第4話 追跡
鉄錆の里の最深部、呪鋼を精錬する巨大な炉の傍らで、里長は自らの右腕を凝視していた。
そこには里の規律を守る者だけに刻まれる、複雑怪奇な幾何学模様の「呪印」が宿っている。精錬炉から溢れ出す、網膜を焼くような白熱の火影が、里長の老いた顔に刻まれた深い皺を、峻烈な谷間のように照らし出していた。
その刻印の一つが音もなく凍りついたように色を失い、霧が晴れるように消滅した。
「……シンカイの、反応が消えただと?」
里長の声は、精錬炉の爆音さえも切り裂くほど低く、地を這うような怒りと当惑に満ちていた。
里最強の番人であり、鋼の規律をその魂にまで宿したシンカイが、たかだか数時間の追跡で「沈黙」するなど、里の歴史上あり得ない事態だった。
「報告せよ。何が起きた」
傍らに控える側近が、声を震わせながら報告を読み上げる。
「はっ……。シンカイ殿の反応が途絶える直前、広範囲にわたる呪力の『逆流現象』が観測されました。中和炉の廃液を操る未知の変異体――例の不純物による、想定外の干渉と思われます」
里長は、苦虫を噛み潰したような表情で、黒ずんだ机上に広げられた古びた皮の地図を見下ろした。
彼らの認識では、ヨミという存在はあくまで「カグチの毒に適応してしまった、里の外に住む名もなき化け物」に過ぎない。
それが、遥か古の契約を司る「夜の一族」――吸血鬼であるなどとは、彼らの傲慢な想像の範疇を遥かに超えていた。
「精錬炉に溜まった五年の澱を一息に飲み干し、シンカイの鋼すら食い千切ったというのか。……もはや、個の武力で抗える段階ではないな」
里長は冷酷に、しかし迅速に判断を下した。
正体不明の「不純物」が、カグチという里の心臓たる「炉」を抱えたまま、自分たちの理解の及ばない進化を遂げようとしている。
その恐怖が、鉄の団結を誇った里の規律を、じわじわと「焦燥」という名の毒へと変えていく。
「 規律第一項:【器を損壊させる攻撃は、不随意筋が停止する】これを消しておけ。後、……『猟犬』を放て。バラバラにしてでも、その『炉』を連れ戻せ。ただし――」
里長は、背後の深い暗闇に溶け込むように立っていた男に、凍てつくような視線を向けた。
「グンシュ。貴様の『子供たち』には、不純物の肉を存分に食わせてやれ。骨のひとかけらも残す必要はない」
影が微かに揺れた。グンシュと呼ばれた男は、応える代わりに鉄の鎖をジャラリと不気味に鳴らし、一言も発さぬまま、重苦しい闇の奥へと消えていった。
深い霧が立ち込め、音さえも吸い込む川の合流地点。
里が放った精鋭『猟犬』の部隊は、手に持った呪鋼製の方位盤が示す微かな「血の熱」を追い詰めようと、血眼になっていた。
「……標的、移動を再開! 川の急流に乗り、一定の速度で下流へ向かっています!」
部隊長が怒号を上げ、黒装束を纏った男たちが飛沫を上げて川岸を駆け抜けていく。彼らの目には、手柄を目前にした卑俗な光が宿っていた。
だが、狂騒に沸く部隊の最後方で、ただ一人、足を止めて動かない男がいた。猟犬部隊を束ねるグンシュだ。
彼は顔の半分を呪鋼の面で覆い、その奥に潜む獣のような細い瞳で、流れる川の「不自然さ」をじっと観察していた。
彼の足元では、里の廃液で筋肉を肥大化させ、骨格を鋼のように変質させられた三頭の追跡獣『餓狼』が、川ではなく、正反対の方向――漆黒の山頂を向いて唸りを上げている。
「……ククッ、面白い。あのアホな小僧、並の追跡者なら今頃あのアホどもと一緒に、必死で川底をさらっていたところだ」
グンシュは重い鎖を引きずりながら、川岸の岩陰に突き刺さっていた「それ」を拾い上げた。それは血塗られた布に包まれ、主の血をたっぷりと吸わされた、呪鋼の杭であった。
「方位盤の針を動かし続けるために、自らの血を吸わせた杭を流し、自分が今も川沿いに移動していると信じ込ませたか。……死に体のガキが捻り出したにしては、上出来な知略だ。だがな、小僧」
グンシュは仮面の奥で嘲笑を浮かべた。
「方位盤は騙せても、私の鼻までは騙せんよ。……北の山へ逃げたか。だが、あの裏側は底も見えぬ死の断崖だ。袋のネズミになりに行くとは、滑稽なことだ」
グンシュは手にしていた方位盤を無造作に川へ投げ捨てた。
カグチたちが迂回しながら数時間かけて登った険しい山道を、グンシュは餓狼の驚異的な牽引力を使い、道なき絶壁を垂直に、最短距離で駆け上がり始めた。
その数時間前。山中の洞窟。
カグチは岩壁の冷たさに背を預け、肺を焼くような荒い息を吐き出していた。
胸には、五つ指を無理やり突き立てて肉を抉り取ったような、無惨な傷跡が刻まれている。ヨミがその指で、心臓を縛り続けてきた『呪鋼の杭』――その最後の欠片を引き抜いた際の裂傷だ。
「……あ、……カハッ、……クソが、……痛えなんてレベルじゃねえ……」
「静かに。傷は塞がっても、貴方の血はまだ興奮しているわ。今は休みなさい」
ヨミが、氷のように冷たい指先でカグチの額を抑えた。彼女の指先からは、先ほどシンカイを飲み込んだ際に奪い取った「銀の残光」が、微かな霧となって漏れ出している。
「……なあ、ヨミ。……本当に、抜けたんだよな。あの呪い」
「ええ。貴方の心臓を縛っていた鉄は、もう無いわ。……その代わり、貴方の体内には私の呪力が少し混じった。……もう、純粋な里の『器』とは呼べない身体ね」
ヨミの黄金の瞳は、カグチの胸に刻まれた痛々しい孔を凝視していた。
彼女にとってカグチは、血の貯蔵庫だ。だが、この数時間の死闘を経て、二人の関係は「捕食者と餌」から、より不気味で密接な共犯関係へと変質していた。
カグチはふらつく足取りで立ち上がる。
「……行くぞ。……連中が川底のゴミを拾って顔を真っ赤にしてる間に、誰も知らない場所へ」
だが、洞窟を抜け、朝の光が差し込み始めた断崖に出た瞬間、カグチは凍りついた。
目の前に広がっていたのは、垂直にそそり立つ漆黒の断崖絶壁だった。
「……っ、道が、ねえ……!? クソ、行き止まりかよ……!」
そしてその時、背後から霧を切り裂いて、鎖を引きずる不気味な音が響いた。
「ククク……。滑稽だな、小僧。方位盤を欺き、呪いの欠片を捨てれば逃げ切れると本気で信じていたのか」
霧の向こうから、グンシュの嘲笑が届く。彼はすでに眼下まで迫っていた。
前方には絶壁、背後には逃れられぬ死神。完璧な袋のネズミ。
「行き止まりに絶望し、這いつくばって許しを乞うがいい」
グンシュの放った『餓狼』たちの咆哮が迫る。だが、カグチの隣で、ヨミが静かに口を開いた。
「……カグチ。里の人間は、空を見上げることを忘れてしまったのね」
ヨミの黄金の瞳が、かつてないほど鮮烈な輝きを放つ。
「……私にとっては、この壁なんて、ただの景色よ」
ヨミがカグチの腰を引き寄せた瞬間、彼女の背中から漆黒の『黒鏡の翼』が爆発的に展開された。
ドォォッ!!
空気が爆ぜる衝撃と共に、二人の影は垂直の断崖を駆け上がった。
麓で鎖を握りしめていたグンシュが愕然として顔を上げた時には、二人の姿はすでに朝焼けの彼方へと消えていた。
「……空か。……ククッ、規律には、空を追う術など記されていない」
麓で鎖を握りしめていたグンシュは、嘲笑混じりに呟いた。
だが、その瞳に宿る獲物への執着は、一欠片も薄れてはいなかった。
彼は無造作に、自らの首に巻き付いた太い鎖を解き放った。
その先端には、里の精錬炉の底で千年間焼かれ続けたとされる禁忌の武具――『千年の楔』が接続されている。
「だが、私の鎖は、届くものすべてを『地』へと引き摺り下ろす規律だ。……行け」
グンシュが咆哮と共に腕を振るう。
放たれた鎖は、生き物のように空をうねり、急上昇するカグチたちの足首へと肉薄した。音速を超える一撃。ヨミが翼を羽ばたかせ、回避しようとした瞬間、鎖の先端がカグチの右足の甲を深く抉り取った。
「が、ぁぁぁぁっ……!!」
カグチの悲鳴が夜の空に木霊する。
単なる傷ではない。その楔には、里の精錬炉が持つ「強制的な重力」の呪いが込められていた。一瞬にして、カグチの肉体に数トンの鉛を埋め込まれたような凄まじい荷重がかかる。
「……離さないわ……っ! 絶対に!!」
ヨミが歯を食いしばり、翼を折れんばかりに羽ばたかせる。
翼の呪力と、楔の重力。空中で二つの力が激突し、その中心点となったカグチの肉体が、ミシミシと嫌な音を立てて軋んだ。
だが、ヨミの執念が勝った。
シンカイから奪い取ったばかりの膨大な魔力をすべて翼へと注ぎ込み、彼女は強引に鎖の呪縛を振り切った。
千年の楔はカグチの肉を削ぎ落としながら、虚しく地へと落ちていく。
雲を突き抜け、里の灯火さえ届かない高高度まで逃げ延びた時、ようやく世界に静寂が訪れた。
「……ハ、ハァ、ハァ……。……撒いた、のか……?」
カグチは、ヨミの腕の中で意識を混濁させていた。
削られた足首の傷から、黄金の血が夜風に散っていく。だが、異変はそこからだった。
楔によって刻まれた「里の重力」と、ヨミから注ぎ込まれ続けている「吸血鬼の呪力」。
相反する二つの力が、カグチの体内で混ざり合い、激しく沸騰し始めたのだ。
「カグチ、しっかりして! 私の血を……もっと、混ぜ合わせるのよ……!」
ヨミが己の手首を噛み切り、カグチの唇に押し当てる。
その瞬間、カグチの視界が反転した。
混じり合った血が導火線となり、カグチの脳内に、自分と同じ「不純」を背負わされたヨミの絶望が、冷たい濁流となって逆流し始めた。
――視えたのは、銀色に輝く美しい吸血鬼の一族。
記憶の中の空は、今よりもずっと高く、美しかった。
鏡の前で微笑む幼い少女、ヨミ。
その髪は、一族の誇りそのものである、透き通るような白銀だった。
『綺麗よ、ヨミ。貴方は一族の宝、私たちの誇りよ』
母の優しい声。だが、その幸福は長くは続かなかった。
ヨミの肉体には、ある「欠陥」があった。高潔な一族の血を、彼女の臓器は異物として拒絶し始めたのだ。
『飲め、ヨミ。……拒むな。これこそが我らの高貴なる証だ』
父が差し出す鮮血の杯。
だが、それを飲むたびに、ヨミは内臓を焼かれるような苦痛にのたうち、血を吐き戻した。
生きるために彼女が啜ったのは、誰も見向きもしない、獣の死骸から集めた「どす黒く汚れた血」だった。
一滴、飲み干すごとに、少女の美しい銀髪が内側から濁り始める。泥を吸い上げる植物のように、じわりと、逃れようのない漆黒が銀を侵食していく。
『……お父様、見て……私の髪が……』
怯える娘に、父が向けたのは、底冷えするような軽蔑の眼差しだった。
『里との契約を汚す穢れめ。一族に、お前のような不純物は不要だ』
八歳の冬。雪の中に放り出された、小さな黒い影。
母は自らの命を削ってヨミの髪を磨き続け、やがて力尽きた。
それから七年。泥水を啜り、世界への憎しみすら忘れるほどの圧倒的な「飢え」の中で、彼女は嗅ぎつけたのだ。
遠く、鉄錆の里から漂う、どの死血よりも濃密で、どの毒よりも甘美な「黄金の匂い」。
(……あ、あぁ……そうか。お前は、ずっと……)
現実の空の上で、カグチは白い息を吐き出した。
「……っ、カハッ……!!」
現実の空で、カグチは胃の底からせり上がる不快感に顔を歪めた。
脳を焼くのは、同情ではない。「同類を見つけてしまった」という、吐き気を催すような共鳴だ。
ヨミの身体が、一瞬で凍りついたように硬直する。
「……視えたのね。……私の、汚いところが」
彼女の黄金の瞳から安堵が消え、剥き出しの殺意と羞恥が宿る。
彼女にとってその記憶は、誰にも触れられたくない、自分を怪物だと定義する「傷」そのものだったからだ。
「……ああ、視えたよ。最悪だな、お前」
カグチは掠れた声で笑った。それは、聖人が向ける微笑みではない。崖っぷちで心中を企てる狂人の笑みだ。
「綺麗な銀髪がそんなに大事かよ。……死体の血を啜って、髪を真っ黒にして。……ハッ、最高じゃねえか。里の連中が見たら、泡を吹いて倒れるぜ」
ヨミが目を見開く。カグチは震える手で、彼女の細い首筋に指を掛け、強引に自分の方へ引き寄せた。
「お前は欠陥品だ。そして俺も、中身のない空っぽの器だ。……なあ、ヨミ。まともな人間になんてなれると思うなよ。俺たちはもう、泥の中でしか生きられない『汚れ物』なんだ。
汚れているのが罪だって言うなら、俺がその罪ごと、お前を飲み込んでやる。
……一人で地獄にいるのが怖いなら、俺をその道連れにしろ。俺も、あいつらを……この世界を、同じくらい憎んでるんだ」
ヨミの瞳が驚愕に揺れ、やがて、その奥にドロリとした執着の光が灯った。
「……そうね。……そうよ、カグチ。貴方だけは、私を『正解』だって言ってくれるのね……」
彼女はカグチの首筋に深く顔を埋め、まるで自分の欠けた半身を確認するように、彼の毒を、痛みを、狂気を啜り上げた。
その瞬間、カグチの右腕に変化が起きた。グンシュに刻まれた重力の呪いと、ヨミの記憶への共鳴が混ざり合い、彼の前腕から漆黒の結晶が突き出したのだ。
それは、里の杭(杭)でも、吸血鬼の牙でもない。
二人の「不純」が結晶化した、世界を切り裂くための新たな武器。
「……行きましょう、カグチ。私たちのことを、誰も不純だなんて言わない場所へ」
麓で、鎖の重みを感じながら立ち尽くすグンシュ。彼は自らの右腕に刻まれた楔の痕を見つめ、不気味に口角を上げた。
「……楔は打ち込んだ。どれほど高く飛ぼうと、お前の肉体には『里の重力』が刻まれている。……逃げられんよ、不純物ども。その傷が、お前たちを地獄へ引き戻す『道標』になる」
二人の自由は、まだ、完全なものではなかった。




