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彼方者―あっちもの―8

「わはは!こりゃ僥倖ってなもんだぜ!」

――瞬間、空気が変わった。

 背後から、その場にそぐわぬ声がしたのだ。それはこの場の誰のものでもない。二十六木のものでも、私のものでも、ましてアレのものでもないだろう。

 だが、人間の声だ。少年の、子どものような、どこか無邪気な声。そうだと分かるのに、背筋が凍る。 

 私の思考は完全に固まっていて、だからこそ反射的に声の方向に目を向けようと首を動かした。だが、その動きは大きな手に阻まれる。先程と同じように二十六木の胸に顔を押し付けられたのだ。

「オレは入り口を食っただけだったのになぁ?殺すのがよりにもよってソイツじゃなけりゃ、なぁ?」

 水音が止んだ。途端、背後まで迫っていたアレの気配が、急激に声の方へと寄っていく。しかし

「へへ。じゃ、いただきまァす」

 朗らかな声。直後、ぐしゃりと肉が潰れる音がした。

 いや、違う。潰れたのではない。

 ――噛み砕かれたのだ。

 その場に凄まじい絶叫が響き渡る。

 それは少女の声でもあり、少年の声でもあり、あまりにも多くの人間の声を内包した断末魔。

 思わず耳を塞ぐが、全く意味がない。

 肉が引き裂かれる音。骨が砕かれた音。何かを飲み込む音。その全てが私の耳を襲う。だから理解してしまう。 

 これは、咀嚼音だ。誰かが何かを食べている。いや、『何か』ではない。それが何なのかを、この状況になって察せない私ではない。

 つまり、『アレ』を食べているのだ。

「あ……あ……」

 逃げなければならないと、思考はできていた。あからさまにアレよりも脅威的な存在が背後にいる。だが、二十六木廉の遺体をここに置いて逃げるなど――

「あー、……二ノ宮さん?もうちょっとこのままで我慢してね」

「……え?」

 頭上から声が降ってきた。それは間違いなく二十六木廉の声。完全に豆鉄砲を受けた鳩状態に陥った私は、慌てて二十六木の胸に耳を強く押し当て、心臓の鼓動を確認する。

「わ、ちょ、ちょっと?」

 心臓は確かに動いていた。慌てて頭を上げると、彼の顔が眼前にあり、

「いだぁ!?」

「ぐおッ」

 綺麗な頭突きをかましてお互い悶絶する。

「と、二十六木君……、これ、ど、どういう……」

「あ?何だソイツ」

 背後の咀嚼音が止まった。が、この時の私は困惑のあまり、危機感という存在が抜け落ちていたのだ。「あっ」という二十六木廉の声と同時に振り向いてしまった私は、その光景をしかと目撃した。

 薄暗い教室の中、床一面に散らばる肉片。赤黒い液体がいつの間にか出ていた月光に照らされ、鈍く光っている。

 その中心に、小柄な人影が立っていた。子どものような背丈。爛々と青く光る瞳が私を捉え、一歩、また一歩と、こちらへ近づいてくる。

 月光がその顔を照らした瞬間 

「おい、ロス!」

 二十六木の手が、視界を覆った。

 だが遅い。もう見てしまった。

 どろりと血に染まった顔。口元から滴り落ちる赤黒い液体。そして、笑みを浮かべる口の奥に、びっしりと並んだ――サメのような、鋭い歯。

 私の記憶は、そこでぱったり途切れている。


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