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第5話 居場所

 里の精錬火が吐き出す硫黄と鉄錆の匂いは、いつの間にか霧の彼方へと消え去っていた。


漆黒の翼が霧散し、二人は巨樹が天を隠す原生林の底へと降り立つ。


 代わりに肺を突いたのは、数百年かけて積み重なった腐葉土が放つ、重苦しい空気。


 着地した地面は、里の硬い石畳とは違った。濡れた苔が体重を拒むことなく沈み込ませる、柔らかな感触。むせ返るような緑の匂いが、逃亡者であるカグチの肺を乱暴に満たした。


「……ハァ、ハァ……。ここは、どこだ……」


 カグチは膝をつき、湿った土を掴んだ。指の間から、里では決して見ることのなかった「生命の残骸」がこぼれ落ちる。


「里の熱が届かない、静寂の底。少しだけ休みましょう」


 ヨミに促され、カグチは巨樹の根元に背を預けた。見上げれば、葉の隙間から、里の煙に曇っていない本当の月光が幾筋もの白い糸となって降り注いでいる。


 その光はあまりに清冽で、自分の汚れた指先を照らし出されることに、カグチは本能的な拒絶を覚えた。


「……なぁ、ヨミ。外の世界ってのは、こんなに騒がしいものなのか?」


 耳を澄ませば、風の音の裏側に無数の「個」が蠢く音が響いている。羽音、這いずる音、そして何かが何かを食らう生々しい咀嚼音。


「そうね。里があまりに特殊だったのよ。あそこの濃縮された毒と熱は、普通の生き物にとっては近づくだけで魂を焼かれる『黒い太陽』。だから並の怪異は、里を恐れて決して近づかなかった」


 カグチは自嘲気味に口角を歪めた。自分を「不純物」として蔑んだあの排液が、同時に怪物たちを遠ざける最強の防壁シェルターになっていたのだ。


「……じゃあ、俺がいたあの崖は、世界で一番安全な地獄だったってわけか」


「ええ。でもここは違う。毒の加護がない、剥き出しの戦場よ」


 ヨミの言葉が終わるより早く、背後の闇が物理的な質量を持って動いた。


 樹木に擬態していた巨大な捕食者――『森隠れのあぎと』。景色を皮膚に反射させる完璧な擬態を解き、横に裂けた巨大な口がカグチの右腕に襲いかかった。


「カグチ……ッ!」


 右足に打ち込まれた「重力の楔」が、反応をわずかに遅らせた。


 グシャリ、と生木を折るような嫌な音が静寂を切り裂く。怪物はカグチの右腕を肩口から食い千切ると、その「毒の塊」を喉の奥へと放り込んだ。


「……ハ、……ハハッ」


 だが、カグチの口から漏れたのは悲鳴ではない。乾いた狂気の笑いだ。欠損した肩から血は噴き出さず、代わりに沸騰した廃液のような黒い煙が、シュウシュウと腐食の音を立てて立ち昇る。


「ギ……ガ、ァ……ッ!?」


 直後、獲物を飲み込んだ怪物の様子が豹変した。腹部が内側から幾何学的な形に膨れ上がる。カグチの肉体は、彼を愛でる吸血鬼以外のあらゆる生命にとって、触れることさえ許されない「超高濃度の劇薬」だった。


「……不愉快ね。それは私だけが味わうことを許された、至高の血なのに」


 ヨミの黄金の瞳に冷徹な殺意が宿る。


「その不遜、万死に値するわ。――カグチ」


「ああ……出ろ」


 怪物の体内へ送り込まれた「右腕」が、廃液を燃料として瞬間的に再構成された。内側から臓器をズタズタに結晶化させながら、漆黒の刃が皮膚を突き破り、外側へと爆ぜる。


 カグチは足を引きずり、崩れ落ちた怪物の残骸へ歩み寄った。結晶に覆われた右腕を力任せに引き抜くと、それを自身の肩の断面に叩きつける。


「ア……ガッ!!」


 肉と神経が無理やり繋ぎ合わされる。だが、再生はそこで止まらなかった。


 癒着した腕から漆黒の結晶がトゲのように噴き出し、彼の鎖骨、喉元へと侵食を始めたのだ。

「……が、あ、あああぁぁぁぁっ!!」


 グンシュの「重力」と、カグチ自身の「破壊衝動」。相反する力がカグチという器を内側から食い破ろうとしていた。


「カグチ! 意識を離さないで!」


 ヨミがカグチを組み伏せる。右腕から放たれる熱量は周囲の苔を炭化させ、ヨミの白い肌をも焼き焦がしていく。


「……離れろ……っ! 俺が、俺じゃなくなる……っ!」


「いいえ、離さない。貴方を地獄から引きずり出したのは私。……なら、その責任も私が取る」


 ヨミは躊躇うことなく、カグチの肩口に牙を深く突き立てた。


 彼女は「吸う」のではなく、自身の呪力を循環させ、カグチの体内で暴走する熱を冷気で中和し始めたのだ。


「……ふ、ぅ……あ、……ぁ……」


 カグチの呼吸が落ち着き、皮膚の下へ結晶が沈んでいく。そこには再び、青白い少年の肌が戻っていた。


「……出し入れの仕方は、私の呪力で覚え込ませたわ。でも、一人でやろうと思わないこと。貴方の器は、もう半分以上、私と繋がっているんだから」


 ヨミは口元についた黄金の血を舌で拭った。


「……これなら、村へ行けるわ。人間たちの、フリをしてね」


 原生林を抜けると、不意に空が開けた。丘の下、夕闇の底に沈む小さな集落。窓からはオレンジ色の暖かな光が、穏やかな拍動のように漏れ出していた。


 風が運んできたのは、薪が燃える匂い、家畜の体温、そして――焼きたての小麦の甘い香りだ。


「……う、……ぅぷっ」


 カグチは唐突な嘔吐感に口元を押さえた。猛毒の中で最適化された細胞にとって、この清浄すぎる空気と平和な生活の匂いは、肺を焼き焦がす劇薬に等しかった。


「カグチ。貴方の身体、もう中身が漏れてるわよ。この綺麗すぎる世界じゃ、貴方は薄まって消えてしまう。……今の貴方は、ただの空腹ハラペコなのよ」


 ヨミは残酷に微笑んだ。


「あそこへ行くわよ。人間の食物を身体に詰め込んで、私の呪力を繋ぎ止める『芯』を造りなさい」


 カグチは、自分の生存が誰かの平穏を「燃料」として利用することでしか成り立たない事実に、奥歯を噛み締めた。


「――おーい! 誰かいるのかー!」


 やってきたのは、十歳にも満たない少年、トトだった。


「うわぁ……。ねえちゃんたち、旅の人? 服、ボロボロだぞ!」


 少年の瞳には警戒すらなく、ただ無垢な親切心だけがあった。


(……なんだよ、その目は。なんで、俺を見て笑えるんだ?)

 里では、彼のような「中和炉」を拝む者はいても、対等に笑いかける者などいなかった。


 案内されたのは村外れの古い納屋だった。

 扉が開き、トトの父親が湯気を立てるボウルを運んできた。


「大したもんはねえが、まずはこれを食え。大変だったな」


 差し出されたのは、白いスープだった。5年間許されなかった、獣の脂のコクと根菜の甘み。カグチはその匂いにさえ拒絶を感じたが、ヨミの視線に促され、機械的にそれを喉に流し込んだ。


(……美味い。)


 飲み込むたび、空っぽだった「器」の底に、どろりとした不純な熱が溜まっていく。すると、あれほど暴走していた右腕の結晶が、嘘のように静まり返っていった。


(俺の身体が……こいつらの善意を燃料にして、化け物を完成させていく)


 結局、自分は誰かの犠牲の上にしか存在できない不純物なのだという自覚が、カグチの胸を黒く塗りつぶした。


 その夜。カグチは眠れなかった。ヨミに血を差し出した後、納屋の扉を音を立てずに開ける。


「……行くぞ、ヨミ。燃料はもう十分だ。俺たちがここにいること自体が、あいつらへの毒だ」


 闇へと紛れ込もうとした瞬間、右足の「重力の楔」が大地そのものを引きずるような重圧をかけた。


「――ッ!?」


 前方、地面から銀色の輝きが噴き出す。不可視の規律が、物理的な質量を持って村の出口を封鎖した。


「逃げたか。やはりお前は、器としての教育が行き届きすぎているな」


 森の影から、鎖を纏った男――グンシュが歩み出る。足元では、里の廃液で鋼の骨格を得た三頭の餓狼が唸り声を上げていた。


「この結界鎖は、通過する者の『質量』に反応する。カグチ、お前が逃げようとすれば、この鎖は村の中心に向かって絞り込まれ、眠る子供たちを粉砕するだろう」


「……っ、ハァ……! 悪趣味ね……」


 ヨミの瞳が震えた。銀の糸が眠っている村人たちの心臓へと繋がっているのが、彼女には視えていた。この男は、村人の命を自らのくさびを止める「重石」に使っている。


 どこまでも自分を「道具」として扱い、一歩の歩みにさえ犠牲を強いる里の規律。


 その理不尽に対する「拒絶」が、カグチの中で臨界点を超えた。


「……俺は、里には戻らない。……けど、あいつらも殺させない」


 カグチの声から温度が消えた。ボロ布を引きちぎる。右腕の皮膚の下で、溜め込まれた廃液と吸血鬼の呪力が混ざり合い、凄まじい勢いで脈打つ。


「俺はどこへも行かない。……あんたたちをここで殺して、全部終わらせる」


 カグチが一歩、踏み出す。

 その瞬間、漆黒の影が、夜の帳と「規律」を同時に塗り潰した。

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