第2話 森の出会い
翌朝、僕は早くからリーシャの家に向かった。
彼女の家は、村の東側にある。父親が鍛冶屋を営んでいて、村で唯一の金属加工職人だ。農具の修理から、たまに通りかかる冒険者の武器の手入れまで、何でもこなす腕利きの職人。
「おはよう、エリオ」
家の前で待っていたリーシャが、手を振った。背中には大きな籠を背負っている。
「おはよう。準備万端だね」
「当たり前じゃん。春の茸は競争率高いんだから。早く行かないと、他の人に取られちゃうよ」
そう言って、リーシャは歩き出した。僕も後に続く。
村を抜けて、東の森へと続く道を進む。この道は、僕たちが子供の頃から何度も通った道だ。夏には木苺を採りに、秋には栗拾いに。いつもリーシャが先頭を歩いて、僕がついていく。
六年前も、こうだった。
いや——六年後の記憶でも、こうだったんだ。
「ねえ、エリオ」
「ん?」
「昨日からさ、なんか変だよ」
リーシャが、歩きながら僕を振り返った。
「変って?」
「なんていうか……すごく遠いところを見てるような顔してる。どうかしたの?」
鋭い。
リーシャは、いつも僕のことをよく見ていた。小さな変化にも気づく。それが、彼女の優しさであり、時々面倒くさいところでもあった。
「ちょっと、夢を見てさ」
「夢?」
「すごくリアルな夢。自分が大人になって、戦争に行って……」
言葉を濁す。全部は言えない。でも、少しだけなら。
「それで、目が覚めたら子供に戻ってた。変な夢だったなって、まだ引きずってるんだ」
「へえ。エリオでも怖い夢見るんだ」
「そりゃ見るよ」
「だって、いつも冷静じゃん。何があっても動じないし」
冷静——そう見えるだろうか。
僕は、ただ内気なだけだ。人前で感情を出すのが苦手で、いつも一歩引いて物事を見ている。それを「冷静」と呼ぶなら、そうかもしれない。
でも今は、確かに冷静ではいられない。
目の前を歩くリーシャの後ろ姿を見ながら、僕は思い出していた。
あの未来で、彼女は——
「着いた!」
リーシャの声で、現実に引き戻される。
目の前に、森が広がっていた。
グレイスフィールドの東の森。それほど深い森ではないが、村人たちの大切な資源の供給源だ。薪、山菜、茸、時には薬草。この森のおかげで、村は何とか生きていける。
「じゃあ、あまり深く入らないようにね。昼までには戻ろう」
「分かってる」
僕たちは、森の中へと足を踏み入れた。
春の森は、命に満ちていた。
木々の間から差し込む朝日。鳥のさえずり。柔らかい土の感触。足元には、様々な植物が芽吹いている。
リーシャは慣れた手つきで、木の根元を探っていく。
「あった! 見て、エリオ! 白茸!」
「本当だ。大きいね」
「でしょ? これ、すごく美味しいんだよね。お母さんが料理してくれるの、楽しみ!」
彼女は嬉しそうに茸を籠に入れた。
僕も、周囲を見渡す。記憶の中では、この辺りに茶色い傘の茸が群生していたはずだ。あれは食用で、しかも栄養価が高い。
ああ、あそこだ。
「リーシャ、こっちにもあるよ」
「え、どこどこ?」
僕が指さすと、リーシャが駆け寄ってきた。
「わあ! すごい、こんなにいっぱい! エリオ、どうして分かったの?」
「なんとなく、ここにありそうだなって思って」
嘘だ。僕は知っていた。六年前の記憶で、ここに茸があることを。
でも、それは言えない。
「エリオって、もしかして茸を見つける才能あるんじゃない?」
「そんなわけないよ」
「いやいや、絶対ある! じゃあ次も頼むね!」
リーシャは、茸を丁寧に摘んでいく。僕は、その横顔を見ていた。
笑顔。屈託のない、明るい笑顔。
この笑顔を守りたい。
そう思った瞬間——遠くで、動物の鳴き声がした。
「ん? 今の、何の声?」
リーシャが顔を上げる。
僕は、その声を知っている。
子鹿だ。
怪我をした子鹿が、茂みの中で鳴いている。これから僕たちは、その子鹿を見つける。そして——
「行ってみようよ」
リーシャが立ち上がった。
「え、でも……」
「動物が怪我してるかもしれないじゃん。放っておけないよ」
そう言って、彼女は声のする方へ歩き出した。
僕は、一瞬躊躇した。
行くべきか。行かないべきか。
子鹿を助けても、助けなくても——何かが変わるのだろうか?
それとも、全ては決まっているのか?
「エリオ、早く!」
リーシャの声に、僕は従った。
結局、僕はまだ何も決められない。ただ、流れに身を任せることしかできない。
茂みを掻き分けて進むと、小さな鹿が倒れていた。
後ろ足が、木の根に挟まっている。必死にもがいているが、抜け出せないようだ。
「可哀想に……」
リーシャが、そっと近づく。鹿は警戒して身を竦めたが、逃げることはできない。
「大丈夫だよ。助けてあげるから」
彼女は優しく声をかけながら、木の根を持ち上げようとした。でも、女の子の力では無理だ。
「僕も手伝うよ」
二人で力を合わせて、木の根を持ち上げる。鹿の足が、ゆっくりと抜けていく。
「よし、もう少し……!」
最後の力を込めて押し上げると、ついに足が外れた。
鹿は、よろよろと立ち上がる。でも、すぐにまた倒れた。足を引きずっている。怪我をしているようだ。
「ああ、やっぱり……」
リーシャが、悲しそうな顔をした。
「このままじゃ、この子、森で生きていけないよ。狼に襲われちゃう」
「……そうだね」
僕は、鹿を見つめた。
記憶の中では、僕たちはこの鹿を村に連れて帰る。リーシャの父さんが手当てをしてくれて、しばらく家で飼う。そして三ヶ月後、傷が治ったら森に返す。
その時、リーシャは泣いていた。別れが辛くて。でも、自然に返すのが正しいことだって、分かっていたから。
それが、あの時の出来事だった。
「連れて帰ろう」
リーシャが言った。
「お父さんなら、治療できるかもしれない」
「うん」
僕は頷いた。
そして——ふと、思いついた。
「待って、リーシャ」
「え?」
「僕、ちょっと試してみたいことがある」
僕は、鹿の傍に座り込んだ。
「エリオ、何するの?」
「魔法……を、使えるか試してみる」
「え!? でも、まだ魔法使えないでしょ?」
「魔力を感じることはできるようになった。だから、もしかしたら……」
本当は、僕には確信があった。
あの未来で、僕は治癒魔法を少しだけ使えるようになっていた。戦場で、簡単な傷を治す程度だけど。
魔力制御の基礎は、体が覚えている。ならば——
僕は、鹿の傷ついた足に手を当てた。
目を閉じる。
深く、息を吸う。
体の中を流れる魔力を感じる。それを、手のひらに集中させる。
村長の言葉を思い出す。
『生命の循環を理解すれば治癒魔法が使える』
生命は、傷つき、再生する。細胞が死に、新しい細胞が生まれる。それもまた、循環だ。
僕は、その流れを感じようとした。
鹿の体の中を流れる、生命の力。傷ついた部分で、その流れが滞っている。
ならば——その流れを、ほんの少しだけ、助けてあげる。
手のひらが、温かくなる。
魔力が、鹿の体に流れ込んでいく。
そして——
「あ……」
リーシャの声が、驚きに震えた。
目を開けると、鹿の傷が——少しだけ、塞がっていた。
完全に治ったわけじゃない。でも、血が止まり、腫れが引いている。
「嘘……エリオ、今のって……」
「治癒魔法、だと思う。初歩的なやつだけど」
僕は、自分の手を見た。
やっぱり、できた。
体が覚えていた。六年間の訓練と経験が、この十二歳の体の中に残っていた。
「すごい……昨日初めて魔力を感じたばっかりなのに、もう魔法が使えるなんて……」
リーシャが、目を輝かせている。
「エリオ、天才なんじゃない!?」
「そんなことない。これは、その……」
言葉に詰まる。
違う。これは天才じゃない。ズルだ。
僕は、未来の知識を使っている。もう一度人生をやり直している。
それは——
「何はともあれ、この子、少しは楽になったみたいだね」
リーシャが、鹿を優しく撫でた。鹿は、もう怯えていない。
「でも、やっぱり連れて帰ろう。完全には治ってないし」
「うん」
僕は立ち上がった。
そして、ふと気づいた。
あの未来では、僕は魔法を使わなかった。使えなかったからだ。
でも今、僕は使った。
些細な違いだ。でも——これが、変化の始まりなのだろうか?
鹿を抱えて、村に戻る。
途中、何人かの村人に会った。みんな、僕たちが抱えている鹿を見て驚いていた。
「おや、怪我をした鹿を見つけたのかい?」
「はい。森で、木の根に足を挟まれていて」
「そうか。リーシャの父さんのところに持っていくといい。あの人なら、何とかしてくれるだろう」
村人たちは、優しかった。
この村の人々は、みんな穏やかで、助け合って生きている。都会のような華やかさはないけれど、ここには温かさがあった。
でも、六年後——この村は戦火に巻き込まれる。
アルメイダ王国と隣国ゼフィロスの戦争。辺境の小さな村まで、その影響が及ぶ。
村の若い男たちは徴兵され、村は物資の供給地として搾取される。そして最終的には、ゼフィロス軍の侵攻を受けて——
「エリオ? また遠い顔してる」
リーシャの声で、我に返る。
「ごめん。ちょっと考え事」
「もう。せっかく鹿を助けたんだから、もっと嬉しそうにしなよ」
「うん、そうだね」
僕は、無理に笑顔を作った。
リーシャの家に着くと、彼女の父親——ガルス・フォレストが、工房で仕事をしていた。
「おお、リーシャ。茸採りはどうだっ……って、それは?」
「森で怪我してた鹿なの。お父さん、治療できる?」
ガルスさんは、鹿を見て、それから僕たちを見た。
「動物の治療か。やったことはあるが……まあ、見てみよう」
彼は、鹿を作業台に寝かせた。足を調べて、頷く。
「骨は折れてないな。捻挫と、擦り傷だけだ。これなら、治る」
「良かった!」
リーシャが、安堵の表情を浮かべた。
「でも……不思議だな」
ガルスさんが、眉をひそめた。
「傷が、もう塞がりかけている。まるで、誰かが治癒魔法をかけたみたいだ」
「あ、それは……」
リーシャが、僕を見た。僕は、小さく頷く。
「実は、僕が少しだけ治癒魔法を使ったんです」
「何だと? エリオ、お前、魔法が使えるのか?」
「昨日、ギデオン村長から習い始めたばかりで……まだ、ほんの少しだけですけど」
ガルスさんは、驚いた顔をした。
「一日で魔法を使えるようになるとは……お前、すごい才能があるんだな」
「いえ、そんな……」
「謙遜するな。これは本物だ。ギデオン殿も、さぞかし喜ぶだろう」
彼は、僕の肩を叩いた。
「良いことをしたな、エリオ。この鹿、しばらくうちで預かろう。傷が治ったら、森に返す」
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだ。娘が、また変な生き物を拾ってきたと思ったが、お前が一緒なら安心だ」
ガルスさんは、豪快に笑った。
家に帰ると、母さんが夕食の準備をしていた。
「おかえり、エリオ。茸採りはどうだった?」
「うん、たくさん採れたよ」
籠いっぱいの茸を見せると、母さんは嬉しそうに笑った。
「まあ、こんなに! 今夜は茸のスープにしましょうね」
「うん」
僕は、部屋に戻った。
ベッドに座り込んで、今日のことを振り返る。
子鹿を助けた。治癒魔法を使った。
あの未来とは、少しだけ違う行動をした。
でも——それで、何が変わるんだろう?
窓の外を見ると、夕日が沈みかけていた。
オレンジ色の空。
あと一週間で、流行り病が来る。
村人の何人かが死ぬ。それを、僕は知っている。
止められるのか?
いや、そもそも——止めていいのか?
もし未来を変えたら、何が起こる? もっと悪いことが起きるかもしれない。
バタフライ効果。
小さな変化が、大きな結果を生む。
僕は——
「エリオ、ご飯よー!」
母さんの声で、思考が中断された。
僕は立ち上がり、階段を降りた。
食卓には、父さんと母さんが座っている。
湯気の立つスープ。焼きたてのパン。
日常。
穏やかで、温かい日常。
六年後には失われる、この日常。
「いただきます」
僕は、手を合わせた。
そして、決めた。
少なくとも、一週間後の流行り病は——止めてみよう。
どうやって止めるかは、まだ分からない。
でも、試してみる価値はある。
もし失敗しても、もし状況が悪化しても——
それでも、何もしないよりはマシだ。
僕は、もう一度この人生を生きている。
ならば、ただ傍観者でいるわけにはいかない。
たとえ、全てが無駄に終わるとしても。
たとえ、運命が変えられないとしても。
それでも——
僕は、やってみる。
その夜、僕は村長の家を訪ねた。
夕食後、両親には「魔法の質問がある」と言って出てきた。
村長の家の扉を叩くと、すぐに開いた。
「おお、エリオか。こんな時間にどうした?」
「すみません、村長。少し、お話を聞いていただきたくて」
「ふむ。入りなさい」
通された部屋で、僕は村長に向き直った。
「村長、一週間後に——村に、流行り病が来ます」
村長の目が、わずかに見開かれた。
「……何だと?」
「高熱を出す病気です。村人の三分の一くらいが罹患して、何人かが……亡くなります」
「お前、それをどうやって——」
「予知夢を見たんです」
嘘だ。でも、これしか説明の方法がない。
「すごくリアルな夢で。村に病気が広がって、クレアさんが亡くなって……」
村長は、黙って僕を見つめた。
長い沈黙。
やがて、彼は深くため息をついた。
「エリオ。予知夢というものは、確かに存在する。高位の魔法使いの中には、未来を垣間見る者もいる」
「じゃあ——」
「だが、お前はまだ魔法を始めたばかりだ。予知魔法など使えるはずがない」
「でも、本当なんです! 信じてください!」
僕は、必死に訴えた。
村長は、しばらく考え込んでいた。
そして——
「分かった」
「え?」
「信じよう。いや、正確には——用心しよう、というべきか」
村長は、本棚から一冊の古い本を取り出した。
「疫病対策の書だ。一週間後に何かが起こるかもしれないなら、準備をしておいて損はない」
「本当ですか!?」
「ああ。明日、村の衆に声をかけよう。井戸水を煮沸すること、手を清潔に保つこと、病人が出たら隔離すること——基本的な対策を、今のうちに周知しておく」
村長は、僕の頭に手を置いた。
「お前の夢が本当なら、命が救える。お前の夢が外れても、村人の衛生観念が高まるだけだ。どちらにせよ、悪いことではない」
「ありがとうございます……」
僕は、心から感謝した。
この人は、子供の突拍子もない話を、信じてくれた。
いや、信じたふりをしてくれた、と言うべきかもしれない。
でも、それでいい。
これで、少なくとも準備はできる。
「エリオ」
「はい」
「お前は、不思議な子だな」
村長が、優しく笑った。
「昨日、魔力を初めて感じたばかりなのに、今日は治癒魔法を使った。そして今、一週間後の流行り病を警告している」
「……すみません」
「謝ることではない。ただ——お前には、何か特別なものがあるのかもしれん」
特別なもの。
それは、六年分の記憶だ。
死んで、戻ってきた記憶。
でも、それは言えない。
「村長、僕は……僕は、みんなを守りたいんです」
「ふむ」
「この村が好きだから。ここで育ったから。だから……」
言葉が、うまく出てこない。
でも、村長は理解してくれたようだった。
「良い心がけだ、エリオ。その気持ちを忘れるな」
彼は、僕の肩を叩いた。
「さあ、遅くなった。家に帰りなさい。両親が心配する」
「はい。ありがとうございました」
僕は、村長の家を後にした。
夜道を歩きながら、空を見上げる。
星が、無数に輝いていた。
六年前と同じ星空。
いや——これから見る星空。
時間は、前に進んでいる。
僕だけが、戻ってきた。
なぜ?
それは、まだ分からない。
でも——今は、目の前のことをやるしかない。
一週間後の流行り病。
それを、防ぐ。
もし防げたら——未来は、変えられる。
もし防げなかったら——
その時は、また考えよう。
一歩ずつ。
それしか、僕にはできない。




