第1話 始まりの出会い
修正しました。
その里の人々は、誰もが優しかった。
だから俺は、自分の人生をすべて里に捧げることになった。――。
白銀の**呪鋼**を産み出す精錬の里『鉄錆』。そこで暮らす人々は、慎ましく、信心深く、そして何より互いの絆を大切にしていた。
そこに一人の少年がいた。
名は、カグチ。火の神にあやかり、職人の父がつけた名だった。
幼い頃のカグチは、里の本当の「聖者」だった。
彼には生まれつき、二つの異能があった。
他者の負った傷や呪いを、自分の肉体へと引き受ける「転写」。
そして、傷ついた身体を即座に再生させる「黄金の器」。
「神子様、どうか……! この子の火傷を、代わってやってはいただけないでしょうか!」
カグチがまだ五歳の頃のことだ。職人の妻が、爆発事故で全身に大火傷を負った赤ん坊を抱え、泣き叫びながら転がり込んできた。
赤ん坊の皮膚は無惨に焼け爛れ、生々しい肉が露出して煙を上げている。周囲の大人たちが目を背ける中、幼いカグチは怯えながらも、その小さな手を赤ん坊の胸に添えた。
刹那、世界が反転した。
赤ん坊の身体から火傷が消え、まるで時間が巻き戻ったかのように、透き通った柔らかな肌が戻っていく。
代償として、カグチの身体に地獄が訪れた。
「――っ、……ぁ、ああああああああああああ!!」
少年の小さな身体が、目に見える速さで「焼けて」いく。赤ん坊が受けたはずの熱量と苦痛が、そのままカグチの神経を焼き、蹂躙した。
皮膚が爆ぜ、肉が黒く炭化し、喉の奥まで焼けるような熱さが襲う。あまりの激痛にカグチは白目を剥き、地面をのたうち回った。指先で土を掻きむしり、爪が剥がれてもなお、痛みは止まらない。
だが、周囲の大人たちは彼を助けようとはしなかった。
彼らは悶え苦しむカグチを囲み、一斉に跪いて、陶酔したような表情で祈り始めたのだ。
「ああ、神子様。私たちの苦しみを、また一つ引き受けてくださった」
「尊いお姿だ。このお方の苦痛こそが、里の安寧の証だ」
カグチの傷口から、黄金色の不気味な肉芽が芽吹き、数分で完治するまで、彼らは一滴の薬も塗ろうとはしなかった。彼らにとって、カグチが苦しむ姿は「救済の儀式」そのものだったからだ。
激痛の余韻でガタガタと震えるカグチを、母が優しく抱きしめた。その瞳には、救われた赤ん坊への安堵と、苦しんだ息子への狂気的な感謝が混じっていた。
「ありがとう、カグチ。……本当にお前を、産んでよかったわ」
母の体温は温かい。けれどその言葉は、カグチの心に冷たい杭のように打ち込まれた。
(ああ、俺が痛がれば、お母さんは喜んでくれるんだ)
痛みを感じるたびに、誰かが救われる。誰かが笑顔になる。その「歪な報酬」こそがカグチにとっての愛の形になり、彼自身を逃げ場のない「聖者」という檻に閉じ込めていった。
――しかしその愛は、カグチが十歳を迎えた冬に、取り返しのつかない「極刑」へと姿を変えた。
里の地下深く、呪鋼の精錬過程で生じる猛毒『黒滓』を溜めていた大規模な石棺が、事故によって損壊したのだ。里全体を飲み込もうとする黄金色の猛毒。このままでは数日で里は全滅する。
絶望の中、里の長老たちが、そしてカグチの父が、一人の少年を「部品」として見つめた。
「カグチ。お前のその体なら……この里の汚れを、すべて引き受けられるのではないか?」
彼らは、決して悪人ではなかった。ただ、一人の子供の命よりも、里の数百人の命を選んだ「正しい人々」だったのだ。
カグチを拘束台に載せ、四肢に枷をはめたのは、昨日まで彼に菓子を分け与えてくれた近所のおじさんたちだった。彼らは震える手で、泣きながら、カグチの胸の中央に、特別な加工を施した**呪鋼**の杭を宛がった。
「すまない、カグチ。……だが、お前なら耐えられる」
「ありがとう、カグチ。お前のおかげで、里は助かるんだ」
そして父が、職人としての誇らしげな笑みを浮かべて言った。
「カグチ、お前が永遠に使う杭を鍛えるのに、数ヶ月かかったよ。会心の出来だ。……お前なら大丈夫。お前は、里の光なんだから」
その言葉が、振り下ろされた槌の衝撃と共に、カグチの胸を深々と貫いた。
杭が肉を裂き、骨を砕き、心臓のすぐ横に突き刺さる。
衝撃は痛みという概念を通り越し、少年の魂を粉砕した。カグチは意識を失うことさえ許されぬまま、里のすべての汚れを背負わされる「器」となった。
それから、五年の月日が流れた。
十五歳になったカグチの姿は、もはや聖者とは程遠かった。
かつては陽光に輝いていた髪は、里を象徴する錆びた赤茶色に変色し、絶え間なく浴びせられる猛毒の蒸気に濡れて、ボロボロの獣の毛のように波打っていた。
彼は今、里の排出口が集中する断崖の「吹き溜まり」にいる。呪鋼の杭によって岩壁に深く縫い止められ、一歩も動くことができない。
杭の隙間からは、ドロドロとした熱い黒滓が二十四時間休みなく血管へと流し込まれ、彼の細胞を秒単位で破壊していく。
不死身であっても、痛みには慣れない。むしろ、神経が再生されるたびに彼の痛覚は「新品」の状態に戻ってしまう。
五年間。一日八万六千四百秒、一瞬の途切れもなく、カグチの脳は「肉体を焼かれ、溶かされる痛み」を、常に初めての衝撃として受け取り続けていた。
(……今日も、死ねなかった。また、新しくなっちまった)
もはや誰の顔も思い出せない。ただ、崖の上からは今も変わらず「温かな感謝の声」が降ってくる。
「神子様、おかげで息子が十歳になりました。神子様の分まで、幸せになりますからね」
その善意に満ちた言葉が、今のカグチにとっては、どんな毒よりも深く彼を腐らせる呪いだった。
しかし、その地獄の日常が、静かに狂い始めていた。
「……また、いるのか」
カグチは、毒の霧に霞む視界の底、崖下の深い闇の中に佇む「影」を見つけた。影が現れたのは三日前のことだ。
里の番人たちは、崖の下など見ない。彼らにとってここは里の汚れが消えていくゴミ捨て場に過ぎず、そこに縫い止められたカグチもまた、動くことのない「風景の一部」だったからだ。
だが、感覚だけが異常に研ぎ澄まされたカグチだけは、その気配を敏感に感じ取っていた。
三日目の今夜。
(……来る。……何かが、来る)
里を包むどんな人間とも違う、重く、冷たく、そして剥き出しの「死」の匂い。
熱に浮かされた視界の端、ついに、白磁のような細い指が岩棚にかけられた。指先からは爪が剥がれ、鮮血が滲んでいたが、指の主は痛みなど知らないかのように、一気に身体を引き上げた。
現れたのは、一人の少女だった。
月光を背負い、猛吹雪の中に佇むその姿は、あまりにも美しく、そして悍ましかった。
夜の闇をそのまま形にしたような、艶やかな黒髪。それが毒風に煽られ、カグチの錆びた髪と交じり合うほど近くまで、彼女は歩み寄ってくる。
「……逃げろ、よ」
カグチは、ひび割れた唇を震わせた。
「ここには……お前の、望むものなんて……何もない」
だが、少女は止まらない。彼女はカグチの目の前で膝をついた。汚泥と毒の結晶がこびりついたカグチの足に、冷たい指先が触れる。
「……いいえ。やっと見つけた」
少女――ヨミの声は、凍てつく空気さえも溶かすほどに甘く、鈴の音に似た響きを持っていた。
彼女が顔を上げると、黄金色の瞳がカグチを射抜いた。その瞳に宿っているのは慈悲ではない。餓えた獣が、世界でたった一つの食料を見つけ出した時の、狂おしいほどの「渇望」だった。
「私……もう、消えてしまいそうだったの」
ヨミがふわりと唇を戦慄させた。その隙間から、不自然なほどに鋭く尖った「八重歯」が、月光を反射して白く輝いた。彼女の指が、カグチの胸元、黄金色の廃液が溢れ出す傷口を、震える指ですくい取った。
それを舌に乗せた瞬間、彼女の肌をどす黒い血管が奔り、悦楽に肩が大きく跳ねる。
「……ああ、これよ。聖なる血を啜るたびに吐き散らしてきた私の喉が……これだけは、もっと注げと鳴いているわ。ねえ、あなたの地獄を、私にちょうだい」
ヨミが薄く、妖艶に笑う。
この少女は、自分を「助けに来た」のではない。自分という「地獄」そのものを、喰らい尽くしに来たのだ。
「代わりに……私の『虚無』を、あなたにあげる」
ヨミの吐息が、カグチの首筋にかかる。冷たい。その冷たさが、五年間熱に焼かれ続けてきたカグチにとって、生まれて初めて触れた「真の安らぎ」だった。
「……奪えよ」
カグチは、自ら首筋を晒すように力を抜いた。
里の人々は、カグチに毒を「押し付けた」。だが、この少女は、俺の毒を「欲しがっている」。
「それが、毒だって……わかってて……全部、持ってけ……ッ!」
その瞬間、ヨミの瞳が歓喜に燃えた。彼女はカグチの肩を強く抱きしめ、鋭い牙を、少年の頸動脈へと深々と突き立てた。
牙が、頸の皮膚を容易く貫く。
カグチは反射的に肉体を強張らせた。だが、直後に訪れたのは想像していたような痛みではなかった。
――空洞。
それは、巨大な渦にすべてを呑み込まれるような感覚だった。
五年間、カグチを責め立ててきた血管が破裂せんばかりの「内圧」。それが今、ヨミという名の深淵へ向かって、一筋の激流となって逆流し始めた。
「――ぁ、……っ、あ…………!!」
カグチの脳内に、真っ白な静寂が爆ぜた。
血管を焼いていた熱気が、ヨミの喉を通るたびに「冷気」へと書き換えられていく。
不死身の肉体が、吸血によって初めて「安らぎ」を得ていた。命を奪われる行為が、彼にとっては、唯一の「命の取り戻し」だったのだ。
一方、ヨミの身体には変貌が起きていた。
カグチの毒血を吸い上げるごとに、彼女の肌に不気味なほど鮮やかな実体が結ばれていく。
「……あはっ、……すごい。熱い。魂が、沸騰してしまいそう……!」
ヨミの背中から、漆黒の魔力が結晶化した**『黒鏡の翼』**が展開された。それはカグチの呪いを糧に咲いた、不純で、この世の何よりも美しい捕食者の翼。
その時。崖の上の監視所では、警告音が静寂を切り裂いた。
「な、なんだ!? 黒滓の中和率が急落しているぞ!」
兵士が慌てて『中和計』の盤面を叩く。カグチの体内濃度を示す指針が、かつてない速度でゼロへと向かって振り切れていた。
「光を灯せ! 状況を確認しろ!」
崖の上で松明の火が揺れる。だが、彼らが五年間、感謝を捧げながら「便利な部品」として管理してきた少年の命が、一人の少女の「食事」として奪い去られた事実に、彼らはまだ気づいていない。
「……あははは!!」
ヨミが牙を引き抜き、恍惚とした表情で笑った。彼女はカグチの胸の中央に深々と突き刺さった、呪鋼の杭に手をかけた。
「まずは……あなたのこの、つまらない鎖を壊してあげる」
里が誇る白銀の輝き。ヨミが軽く指を弾くだけで、最強の強度を誇るはずのその杭は、乾いた音を立てて飴細工のようにぐにゃりと曲がり――粉々に砕け散った。
五年間、カグチを繋ぎ止めていた唯一の呪縛が、鉄屑となって雪に消えた。
「が、はっ……、ぁ……っ!」
杭が消失した瞬間、カグチの身体は地面へと崩れ落ちた。五年間、一度も地に着くことのなかった足が、雪の冷たさを拾い上る。 だが、その身体が泥濘に沈み込む前に、ヨミの腕が彼を強く抱きとめた。
「……捕まえた。もう離さないわ、私の食事」
その時、崖の上から怒号が降り注いだ。
「いたぞ! 器が……杭が外れている! 撃て! それを失えば里は滅びるぞ!」
矢が放たれ、呪鋼の弾丸が空を切る。
彼らが愛していたのは「カグチ」ではない。自分たちの汚れを吸い取ってくれる「都合の良い装置」だったのだ。
「……ふふ、うるさい蝿たちね」
ヨミが翼を一度羽ばたかせると、凄まじい風圧が松明の火をことごとく吹き消した。
「行きましょう、……あなたに、本当の『夜』を見せてあげる」
ヨミがカグチを抱き上げたまま、天に向かって跳躍した。
視界が急速に上昇していく。自分を五年間縛り付けた「吹き溜まり」が小さくなっていく。
肺に流れ込んできたのは、毒の混じっていない、清らかな空気だった。それは灼かれ続けてきたカグチにとって、何よりも痛く、そして涙が出るほどに旨かった。
「……ああ……。……俺は、人間を……辞めたんだな」
カグチの頬を、一筋の涙が伝った。それは悲しみではなく、ようやく「自分だけの痛み」を許されたことへの、静かな確信だった。
崖の下に残されたのは、粉砕された呪鋼と、黄金色の血が真っ黒に凍りついている光景だけ。
そこにはもう、里の平和を守る「聖者」も、中和を司る「装置」も存在しなかった。
一人は毒を産み続け、一人はそれを啜り続ける。
世界から捨てられ、世界を捨てた二人の影は、最も深い闇の中へと溶けるように消えていった。
――こうして、黄金の器と黒鏡の吸血鬼の、地獄のような旅が始まる。




