第3話 ふたりで啜る地獄
「……ぁ、あ……、熱い……っ!!」
夜明けの静寂を、カグチの呻きが切り裂いた。
彼の胸元、かつて鉄杭が打ち込まれていた痕が、皮膚を透かして脈打つように黄金色に輝いている。
里を離れ、黒滓の供給は止まったはずだった。だが、カグチの肉体は、五年の月日をかけて地獄を「日常」として学習してしまっていた。
彼自身の心臓が一打ちするごとに、清らかな血を猛毒へと精錬し、血管へと送り出していく。
「ダメだ……止まらない。俺の中から……溢れてくる……っ!」
カグチの指先から滴る汗が、地面の枯れ葉をジュウと焼き、黒い煙を上げる。彼は今や、存在しているだけで世界を蝕む、歩く精錬炉へと成り果てていた。
ふと隣を見ると、視界の端にヨミの艶やかな黒髪が映る。だが、その肌は病的なまでに青ざめ、触れるのを躊躇うほどに凍てついていた。
(……ヨミ? どうした、そんなに冷たくなって……)
吸血鬼である彼女にとって、太陽は絶対的な拒絶の象徴だ。直接肌を焼かれずとも、陽光が大気に満ちるだけで、彼女の内に蓄えられた呪力は霧散していく。
「おい、ヨミ。……死ぬんじゃねえぞ。ほら、飲めよ」
カグチは焦燥に駆られ、己の手首を荒々しく噛み切った。その時、カグチの胸の奥、心臓に埋め込まれた呪鋼の残滓が、嫌な音を立てて脈動した。里の番人が発する、追跡の共鳴波だ。
「……っ、あ……。……まじかよ。来いなんて言ってねえだろ……っ!」
震える手でヨミを揺り起こそうとした瞬間、小屋全体が凄まじい衝撃に震えた。
外から放たれたのは物理的な破壊ではない。呪鋼の共鳴を増幅させ、構造物を内側から爆ぜさせる「規律の波動」。小屋の支柱が音を立てて折れ、屋根が崩落する。カグチはヨミを抱きかかえ、光り輝く雪原へと飛び出さざるを得なかった。
一面の雪が光を反射し、ヨミの体力をさらに削っていく。太陽が彼女の輪郭を削り取り、透けた皮膚の下で血管が陽光に焼かれ、黒く変色していく。
その「光の檻」の中に、その男は立っていた。
白銀に輝く呪鋼を纏った里の番人、シンカイ。五年間、カグチを「器」として管理し、鉄杭を打ち込み続けてきた支配者の一人。その姿を認めた瞬間、カグチの膝は怒りと恐怖でガクガクと震えだした。
「……器が外へ出れば、里の秩序は腐る。戻れ、カグチ。そこは貴様のいる場所ではない」
シンカイの声には、憎しみも怒りもない。ただ、壊れた設備を定位置に戻そうとするような、徹底した事務的な冷徹さ。彼はカグチの隣で、かろうじて立っているヨミを、排除すべきゴミのように一瞥した。
「その不純物を間引く。器、そこをどけ」
「黙れよ……! ヨミは汚れなんかじゃない。俺を助けてくれたんだ!」
カグチが吠えるが、シンカイは取り合わない。一歩を踏み出すだけで雪原が爆ぜるような圧力が放たれた。シンカイは太刀『吸着の呪鋼』を抜き放つと、迷うことなく、ヨミの首を狙って肉薄した。
「やめろッ!」
ヨミが震える手で『黒鏡の翼』を展開する。だが、陽光の下では動きが鉛のように鈍い。シンカイの太刀が、空中のヨミの乏しい呪力を吸い込みながら、一閃された。
――ズ、、と金属が肉を裂く鈍い音。
ヨミの翼は紙細工のように砕け、彼女の細い身体は雪原へと叩きつけられた。肩口から鮮血が噴き出し、白銀の世界を赤く染めていく。
「ヨミッ!!」
カグチは悲鳴を上げ、彼女に駆け寄った。守りたい。だが、戦う力などない。自分にあるのは、痛みを引き受けるために作られた肉体だけだ。
「……『転写』、開始……ッ!」
カグチがヨミの血塗れた肩に触れた瞬間、彼の肩に同じ裂傷が突如として現れ、ヨミの傷口は瞬時に塞がっていった。カグチが傷を引き受けるたび、彼の再生能力が働き、体内の毒が活性化してさらなる高熱を帯びる。
「ほう。化け物の傷を肩代わりしたか。だが、それはお前を消耗させるだけだ」
シンカイは太刀を振り上げ、冷徹に観察する。
「器であるお前が再生を繰り返せば、それだけ体内の毒が暴れ出す。その女を救うたびに、お前はより速く、内側から燃え尽きることになる。それが『器』の限界だ」
「……ガッ、……ハァ、ハァ……ッ!」
肩に転写された裂傷が、焼火箸を押し当てられたように熱い。だが、カグチはそんな痛みなど無視して、目の前の白銀の鎧を睨みつけた。
「……なぁ、シンカイ。あんた、さっきから不純物だの資産だの……。俺たちをモノ扱いして、そんなに楽しいかよ」
「感情など、器の調整に不必要な夾雑物だ。戻れ、カグチ。その女を捨てれば、これ以上の苦痛は与えん」
シンカイが動いた。今度こそヨミを仕留める気だ。彼の太刀は、カグチが漏らし出した活性化した毒を吸い、不気味な黄金色の輝きを増していく。カグチがヨミを助ければ助けるほど、敵の武器が強くなる。最悪の構造だった。
(……考えろ。あいつは強い。逃げるのは不可能だ)
シンカイの太刀が、倒れたヨミの喉元へ振り下ろされる。カグチは、自分の死など計算に入れず、自らの拳をその刃の軌道へと叩き込んだ。
「――っ!? 貴様、何を……っ!」
カグチの腕が切り裂かれ、血がシンカイの顔に飛び散った。その凄まじい熱量と毒気にシンカイの腕が強張り、刃が止まる。
「……ハッ、どうしたよシンカイ。手が震えてるぜ?」
「小癪な。だが、太刀を押し当てているだけで貴様の呪力は枯渇する。そのまま眠れ」
シンカイは刀を引かず、カグチの傷口にその重厚な刃を押し当てた。太刀の特性は『呪力の強制吸着』。
カグチの傷口から溢れる猛毒を、太刀が際限なく吸い上げ始める。だが、これこそがカグチの狙いだった。
「……吸えよ、シンカイ……! この太刀は、吸えば吸うほど重くなるんだろ……! あんたの剛腕でも、振り回せないくらいになぁ!!」
カグチは『転写』を自分自身に逆流させた。ヨミから引き受けた激痛を、体内の毒の生成エネルギーへと強引に変換する。
活性化した猛毒が、太刀を通じてシンカイの得物へ雪崩れ込む。
シンカイの太刀は、カグチの毒を吸いすぎたことで、その質量が数トンというレベルまで急膨張した。刃の表面は黄金色に変色し、もはや「重すぎる呪いの塊」と化している。
シンカイの腕が、その異常な重みに耐えきれず、わずかに沈んだ。
その瞬間、カグチの背後でヨミが這いずり、震える手で鏡の破片を操った。
「……カグチ、今ッ!!」
ヨミが放ったのは、攻撃ではなく、重すぎる「重し」への最後の一押し。
「……自分の重さに、持っていかれろ!!」
ドォォォォォンッ!!
数トンの呪いを吸い込んだ鋼は、慣性の怪物となって雪原を粉砕し、地中深くへと突き刺さった。里の至宝は黄金の火花を散らして爆ぜ、シンカイの指が引きちぎられそうな衝撃で弾かれる。
「……ガ、……馬鹿な、里の鋼が……っ」
カグチは肩で息をしながら、立ち尽くすシンカイを睨み据えた。太刀を叩き折り、確かに一矢報いた。
だが、胸の奥に埋め込まれた『呪鋼の杭』は、依然として主であるシンカイの殺気に呼応し、嫌な熱を発し続けている。
「……ハァ、ハァ……。おい、ヨミ。こっちに来い」
ふらつく足取りでヨミに歩み寄り、その細い肩を抱き寄せた。陽光の下、ヨミの身体は再び透け始めている。
「……飲め、ヨミ。今度はさっきの付け焼き刃じゃない。俺の血で、お前の身体を芯から作り直させる」
「……っ、……ぁ、……ふ、……っ!!」
ヨミがカグチの手首に縋り付き、その命を啜り上げる。瞬間、雪原の冷気が一変した。
ヨミの背後から噴き出した呪力が、周囲の雪を瞬時に蒸発させ、白い霧を立ち昇らせる。毒が溢れすぎて自壊しかけていたカグチは、ヨミに余剰分を吸い出されることで安定を取り戻し、ヨミはカグチの血を燃料にして陽光の拒絶をねじ伏せた。
二人は今、この血のやり取りを通じて、初めて完璧な「一個の生命体」として完成した。
「……行くぞ、ヨミ。完全に終わらせる」
だが、その言葉を待っていたかのように、武器を失ったはずのシンカイが、ゆっくりと左手を天に掲げた。
「……規律の第三項を適用。『肉体の資産化』を承認。それにより第二項、第一項の制約も開始」
シンカイの声は、もはや人の喉から出たものとは思えないほど無機質だった。掲げられた左手から銀の呪鋼が溢れ出し、彼の皮膚を侵食していく。砕かれた太刀の破片までもが右腕に集まり、骨肉と混ざり合って重厚な『鋼の義腕』へと再構成された。
「な……っ、なんだよその姿は……! 自分自身を道具にしたのか……!?」
ドォォォォォンッ!!
シンカイが軽く地面を蹴っただけで、雪原がクレーター状に陥没した。速い。ヨミの翼が反応するよりも速く、鋼の拳が彼女の腹部を捉えた。
「ガ、ハッ……!?」
ヨミが吹き飛ばされる。シンカイは『質量』だけで全てを突き破った。
「不純物がどれほど混じろうと、器は器だ。カグチ、貴様の『転写』による熱……それすらも、我は里の糧として吸着する」
シンカイの右腕から無数の銀糸が伸び、大気中に漂うカグチの毒気を強引に回収し始める。
だが、激痛に耐えるカグチの瞳は、シンカイの右腕がある「異変」を起こしているのを見逃さなかった。
シンカイの右腕が空中を舞う『黒鏡』の破片を吸い込もうとした刹那、鏡の表面でエネルギーが逆方向へ跳ね返ったのだ。
(……あの鏡、吸い込もうとする力を『拒絶』して押し戻してやがる)
カグチは血塗れの唇を歪め、目前の鋼の拳に向かって、自らの胸元――五年前、シンカイ自身の手で打ち込まれた忌々しい『杭』の急所を突き出した。
「ヨミ! お前のその鏡を、俺の胸に叩き込め!!」
「……信じるよ、カグチ!」
ヨミの手から放たれた『黒鏡』の欠片が、カグチの胸元の『杭』の上に張り付く。
「――!? 貴様、自傷行為か……!」
シンカイの動作が停止する。里のシステムそのものとなった今のシンカイには、絶対的な制約が課せられていた。
規律第一項:【器を損壊させる攻撃は、不随意筋が停止する】。
自ら当たりに来るカグチを拒絶すれば、資産の破損を招く。シンカイの肉体はプログラムの矛盾に陥り、彫像のように固まった。
その瞬間、回路が繋がった。
シンカイの右腕がカグチの胸から熱を吸い上げようとした瞬間、鏡の反射がそのベクトルを180度反転させた。吸入から、噴射へ。
「……吸着が、止まらぬ……!? 逆に流れ込んで……っ!」
里から引き出される全エネルギーが、カグチというパイプへ一気に雪崩れ込み、そして――その先にあるヨミへと強制供給される。
「……ガ、アァァァッ!! ハッ、……最高に熱いな、おい……ッ!!」
シンカイは、自分が里から引き出したエネルギーを、敵であるヨミに送り続けるだけの燃料補給機へと成り下がった。
「哀れね。完璧なシステムほど、一度逆流が起きれば止める術を持たない。……貴方の規律ごと、飲み干してあげる」
ヨミの背後で、肥大した翼が天を覆うほどに広がる。エネルギーを吸い尽くされ、銀の装甲がカサカサと乾いた音を立てて崩れ落ちていく。
「……さようなら、里の人形。貴方が守りたかった秩序と一緒に、塵になりなさい」
漆黒の翼が、雪原ごとシンカイを両断した。
銀の装甲が剥落し、その奥から現れたシンカイの瞳は、濁った一人の男のそれに戻っていた。彼は、カグチに抱きかかえられ、命を啜られているヨミの姿をじっと見つめ、血を吐きながら口角を上げる。
「……皮肉なものだ。……里を捨て、化け物に成り果てて……ようやく、お前は……『人間』の顔をするようになったのだな…………カグチ……、喜べ。お前が……その女に注ぎ込んだ毒の余波で、里の精錬炉が『逆流』を始めた。……今頃、お前が救ったはずの赤ん坊も、女も……お前の熱に焼かれて、ドロドロに溶けているぞ。……お前が、殺したんだ」
誰よりも規律に縛られていた彼が、最後に見たのは、自由を掴み取ったカグチへの、耐え難いほどの羨望だった。
「……ハ、ハァ……。……勝ったぞ、ヨミ」
「……そうだね。とりあえずは繋ぎ止めた。貴方の命も、私の形も」
二人は互いを見ることなく、ただ同じ雪原で、消えゆく銀の光を眺める。
しかし、代償は存在した。
シンカイが死んだ後、カグチの胸の杭が**「シンカイの死に呼応して、二度と抜けないほど深く、熱く、カグチの骨に癒着していた。




