幼い頃の記憶 アレン視点
大人に見つからないよう、ひっそりと孤児院を抜け出した。
どこへ行くつもりだったのかは覚えていない。
ただ、あの日の俺は建物の中に閉じこもるだけの生活に嫌気がさして、外の世界に飛び出してみたかったんだ。
久しぶりの外の空気。
青空の下に気持ちいい風が髪を靡かせる。
常に大人に監視されているようだった孤児院とは違い、自由に外の世界を駆け回る僕は無敵になった気分だ。
だから、魔族の生息地帯と呼ばれる森に足を踏み入れていたことにも気づかなかった。
森という自然の中なのに、鳥の声も風の音も聞こえない。
自分の呼吸する音だけが鼓膜を振るわせる。
いつの間にか音のない不気味なところに迷い込んでしまった。
普通の人間ならこんな薄気味悪い場所、すぐに引き返す。
けれど僕は、なぜか探究心をくすぐられて、さらに奥へと進んでいった。
ーーー音のしない変な森があるなんて面白い。この先に行ったら何があるんだろう?
ずんずん進む足取りとは裏腹に、進むほどに心細さが募っていく。
自分から足を踏み入れたはずなのに、今すぐこの森から逃げ出したくなってきた。
もう十分に進んだ。
だからもう引き返してはやく孤児院に戻ろう。
これ以上この場所に一人でいたくない。
僕はがむしゃらに走った。
この森に足を踏み入れたことを死ぬほど後悔した。
ーーーあの時引き返していれば、こんな思いしなくて済んだのに
木々がざわめくたび、それが俺を嘲笑っているようで、ますます怖くなった。
そして、石に躓いて盛大に転んだ。
勢いのまま顔を地面にぶつけて、服は泥だらけ。
膝や肘には血が滲んでいて、声を上げて泣いた。
もうこの世にいない両親の名を、何度も何度も呼びながら。
そのときだった。
木の影から、そっと誰かがのぞいているのが見えた。
僕の泣き声を聞いて、きてくれたのかな。
彼は心配そうにこちらに近づいてきた。
こんなところにも、人がいたんだ。
という驚きと安堵が混じって、涙は自然と引っ込んでいった。
彼は目の前に来て一言も喋らないまま、そわそわしているので僕はその様子を呆然と眺めていると、
彼は意を決した様子でこちらへ手を伸ばしてきた。
その手を見た瞬間、全身が凍りついた。
黒い鱗で覆われた肌に、鋭い爪。
ーーーこの人、人間じゃない!!
人間だと思っていたそれは恐ろしい悪魔のような魔族の手を俺に伸ばしてくる。
怖い。
怖い、怖い。
頭の中が恐怖でいっぱいになって、
一度は止まったはずの涙が、堰を切ったように溢れ出した。
「やだ、やだ……こないで……!」
声を絞り出すと、目の前の動きがぴたりと止まった。
少しの間のあと、
それは自分の手を見つめ、そっと胸の前で握りしめた。
淡い光が指先から溢れ、黒い鱗が溶けるように消えていく。
みるみるうちに肌色の人間の手に変わっていった。
それを見せながら、彼は恐る恐る微笑んだ。
「これなら……怖くない、かな?」
その遠慮がちな声が、
どうしようもなく優しくて、泣くのをやめられなかった。
魔族の彼が余計慌ててしまう。
「やっぱり怖かったよね。ごめん、ごめんね」
怖くて泣いてるんじゃないと、泣き止めない代わりに首を左右にぶんぶん振った。
いつも怒られてばかりだったから。
こんなに優しい声はお母さんやお父さんが生きていた頃にしか、聞いたことがなかったから。
心がギュッてなったんだ。
俺はふと、顔についた泥がなくなっていることに気づいた。
頬も、手の甲も、さっきまで泥だらけだったはずなのに。
……いつの間に。
怖くて気づかなかったけれど、
さっき、あの怖い手で俺の顔の泥をきれいにしてくれたのだ。
彼はもう一度、俺の方へ手を伸ばした。
今度の手は人間のものと変わらない、あたたかな手だった。
淡い光が俺の体を包み、
走ってできた擦り傷や、転んで血の滲んだ膝の痛みが
少しずつ、やわらいでいった。
光が消える頃には、もう痛みは感じなかった。
彼を見上げた。
顔の半分以上が真っ黒のボサボサした髪の毛に覆われている。
風が吹いて時々隙間から覗く金色の目が綺麗だ。
「早く、この森を出なさい。ここは危険だ」
その言葉が、まるで「もう会えない」と告げられたように聞こえて、
胸の奥がちくりと痛んだ。
嫌だ。ここでお別れになるなんて。
僕は、小さな体で、力いっぱい抱きついた。
離れたくなくて、ただその温もりにすがる。
ぐりぐりと額を押し付ける。
彼の腰ほどしか身長のない僕。
力ずくで離されてしまえば敵わない。
でも、彼は無理やり僕を剥がそうとはしなかった。
少しだけ驚いたように固まってから、困ったように微笑んだ。
「……仕方ないな」
そう言うと、そっと僕を抱き上げた。
大きな腕に包まれながら、彼はゆっくり歩き出した。
僕は来た道を降りていく。
木々の間を抜ける風の音が、やけに優しく聞こえた。
僕は彼に抱きかかえられている間、いっぱいいっぱい喋った。
楽しかったことも、嬉しかったことも。
好きな食べ物、好きな遊び、最近見たきれいな空の話まで。
思いつくまま、全部。
そんな僕の話を、静かに、でもどこか楽しそうに聞いてくれた。
時々「へえ」とか「それはすごいな」と相槌を打ちながら。
その声が温かくて、くすぐったくて、僕はもっと彼の反応が見たいと夢中で喋った。
この人に、自分のことをもっと知ってほしい。
そんな気持ちで胸がいっぱいになっていた。
僕のいた教会の屋根が見えてきた頃、
男はそっと足を止め、僕を地面に下ろした。
もうここでお別れなんだと、すぐにわかった。
「二度と、この森には来てはいけないよ」
静かにそう言って、彼は僕に背を向けた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられるように痛くて、けれど、泣くまいと目に力を入れた。
「ばいばい!」
声に出すと、彼は一度だけ止まり、それでも振り返ってくれることはなく、森の奥へと消えていった。
彼は、もう僕がこの森に来ることはないと思っているんだろう。




