第6話 理の崩壊
村の出口。
月光を反射した銀の網が、深夜の静寂を幾何学的に切り裂いていた。
その一本一本が、眠る村人たちの心拍に同期し、カグチの一挙手一投足を見張る「死神の指先」と化している。
「……動くな。一歩でも踏み出せば、その質量に応じた規律が、あの子守唄の主たちの喉を裂く」
重厚な金属音を響かせ、グンシュが闇から歩み出た。
周囲には、里の廃液で筋肉を鋼に変質させた三頭の追跡獣『餓狼』が、黒い涎を滴らせて展開している。
カグチは右腕を庇い、泥濘の中に立ち尽くしていた。
右足に打ち込まれた「重力の楔」が、グンシュの接近に呼応して、骨を直接万力で締め上げるような軋みを上げる。
「……クソが。里の連中は、どこまで行っても『正しさ』を盾に使いやがる」
カグチの肺の奥には、先ほど啜ったスープの温もりがまだ澱のように残っていた。薪の匂い、父親の無骨な手、少年の笑顔。それらすべてが今、カグチの足を縛る最悪の重石となっていた。
「カグチ、落ち着いて。あの男の鎖は、この村一帯の『因果』を自らの楔に繋ぎ止めているわ」
ヨミが背に寄り添い、冷たい指を首筋に這わせる。
「……ヨミ。あいつの鎖を、俺の体に『転写』する」
「……何を言っているの? 引き受ければ、貴方の器は一瞬で崩壊するわよ」
「やらせてくれ。……アイツらに、スープの代金を払わなきゃいけねえんだ」
カグチの声から悲壮感が消え、静かな殺意へと純化していく。
「……いいわ。貴方が望むなら、どこまでも付き合う。でも、貴方の『人間としての側』が、一つずつ壊れていくわよ」
ヨミは艶然と微笑み、カグチの血管に牙を立てた。血を吸うのではない。
純度の高い力をカグチの濁った血流へと直接叩き込む「逆流」だ。
「――ぁ、……っ、ガ、アァァァァッ!!」
血管に氷の楔を打ち込まれたような劇痛。
だがその痛みが、右足の重力を一時的に上書きした。
カグチはボロ布を力任せに引きちぎる。そこに「人の腕」はもうなかった。肘から先が漆黒の結晶に覆われた、歪で凶悪な杭。
カグチが一歩、踏み出した。
ギチィッ!!
村の民家が重圧に悲鳴を上げる。銀の糸が赤く発光し、眠るトトたちの喉元へと引き絞られた。
「……っ、ハ、ハァ……!!」
カグチは能力『転写』を発動した。【村人が受けるはずの死の負荷を、すべて自分の右腕一本に集中させる】。正気とは思えない歪な力。
「……がああああああぁぁぁぁぁっ!!」
村を覆っていた糸の張力が消え、代わりにカグチの右腕が数トンの「殺意」を受けてミシミシと砕け始める。
「ほう。他者のために器を壊すか。里の『完成品』が、これほど情緒に汚染されていたとはな」
グンシュが腕を振るった。
「行け。その出来損ないを食い散らせ」
三頭の『餓狼』が弾かれたように地を蹴った。一体がカグチの背後から跳躍し、巨大な顎を開く。
「……邪魔よ。その汚物のような息を、私にかけるな」
ヨミの背から『黒鏡の刃』が爆発的に展開された。
ドォォォッ!!
空中で翼と鋼の骨格が激突し、衝撃波が巨樹をなぎ倒す。翼が餓狼の脚を根元から斬り飛ばしたが、獣は痛みを感じぬまま三本脚で着地した。
「……ヨミ。……切ってくれ」
カグチが掠れた声で呟いた。
「……何を? これ以上、貴方のどこを壊せばいいの?」
「……『味覚』だ。あのスープの味が……俺を甘くさせる。あいつらの顔を思い出したら、腕が震えちまうんだよ」
ヨミは唇を噛み締め、慈しむように、カグチの味覚中枢を凍てつく呪力で焼き切った。
瞬間、脳内からトトの笑顔が、スープの温もりが、ノイズと共に消え去った。残ったのは、敵を排除する「中和炉」としての機能だけ。
「……よし。行くぞ、里の犬」
カグチが大地を砕いて跳躍した。舌先から感覚が消え、スープの味は冷え切った鉄の味へと変質する。それは「人間・カグチ」の死であり、戦うための「不純な器」としての完成だった。
「――『転写』、全開放」
ドォォォォンッ!!
激突の瞬間、右腕に溜め込んだ数百人分の「死の負荷」を、餓狼の頭部へと逆流させた。物理的な打撃を超えた因果の押し付け。
一体の餓狼が、悲鳴もなく肉の塊となって四散した。
だが代償は即座に現れる。右腕の結晶が剥がれ落ち、露出した生身の肩に三体目の餓狼が食らいついた。腐食性の涎が鎖骨を焼き、黒い煙が上がる。
「……あ、……ぁ……」
もはや痛みは心を動かさない。餓狼が肉を食い千切ろうと首を振り回し、カグチの身体は人形のように揺れる。
「不愉快ね。私の食べ物に、誰が触れていいと言った?」
ヨミが餓狼の頭を掴み、翼を千本の針に変えて獣の全身を蜂の巣にした。ヨミはその生命力を吸い上げ、カグチの右腕へと再充填していく。二人の共犯関係は、戦場で互いの欠損を補い合う永久機関へと昇華されていた。
「残るは、一人だ」
カグチは右肩を抉られたまま立ち上がった。傷口からは血ではなく、黒い霧のような呪力が立ち昇る。
「管理を拒む器には、真の絶望を刻んでやる」
「……規律の第四項を適用。『呪具の資産化』を承認。それにより第二項の制約も開始」
グンシュが『千年の楔』を解き放った。鎖が描く軌跡が空間を「里の地底」へと同期させる。カグチの周囲の重力が数千倍へ跳ね上がり、地面が陥没した。
「……が、ぁ……っ、ヨ、……ミ……!!」
ヨミが翼を盾にカグチを抱きしめる。彼女の白い肌が重圧でひび割れ、黄金の血が噴き出した。カグチの右腕も粉々に砕け始める。
意識が闇に溶けようとしたその時、ヨミの唇が耳元に触れた。
「……カグチ、聴こえる? 私の一番奥にある『汚れ』を、全部貴方に流し込むわ」
「……ハ、やってみろよ。俺は不純物の器なんだろ?」
二人の魂が重なった。カグチの毛穴から黄金の蒸気が噴き出す。砕け散った結晶の破片が重力に逆らって宙を舞い、肩口へ再集結していく。
それはもう腕の形をしていなかった。カグチの右半身を侵食し、喉元までを覆い尽くした漆黒の「大顎」。
「……規律がどうとか、うるせえんだよ」
カグチの声は地鳴りのように響いた。彼は数千倍の重力をただの「踏み台」として踏み躙り、グンシュの絶対支配空間を不純な気配で塗り潰していく。
「……俺みたいな『ゴミ溜め』を繋ぎ止めるには、少し細すぎたな、その鎖」
カグチの右肩の顎が咆哮し、空間を紙のように引き裂いた。彼は黒い弾丸となって肉薄する。
「――『不純』・『転写』」
カグチの黒い大顎が、最後の一頭の餓狼を「喰らった」。食いちぎるのではない。存在の意味を書き換え、泥へと還元したのだ。
「里なんて……最初から、俺にはなかったんだよ」
カグチの顎がグンシュの首筋に届く。最後の一押しとして、自分の中に残っていた「スープの味」という記憶をすべて燃やし尽くした。
ドォォォォォォォォォンッ!!
夜の森に黒い閃光が走った。グンシュの鎖は砕け、鋼の仮面が内側から割れる。
崩れ落ちる間際、グンシュはカグチの瞳の中に、規律を凌駕する「深い虚無」を見て絶望した。
静寂が、戦場を包む。村を覆っていた糸は消え、朝焼けの光が惨劇を照らし出す。カグチは右半身を侵食されたまま倒れ込んでいた。
「……カグチ、起きて」
ヨミが傷ついた体でカグチを抱き上げる。カグチはうっすらと目を開いた。目の前にいるヨミの「黄金の瞳」だけが、世界で唯一の鮮やかな色彩だった。
「……まいた、のか……?」
ふと、村の方から人影が近づいてくる。トトだった。手には小さなボウル。逃げる二人に渡そうとした昨日の残りのスープだろう。
だが、トトは足を止めた。カグチはトトの顔を思い出そうとしたが、もうどんな形をしていたか分からない。味覚と共に、記憶さえも焼き切ってしまったから。
そして、少年の瞳に宿っていたのは、恐怖だった。
トトの目には、カグチはもう「お兄ちゃん」ではない。黒い異形の腕をぶら下げた、言葉の通じない災厄。
トトの手からボウルが落ち、スープが雪の上にこぼれて湯気が消えた。少年は悲鳴を上げ、村へと逃げ帰っていく。
「……ハ、……ハハッ……」
味覚を失った自分を、世界が「不純物」として放り出した。
「……行きましょう、カグチ。ここにはもう私たちの場所はないわ」
ヨミがカグチを背負う。二人は村の光に背を向け、朝焼けとは逆の、深い谷の奥へと足を進めた。
里の「器」は死んだ。そこに残ったのは、吸血鬼と、彼女に魂を売った一人の怪物だけだった。




