向き合いたい
フルゥとの話が、いつ終わったのかははっきりしない。
だが、これが本当にフルゥと会う最後になるのだと、理解していた。
言葉が途切れた沈黙の向こうで、世界の色が変わり始める。
窓辺にかかったカーテンが、わずかに白んでいる。
夜の濃さが薄まり、布の繊維を透かして、淡い光が滲んでくる。
もう、朝だ。
時計を見る、そんな行動もいちいち惜しく感じてする気にはなれなかった。
眠気は不思議と感じない。ただ胸の奥に、揺るがない衝動だけが残っている。
――会いに行かなきゃ。
フルゥを離して立ち上がる。
足元に落ちた影が短くなるのがわかる。
カーテンの向こう側は、もう夜ではない。
淡い金色が、部屋の輪郭を一つずつ塗り替えていく。
椅子にかかった上着を、乱暴に引き剥がす。
袖を探すのがもどかしくて、肩に引っかけただけで背を向けた。
玄関で靴に足を突っ込む。
踵を踏みつけたまま、きちんと履いているかなんて、どうでもいい。
一分でも、一秒でも、早く。
扉へ向かうと、そのまま、外へ踏み出した。
ドアが開いた瞬間、寝癖のついた髪に、明らかに寝起きの有馬が僕を目で捉えて固まった。
「……え、なんで、月島が」
僕は有馬が次に動き出す前に一歩踏み出し、飛びつくように抱きついた。
有馬を逃がさないようにしっかりと腕に力を込める。
それでも、本気で抵抗されれば、有馬と僕の体格差では簡単に引き剥がされてしまうだろう。
「僕から離れようとしないで」
声が、震える。
「お願い」
有馬の身体が一瞬こわばり、それから、力が抜けたのがわかった。
「俺に、会いにきてくれたの」
有馬の声は穏やかだった。
最後に聞いた、感情を一気に吐き出した悲鳴のような声とはまるで違う。
それでも、また拒まれるかもしれない。
「どうしても伝えたいことがあって。このまま有馬との関係が終わるのは嫌なんだ」
息を詰めるように、次の言葉を待つ。
「こんな格好で、こんな時間に……寒かったよな」
そう言って、有馬の腕がゆっくりと僕の背中に回った。
しかし、それは一瞬のことで、すぐに身体を引き離されて、有馬との間に僅かに距離ができる。
「……とりあえず、入って」
素っ気なくそう言うと、僕に背を向けて家の奥にどんどん入っていってしまう。
有馬の冷たい雰囲気に、二人で笑い合っていられた記憶が夢みたいに思えた。
有馬を振り向かせるのはそんなに甘くない。
でも、本当に僕を突き放したいのなら、家に入れたりしないし、寒さを気遣うような言葉だって出てこない。
優しい有馬は、今もちゃんとここにいる。
だから、ここで引くつもりはなかった。
ただ、その優しさが、有馬自身を傷つけているだけだ。
あの事故に囚われたまま、有馬の時間は、あの頃から止まっているみたいだ。
前に進むことを、自分に許していない。
有馬が自分を幸せにしていいと思える場所を、取り戻したい。
痛みを振り切るように、有馬の後を追った。
テーブルを挟んで向かい合うように座った。
有馬は落ち着いた様子を装いながら視線を泳がせ、「お茶でも飲む?」と聞いてきた。
「……いい」
沈黙が流れる。このまま、話を逸らされたくなかった。
「有馬はさ、この2週間どう過ごしてた。僕はすっごい寂しかった。ずっと有馬のこと考えてたよ。」
有馬は黙って僕の言葉に耳を傾ける。
「目覚めた時に有馬がいてくれて、混乱したけど嬉しさもあったんだ。あの時さ、有馬、泣いてたよね。それは十年間、僕を諦めないでいてくれた証拠だと思う」
僕のためにあそこまで思ってくれる人は有馬の他にいないと思った。
だから、有馬の目をまっすぐに見据える。
「ねぇ有馬、僕も有馬のことーー」
言い終わる前に、有馬の手が伸びてきて、好きだと言いかけた口を言葉ごと塞がれた。
驚いて、有馬の手を剥そうとする。
「……言わなくていい」
拒むような仕草なのに、その目だけは、どこか縋るようだった。
「俺が言ったあれは、恋人になりたいって意味じゃない」
指先に力がこもる。
「月島には、ちゃんと月島を想ってくれる優しい女の人と一緒になって、幸せな家庭を築いてほしい。そういう未来が一番あってる。俺は月島が生きてる、それだけでいいんだよ」
俯いていて表情は見えなくても声は震えている。
そんな苦しむように言われたら、僕だって悲しくなるよ。
僕は有馬の手を再び優しく掴んで、ゆっくり口から外した。
「それ、有馬が決めることじゃない」
有馬の視線が大きく揺れる。
「それにさ……有馬、事故のこと自分のせいだと思ってるけど」
「それは違う」
きっぱりと言い切る。
「あの事故は、偶然が重なった結果だよ。誰がなんと言おうと有馬ひとりが背負うものじゃない」
「僕は、有馬のせいだなんて微塵も考えたことない。だからさ……そんな顔で、自分を追い詰めるのもうやめにしようよ」
「でも、俺は月島に好きになってもらえるようなところなんて一つもないんだ」
「都合のいいとこだけ好きになる気ない」
「ずるいとこも、弱気なとこも、ダサくても、そういうとこ全部ひっくるめて有馬が好きだ」
「有馬の全部、僕が受け止める」
有馬はしばらく俯いたまま、何も言わなかった。
拳を握りしめ、肩がわずかに震えている。
「ねえ有馬、もし、この先も僕とずっと一緒にいてくれるっていうならもう一度好きって言ってほしい」
「好き……、好きだっ……!」
喉を引き裂くみたいな掠れた声。
縋るように見開かれた目は潤んでいて、必死に堪えてきたものが、今にも溢れ出しそうだった。
「誰よりも好きだ!!!!」
椅子から立ち上がり、有馬の頭を抱き寄せる。
有馬の腕が腰に回る。
やっと聞けた。
有馬の本当の気持ちを。
曖昧でも、拒絶でもない本心を。
「……真白、俺で、いいの」
「有馬じゃなきゃイヤだ」
額を押しつける有馬が愛おしくてたまらない。
「俺、もう……離してやれない」
自嘲気味に、でも正直なその言葉が胸の奥深くに沈み込む。
ああ、これ以上ないほど、幸せだ。




