第1話 始まりの村
僕の名前はエリオ・ヴァレンス。アルメイダ王国の東端、グレイスフィールド村で生まれ育った。
この村には三百人ほどが暮らしている。ほとんどが農民で、僕の家も例外ではない。父さんは小麦を育て、母さんは家で糸を紡ぐ。姉のマリアは隣村に嫁いだから、今は三人家族だ。
平凡な、どこにでもある辺境の村。
少なくとも、昨日までの僕はそう思っていた。
「エリオ! 朝ご飯よ!」
階段の下から母さんの声がする。いつもと同じ、少し甲高い声。でも、僕の中では六年前に聞いた声だ。
震える手で服を着る。十二歳の体には、服が少し大きい。そうだ、この服は姉のお下がりを仕立て直したものだったんだ。
階段を降りながら、僕は必死に考えていた。
これは夢なのか? それとも、死ぬ間際に見た幻覚か?
でも、感覚があまりにもリアルだ。手すりの木の質感、階段を踏む足音、台所から漂ってくる焼きたてのパンの香り。全てが、記憶の中のあの日と同じだ。
「おはよう、エリオ」
食卓についた父さんが、新聞から顔を上げて言った。
父さん——
思わず、息を呑んだ。
目の前にいるのは、四十代の父さんだ。僕の記憶の中では、父さんはもっと老けていた。あの戦争で右腕を失って、背中が丸くなって、いつも咳をしていた父さん。
でも今、目の前にいるのは、まだ壮年の、健康そのものの父さんだった。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
「い、いや。なんでもない」
僕は慌てて席についた。母さんが、僕の前に皿を置く。
黒パン、チーズ、そして薄いスープ。質素だが、これが僕の家の朝食だ。いつもの光景。六年前の、いつもの朝。
「ねえ、母さん。今日って……」
「ん?」
「今日って、何日だっけ?」
母さんは不思議そうな顔をした。
「星月の十三日よ。どうしたの、急に」
星月の十三日。
春の終わりの、穏やかな日。僕が十二歳になって、二ヶ月が経った頃。
そして、これから一週間後——村に流行り病が来る。村人の三分の一が高熱を出して、何人かが死ぬ。僕は軽症で済んだけれど、隣のクレアさんは亡くなった。優しい、いつも笑っていた人だった。
「エリオ?」
「……ごめん、ちょっと頭痛がして」
「無理しないでね。今日は村長のところで魔法の練習があるんでしょう?」
魔法の練習。
そうだ、この日から僕は、村の元冒険者だったギデオン村長に魔法を教わり始めるんだ。週に一度、村長の家に通って、基礎的な魔力制御を学ぶ。
それが、僕の人生を変える第一歩だった。
いや、違う。もう一度、同じ人生を歩むことになるのか?
パンを齧りながら、僕は考え続けた。
食事を終えて、村長の家に向かう。
村の中央にある、少し大きな石造りの家だ。ギデオン村長は元々、王都で冒険者をしていたらしい。引退してこの村に来て、もう二十年になるという。
「おお、エリオか。よく来たな」
扉を開けてくれたのは、白髭を蓄えた、がっしりとした体格の老人だった。ギデオン・クロウフォード。この村で、唯一の上級魔法使いだ。
「おはようございます、村長」
「うむ。さあ、入りなさい」
通された部屋は、本で埋め尽くされていた。壁一面の本棚に、古い書物がびっしりと並んでいる。魔法書、歴史書、冒険譚。子供の頃の僕は、この光景に圧倒されたものだ。
今の僕も、やはり圧倒されている。
なぜなら、これらの本の多くは、あの戦争で焼けてしまったからだ。村が襲撃された時、村長の家も燃えた。貴重な魔法書の多くが失われた。
「座りなさい」
村長は、部屋の中央に置かれた円形のマットを指した。僕は言われた通りに座る。
「まず、魔法とは何か。お前は知っているか?」
「えっと……魔力を使って、不思議なことをすることです」
教科書通りの答えだ。村長は苦笑した。
「間違っちゃいないが、表面的だな。魔法とは、エリオ——世界の理を理解し、その流れに従うことだ」
「世界の、理?」
「そうだ。この世界には、全てに循環がある。水は川を流れ、海に至り、雲となって再び地に降る。生命は生まれ、成長し、死んで土に還り、新しい命を育む。昼と夜、季節の移り変わり、星々の運行——全ては巡り、循環している」
村長は、窓の外を指した。
「魔法とは、その循環を感じ、理解し、そして——ほんの少しだけ、その流れに乗ることだ。水の循環を理解すれば水魔法が使える。生命の循環を理解すれば治癒魔法が使える。光と闇の循環を理解すれば、それらを操れる」
「循環……」
その言葉が、妙に心に引っかかった。
僕は今、時を遡っている。死んで、過去に戻った。これも、循環なのだろうか?
「さて、まずは基礎から始めよう。目を閉じなさい」
僕は目を閉じた。
「深く息を吸って、吐く。呼吸に意識を向けなさい。吸って、吐く。それもまた循環だ。お前の体の中を、空気が巡っている」
言われた通りにする。呼吸に集中する。
「次に、体の中を流れるもう一つの流れを感じなさい。それが魔力だ。全ての生命は魔力を持っている。それは血液のように体を巡り、お前を生かしている」
魔力——
六年分の記憶がある僕には、それがどういうものか分かっている。体の中心、丹田と呼ばれる場所にある暖かい塊。それが、全身に枝分かれして流れている感覚。
あの頃は、これを感じるのに三ヶ月かかった。
でも今の僕は——
「あ」
感じられた。
体の中を流れる、暖かい川。それが、心臓の鼓動に合わせてゆっくりと循環している。
「ほう?」
村長の声に、驚きの色が混じった。
「もう感じられるのか? 普通は数週間かかるものだが……才能があるな、エリオ」
違う。これは才能じゃない。
僕は、もう一度この人生を生きているだけだ。
目を開けると、村長が満足そうに頷いていた。
「良い。非常に良い。この調子なら、すぐに基礎魔法を習得できるだろう。お前は、将来良い魔法使いになれるかもしれんな」
良い魔法使い。
僕は、あの未来で中級の火魔法使いになった。戦争が始まって、徴兵されて、戦場で死んだ。
それが、僕の「未来」だった。
でも今、僕は十二歳だ。
これから六年間。あの戦争まで、まだ時間がある。
「村長」
「ん?」
「僕は……僕は、何を学べばいいんでしょうか」
村長は、少し驚いた顔をして、それから優しく微笑んだ。
「お前が学びたいことを学べばいい。魔法は、人を縛るものじゃない。お前が世界をどう見て、何を理解したいかだ」
世界をどう見るか。
何を理解したいか。
僕は、もう一度あの未来を生きるのか? それとも、何かを変えられるのか?
なぜ、僕は戻ってきたんだ?
なぜ、十二歳の自分に?
家に帰る道すがら、僕は村を見渡した。
見慣れた光景のはずなのに、全てが新鮮に見える。まだ焼けていない家々。まだ生きている人々。あそこで洗濯物を干しているのはミラーさんだ。三年後、病気で亡くなる。向こうで子供と遊んでいるのはトムおじさん。あの戦争で、最前線に立って死んだ。
知っている。僕は、彼らの未来を知っている。
でも、何ができる?
僕は、ただの十二歳の少年だ。魔法も使えない。力もない。
それでも——
「エリオ!」
振り向くと、一人の少女が走ってきた。
茶色の髪を後ろで束ねた、快活そうな顔立ちの女の子。僕と同い年の、幼馴染。
「リーシャ……」
リーシャ・フォレスト。
僕の最後の記憶で、泣いていた少女。
そして、あの戦争で——
「何ぼーっとしてるのよ。村長のところ、どうだった? 魔法使えた?」
「あ、ああ。まだだけど……魔力は感じられたよ」
「へえ! すごいじゃん! さすがエリオ!」
リーシャは屈託なく笑った。
この笑顔を、僕は何度見ただろう。いつも元気で、いつも笑っていて、僕を引っ張ってくれた幼馴染。
でも、あの未来で——
「ねえ、明日一緒に森に行かない? 春の茸が出てる頃だから、採りに行こうよ」
「森……」
そうだ。明日、僕たちは森に茸を採りに行く。そして、迷い込んだ子鹿を見つけて、助ける。その子鹿は、足を怪我していて——
待てよ。
もし、その子鹿を見つけなかったら?
些細な出来事だ。でも、もしかしたら、何かが変わるかもしれない。
いや、そもそも——未来を変えることなんて、できるのか?
「エリオ? どうしたの? また顔色悪いよ」
「あ、ごめん。うん、行こう。明日、森に」
「やった! じゃあ朝早く、うちに来てね!」
リーシャは手を振って、家の方へ走っていった。
僕は、その後ろ姿を見送った。
そして、決めた。
分からないことだらけだ。なぜ戻ってきたのか。何ができるのか。未来は変えられるのか。
でも、一つだけ確かなことがある。
僕は、もう一度この六年間を生きる。
ならば——今度こそ、守りたい。
リーシャを。父さんを。母さんを。村のみんなを。
たとえ、僕がただの子供でも。
たとえ、未来が決まっているとしても。
もう一度、あの結末を受け入れるなんて——できない。
その夜、僕は眠れなかった。
ベッドに横たわりながら、天井を見上げる。見慣れた染みが、月明かりに照らされている。
もし、これが夢なら。
もし、明日目が覚めたら、また十八歳の戦場に戻っているなら。
でも——もしこれが現実なら。
僕の心臓が、静かに鼓動している。
体の中を、魔力が巡っている。
循環。
村長の言葉が、頭の中で響く。
全ては巡り、循環している。
ならば、僕のこの人生も——?
やがて、浅い眠りが訪れた。
夢の中で、僕は青い空を見ていた。
血の味がして、リーシャの泣き顔が見えて——
目が覚めると、また朝だった。
木の天井。右の隅の染み。
窓から差し込む朝日。
「エリオ! 朝ご飯よ!」
母さんの声。
僕は、深く息を吸った。
これは、現実だ。
夢じゃない。
もう一度、人生が始まる。
今度こそ——




