていなかった。


サレンは、カグチの「虚無」に呑み込まれる恐怖から、洗礼盆を投げ捨てて逃げ出した。


その時、サレンの体が爆散した。


規律第二項:【戦闘を放棄し、逃走した場合、身体が停止する】


里の執行者が、管理対象に背を向けて逃げるという、規律崩壊の瞬間だった。


夜が明ける頃。


渓谷には、動くものは何もなかった。


数十人の衛士は、カグチが放った「破片」によって、物言わぬ肉の塊と化していた。


カグチは、雪の上に仰向けに倒れていた。


右腕は、もはや肩の付け根から黒く焦げ、皮一枚で繋がっているだけの無惨な姿。


不死身の再生能力は、あまりにも過酷な「自壊」の連続に、追いつくことを拒絶しているようだった。


「……カ、グチ……、……カグチ……!」


ヨミが、ボロボロの身体を引きずりながら、彼を抱きしめる。


彼女の流す涙が、カグチの頬に触れたが、彼にはその温度すら分からなかった。


ただ、右腕の奥底で、里の規律を「食い尽くした」という、ドロドロとした黒い充足感だけが、毒のように全身を巡っていた。


「……ヨミ、……俺、……笑ってたか?」


「……ええ。……世界で一番、……悲しい顔をして、……笑っていたわ」


二人の背後、朝焼けに照らされた渓谷の入り口には、次なる追跡者の影が、すでに揺らめいていた。


里の「長」たち――シンカイやグンシュさえも跪かせる、真の支配層が、この「バグ」を消去するために動き出そうとしていた。


カグチの右腕は、感覚のないまま、不気味に熱く、鼓動を続けていた。


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