第2話 逃避行
肺に流れ込んできたのは、毒の混じっていない、突き刺さるように冷たく清らかな空気だった。
カグチは、空を駆けるヨミの腕の中で、生まれて初めての「自由」を呼吸していた。眼下に広がる『鉄錆』の里は、すでに豆粒ほどの灯火に過ぎない。
しかし、その解放感は長くは続かなかった。
「……ぁ……っ、あ……っ!!」
カグチを抱き、夜を裂いて飛翔していたヨミの身体が、突如として激しく痙攣した。
彼女の背に広がる『黒鏡の翼』が、不規則に明滅し、ボロボロと漆黒の破片を零していく。
無理もなかった。五年間、里の地下で煮詰められ続けたカグチの毒血は、吸血鬼である彼女にとっても、一度に飲み込むにはあまりにも強大で、あまりにも「純度が高すぎた」のだ。
カグチという中和装置を離れた猛毒は、ヨミの体内という新たな器の中で、制御不能なエネルギーとなって暴走を始めた。
「お前っ!? 降ろせ、俺から離れろ!」
カグチが叫ぶが、ヨミは朦朧とした黄金色の瞳で彼を見つめ、その細い腕に力を込めるだけだった。
次の瞬間、彼女の翼がガラスのように砕け散った。
支えを失った二人の身体を、無慈悲な重力が捉える。
夜の闇を切り裂き、二人は崖下を猛烈な勢いで流れる、氷の牙を持った激流へと叩きつけられた。
衝撃が全身を砕き、鼻腔と肺に極寒の水が流れ込む。
カグチは意識を失いかけながらも、激流の中で必死に手を伸ばした。自分の肉体はどうでもいい。自分という地獄を「価値がある」と言ってくれた少女を、再び「無」へと帰すことだけは、神に背いても許せなかった。
――里の一部を飲み込んだ崩落の轟音が、遠い記憶のように遠ざかっていく。
数里先の下流。
岸辺の泥濘に這い上がったカグチは、肩で荒い息を吐きながら、腕の中の少女を横たえた。十五歳の少年の骨格は、長年の拘束で歪み、肌には毒の紋様が血管に沿って不気味に浮かび上がっている。
しかし、その瞳には、地下の石棺にいた頃にはなかった「意志の光」が宿っていた。
「……おい、生きてるか」
カグチが呼びかけると、ヨミはゆっくりと、濡れて張り付いた長い睫毛を震わせて目を開けた。
墜落の衝撃をカグチの毒血が内側から癒したのか、彼女の肌は、月光を浴びて白磁のように滑らかな質感を放っている。カグチの猛毒は、彼女の中で純粋な魔力へと変換され、消えかけていた彼女の「存在」を、今やこの夜の闇よりも強固に繋ぎ止めていた。
「……ええ。……ふふ、あんなにたくさん食べたの、初めて。少し、酔っちゃったみたい」
ヨミは力なく、だが満足げに微笑んだ。
その時、止んでいた雪が、再び静かに降り始めた。
しかし、二人の周囲だけは、冬の夜空が拒絶されているかのような異様な光景が広がっていた。
カグチの肉体が発する「毒の熱」が、降り注ぐ雪に触れるたびに、それを黒い雨へと変えて弾き飛ばしているのだ。
カグチが歩けば、足元の雪は泥のように溶け、触れた枯れ草は一瞬で炭化して崩れる。
彼という存在そのものが、この世界の「清浄」を汚し、侵食する熱源。
「……近寄るな。俺に触れてると、君まで焼ける」
自嘲気味に呟き、ヨミから一歩距離を置こうとした。だが、ヨミはその冷たい手を伸ばし、カグチの泥に汚れた指先を、迷いなく包み込んだ。
「いいえ。……私にとっては、この熱こそが、私が『ここにいる』っていう証明なの」
ジュウ、と微かな音がして、ヨミの白い指先から細い湯気が上がる。
熱い。焼けるように熱い。だが、その痛みこそが、かつて「影」のようだった彼女に、確かな生の実感を与えていた。
「……変なやつだな、君は」
カグチは毒液の混じった涙を、乱暴に袖で拭った。
五年間――自分の肉体を、里を維持するための「環境維持装置」としてしか扱われてこなかった少年。彼にとって、自分の毒を「必要だ」と言い、自分の熱を「生の証明だ」と言ってくれる存在は、想像し得なかった奇跡だった。
「……ねえ。貴方、なんていうの?」
ヨミが、カグチの瞳をじっと見つめて問いかけた。
里の大人たちは、この五年の間、彼を「神子」か「器」、あるいは「アレ」としか呼ばなかった。個としての名は、道具を使い潰すための良心の呵責を消すために、とうの昔に奪い去られていたのだ。
「……カグチ。……随分前に、捨てた名前だ」
「……カグチ。いい名前なのにね。……私はヨミ。『夜』の一族からは、汚れたものしか食べられない出来損ないって呼ばれてたわ」
「ヨミ」と「カグチ」。二人の「欠陥品」が、初めて互いの魂を名前で呼び合った。
しかし、その温もりは同時に、鋭い「飢え」を隠し持った捕食者の愛着でもあった。
ヨミが見ているのは、目の前にいる極上の「食事」と、それを脅かす「外敵」への本能。
対してカグチが見ているのは、自分を縛り付けてきた組織の恐怖であり、再びあの暗闇へ引きずり戻そうとする人間の悪意だ。
二人の断絶を埋める間もなく、夜の静寂が、無慈悲な重低音によって震わされた。
――ゴォォォォン。
重く、地を沸かせるような地鳴りが、夜の森を震わせた。里の『戒厳の鐘』。
それは紛失した「備品」を回収し、「異物」を排除するための、鉄錆の里の宣告。
里を包むどんな人間とも違う、重く、無機質な鉄の匂いが風に乗って届いた。
「何の音……?」
「戒厳の鐘だ。里の『掃除役』が放たれる合図……」
カグチの瞳から怯えが消え、冷ややかな確信が宿った。
里にとって、彼は逃亡した人間ではなく、紛失した『備品』に過ぎない。
「来るのね。……貴方を傷つけ、檻に閉じ込めた者たちが」
ヨミが立ち上がり、カグチの手を引いた。
彼女は、かつて己を追放した一族と同じ、冷酷な選別者の気配を敏感に察知していた。
「……ああ。呪鋼の肺を植え付けられた、処刑人たちだ。あいつらは、毒を呼吸に変えて戦う。……俺が撒き散らすこの汚染を道標にして、最短距離で追ってくるはずだ」
カグチは、己の指先からこぼれ落ち、地面をじりじりと黒く変色させている廃液を見つめた。
それは隠しようのない、死の道標。逃げようとするほど、彼の足跡は黒く腐り、追跡者に居場所を叫び続ける。
静寂は、重苦しい鉄の匂いと共に破られた。
森の泥を踏みしめる軍靴の音。金属が擦れ合う微かなノイズ。
カグチの皮膚が、粟立つのを感じた。体内に居座る杭の欠片が、追跡者の携える魔鋼の武具に共鳴し、悍ましい拒絶反応を上げているのだ。
「……来た。思っていたより、ずっと早い」
樹々の隙間から、数条の青白い光が差し込む。闇の中から姿を現したのは、全身を呪鋼の重装甲で包んだ『鉄錆の処刑隊』だった。
彼らが装着したガスマスクのフィルターが、カグチの発する毒気を吸い込み、シュウ、シュウと不気味な呼吸音を立てる。
「……器の回収。および、不純物の排除を開始する」
仮面の奥から、感情を削ぎ落とした声が響く。
一人の男が、呪鋼の弾丸を放った。
カグチは戦い方など知らない。だが、他者の傷をすべて引き受けてきた本能が、反射的にヨミの前へと身体を割り込ませた。
――ッ!!
鈍い衝撃。放たれた弾丸が、カグチの左肩を砕いた。
骨が軋み、肉が爆ぜる。しかし、カグチは倒れなかった。衝撃は不死の肉体によって瞬時に中和され、行き場を失った熱が体内で衝突する。
傷口から溢れ出したのは、鮮血ではない。五年間、里の地下で醸成され続けた黄金色の猛毒――『黒滓』の奔流だった。
「――カグチ、そのまま耐えて!」
ヨミがカグチの背中から腕を回し、その傷口から溢れ出る『地獄』を、己の呪力で強引に掴み取った。漆黒のガラス破片を繋ぎ合わせたような翼が、カグチの毒血を吸い込むごとに、悍ましくも美しい黒金の輝きを放ち始める。
「なっ……攻撃をわざと受け、毒を抽出しているのか!?」
「……貴方たちは、彼を『器』と呼んだわね」
ヨミがカグチの肩に顎を乗せ、死神のような慈しみで耳元に囁いた。
「なら、その中身を全部吸い込んで――内側から腐り落ちなさい」
ヨミの瞳が、吸い込んだ毒を反映して黄金色に発火する。
「装填、完了」
ヨミがその漆黒の翼を、扇状に大きく展開する。
一閃。
翼を羽ばたかせた瞬間、数千の漆黒の礫が、カグチの毒を纏って空間を埋め尽くした。
防御壁を構えた処刑隊の自負は、一瞬で瓦解した。カグチの怨念が煮詰まった毒を纏った礫は、鋼を「鉄錆」へと退化させ、重装甲を紙細工のように貫いていく。
悲鳴が森を切り裂く。
礫に貫かれた兵士たちの傷口からは、黄金色の結晶が芽吹き、肉を石灰へと変質させていく。
自分たちの体内に植え付けた呪鋼の肺が、カグチの毒に共鳴して内側から爆ぜる。
黄金の礫に貫かれ、石灰化していく処刑隊の中に、一人、カグチが見知った顔があった。
装甲の隙間から見えたのは、里の菓子職人だったハンスの顔だ。彼はかつて、地下へ連行される前のカグチに、よく売れ残りの飴を握らせてくれた男だった。
「……ぁ、神子……さま……」
ハンスの喉は、カグチの毒に侵食され、肺が石灰の塊へと変質しつつあった。彼は血を吐きながら、震える手でカグチへ這い寄ってくる。その瞳にあるのは、殺意ではない。**底なしの「善意」と「困惑」**だった。
「なぜ……こんな……。里の、みんなが……あなたを、待っているのに……っ」
カグチは、一歩も動かずにその男を見下ろした。かつて飴をくれたその手は、今や呪鋼の剣を握り、カグチを「回収」するために振るわれたものだ。
「ハンスさん。……俺はもう、焼かれるのは嫌なんだ」
「何を……言っているんだ……。あなたが焼かれれば、里は……安泰なんだぞ……? それが、あなたの、幸せ……だろう……?」
ハンスは、本気でそう信じていた。自分の家族が、里の子供たちが笑って暮らせるのは、カグチが地獄にいるからだ。
それが「正しい世界のあり方」だと信じて疑わない。彼は死の間際にあってもなお、カグチを責めているのではなく、**「なぜお前は、みんなを幸せにするという名誉を捨てるんだ」**と、心底から不思議がっているのだ。
「……ありがとう、ハンスさん。あんたのくれた飴は、甘かったよ」
カグチは、感情の消えた声で告げた。
「でも、あんたたちが俺にくれた『愛』は……この毒よりも、ずっと俺を腐らせたんだ」
「……お前は……なんて、わがままな……。私たちは……こんなに、お前を……愛して、いたのに……」
ハンスの言葉は、そこで途切れた。
彼の指先から、白い石灰の結晶が芽吹き、顔全体を覆い尽くしていく。最期の表情は、裏切られた悲しみに暮れる「慈愛の父」のようだった。
「……行こう、ヨミ。俺を愛している人たちが、まだたくさん追いかけてくる」
カグチは背を向けた。
背後で、石像となったハンスが風に削られ、さらさらと崩れていく音がした。それは、カグチが五年間守り続けてきた「里の平和」が、砂のように崩壊していく音でもあった。
カグチは、その凄惨な光景を、逃げることなく見つめていた。
(……俺の痛みが、あいつらを壊しているのか?)
それは、人生で初めて手にした「復讐」の感触だった。ただ耐えるだけだった苦痛が、彼女という出口を得て、世界を塗り替える暴力へと昇華される。その凄まじい全能感と、それ以上に重い罪悪感が、カグチの剥き出しの心臓を激しく打ち据えた。
数分後。
夜霧が立ち込める森には、もはや人間の形をしたものは残っていなかった。
「……終わったわ。カグチ」
ヨミの声で、カグチの張り詰めていた糸が切れた。
膝から地面に崩れ落ちる。カグチは、自分の掌を見つめた。泥と毒に汚れ、人を殺した力。かつて「里の救世主」と呼ばれ、今は「災厄」となった自分。その矛盾に、眩暈がした。
「……行こう。ここでは、また見つかる」
カグチは、震える手で地面を突き、這い上がるようにして立ち上がった。
毒を吸い上げ、艶やかに発光しているヨミの手を引き、彼はさらに深い森の奥へと進んでいった。
一時間ほど歩いた先。二人は半ば崩れかけた古い炭焼き小屋の跡を見つけ、その隅へと滑り込んだ。
カグチは、処刑隊の遺体から奪った「呪鋼の着火石」を打ち合わせた。自分を殺しにきた男たちの道具で、今、自分たちを温めようとしている。その皮肉が、心を静かに冷やしていく。
「……貸して。私がやるわ」
ヨミが石を打つと、吸血鬼の呪力が走り、薪が青白い火を上げた。
暗闇の中に宿った小さな灯火が、二人の泥に塗れた姿を照らし出す。
「……里の外の火は、こんなに静かなんだな」
カグチは焚き火に手をかざし、外側から肌を撫でる「生命の熱」に、初めて安息を感じていた。
「ねぇ、カグチ。あいつら貴方のこと、器と呼んでいたわ」
「……ああ。俺は、里の汚れを溜めるための、底に穴の開いたバケツだ。十歳の時から、ずっと」
カグチは、揺れる火を見つめながら独白した。
一番怖かったのは、痛みではない。自分を地獄に突き落としながら、崖の上で「ありがとう、神子様」と手を合わせる群衆の祈り。自分が泣くほど里が平和になり、母が笑顔になる。その「善意」という名の拷問。
「俺は……人間として、必要とされたことなんて一度もないんだ」
乾ききった少年の告白に、ヨミはそっと、冷たい手を重ねた。
「……里の人たちは、貴方の毒を嫌って押し付けたわね。でも私は、それを欲しがってる。貴方が産み出す地獄を、私が全部食べてあげる」
ヨミは微笑んだ。聖母の慈愛のようでもあり、悪魔の誘惑のようでもあった。
「……ヨミ」
自分が汚物であればあるほど、彼女は強く、美しくなる。救済と呼ぶには歪で、共生と呼ぶには呪わしい関係。しかし、この世界でたった一人、自分の「痛み」を「糧」として肯定してくれる存在が、目の前にいた。
「……いいよ。俺の全部、お前にやる。里に返すくらいなら、お前に食われて死んだほうが……よっぽど人間らしい」
カグチは初めて自分から、ヨミの手を握り返した。
「……寝ていいわ、カグチ。”日が昇る”までは、私が貴方を守るから」
カグチは促されるままに、彼女の膝に頭を乗せた。
里で見ていた悪夢とは違う、泥の底に沈んでいくような、深い眠り。
ヨミが、彼の肌に残ったどす黒い紋様を、愛おしそうに指でなぞる。そこには、自分を繋ぎ止めてくれる冷たい指先の感触だけが、確かな重みを持って存在していた。




