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彼方者―あっちもの―6

「何も起きないね」

 二十六木廉が肩を竦めた。

「……おかしい!」

 昨日と全く手順は同じだった。時間帯もそう変わらない。なのに、今日に限っては何も起きず、校舎に変化もない。

「二十六木君!君が何かしたんだろう!?」

「だから、俺なんも知らないってぇ」

 背伸びをして彼の襟元を掴み、ガクガクと揺らす。二十六木廉はそれには抵抗せず、「あ〜」と気の抜けた声を出すばかりだ。

「違ったのはなんだ。手順か?それとも日時?条件があるのだろうか……?」

「ねぇ、もう帰っていいー?」

 ぶつぶつと呟く私の隣で彼はほざいている。だが、ここで彼を逃すべきではないと、私の中で警鐘が鳴っていた。

「いや……まだ手はある!」

「えぇー!?もういいじゃん、帰ろうよぉ」

 そう言って私は手錠の片輪と携帯端末を二十六木に押し付けると、揚々鏡に背を向けた。

「……何するの?」

 少し不安げな二十六木に、私はふふんと鼻を鳴らして笑って見せる。

「狐の窓でなくても、異世界を覗く方法はあるのだ。よく見ていろ!」

「ちょっと二ノ宮さ……」

 二十六木の静止の声を遮って、私はガバリと大股に足を開き、スカートの裾をたくしあげた。そのまま前傾の姿勢をとって、

「どうだ!」

 自分の股の間から鏡を見る。

「…………」

 長い沈黙がその場に横たわった。

 まぁ、確かに?女子としてどうか、みたいな体勢を取っていることは否定すまい。

 だが、自身の股の間から顔を出し、逆さまにものを見る『股覗き』は、異界を見たり、怪異の存在を判別するのに有効な手法としてあるのだ。

――でも、これだと東廊下が見れない。

 噂通りにやるとしたら、鏡に映った自分を見た後、東廊下も見なければならない。私はうごうごと足を動かし、股を覗き込んだまま東廊下の方へと向きを変えようとした。

「二ノ宮さん、待って!」

 それまで気怠げに受け答えしていたはずの二十六木廉が、焦りを含んだ声を上げる。だが、ほんの僅かなひと動作を止める間は無かったようだ。そもそもこの体勢の人間を止める方法が無かったのかもしれない。

 酷く間抜けな格好。そのはずだが、先に見えた光景は、笑って済ませられるものでは無かった。



――ぽちゃん



 電気の消えた廊下の真ん中に、それはいた。水音が一定の間隔で鳴り響く空間。暗黒の中だというのに、何故だかよく見える。

 『裏返った人間』、と表現すればいいのだろうか。皮膚の引き剥がされた、と形容するには、いささか悍ましさの方向が違う。内臓が風船のように身体を取り巻く肉の塊。手脚と頭だけは本来の形を保ち、かろうじてそれが人であろうと分かる。

 人体模型なんて可愛いものではないが、怯えて逃げ出した人間が勘違いするのも致し方のない存在。


――ぽちゃん


 水音と共に、それは一歩前に足を踏み出す。全身に怖気が立つ。アレを見るのは2度目だが、慣れろという方が難しい話だ。

 私は咄嗟に体を起こして背後を振り返ろうとする。だが、起き上がった瞬間、ぐいと肩を強く引き込まれ、体勢が崩れた。前に倒れ込むと同時に、ばしゃ、と一際強い水音が鳴る。廊下に薄く水が張っているのだ。顔に液体が飛びかかった。

「……っ、ぐ……」

「……二十六木君?」

 目の前から苦しげな声が聞こえる。手錠の鎖を辿って彼の手に触れると、やけにぬるりとした液体に触れた。慌てて端末のライト機能をつけようとした私の手を、彼の左手が止める。

「それはダメ。点けないで」

 小声だが、呼吸が荒い。

「二十六木君」

「こっち」

 二十六木廉は短くそういうと、私の手を取って廊下を歩き始めた。その手は疑いようもなく昨日の大きな手だ。昨日と違うのは、互いの手が妙な液体で濡れているという点だろうか。

 どこをどう歩いたのかの感覚は、暗闇の中で完全に失われていた。ただ黙々と歩く二十六木に手を引かれて歩く。

「出口に向かってるのか?」

 沈黙に耐えかねて問う。すると

「まあね」

 と比較的明瞭な答えが返ってくる。

「やっぱり、昨日のは二十六木君だったんだな」

「……まさか、あの状況で録画してるとか思わないじゃん……」

 それは実質的な肯定。二十六木廉はちらりと私に視線を向けると、恨みがましげに口を尖らせた。

「しかも、性懲りも無く別の入り口を見つけちゃうんだもんな」

「何の事かは分からんが、二十六木君の予想を上回る事ができたのなら本望だ」

「そんなのでドヤんないでよ……」

 恐らく彼は、狐の窓では何も起こらない事を知っていたのだろう。だが、股覗きという方法は知らなかった。先程の部室での会話を鑑みるに、彼にはオカルトの類の知識があまり無いのだ。

「あー……」

 私がそんなことに思考を回しているうちに、二十六木が立ち止まった。落胆を示す声色に、私は彼の隣に並び立って見上げる。

「どうしたの?」

「いや、……なんでもないよ」

「なんでもないって感じじゃなかったな?思考整理にもなるし、私が情報提供できる可能性もある。話してくれ」

 彼は僅かに逡巡した様子を見せたが、やがて意を決したように

「出口が分からないんだよね」

 と言った。

「……え?」

「今回は入り方……入り口が違ったんだ。だから、ここは昨日とは違う世界。出口の場所も変わってくる」

「違う世界って……。でもアレは昨日見たものと同じだったぞ?……多分」

「そうだね。アレは同じ。昨日の事があったから、中身だけこっちに逃げ込んだんだ」

「こっち?逃げ込んだ?」

「うーん……その辺の説明は今この場では難しいよ。後でね」

「おい」

 ガシリと、二十六木廉の腕を掴む。

「昨日も同じセリフを聞いた。『また後で』って。……必ず説明はもらうからな」

「……分かったよ」

 観念した、とでも言いたげに、彼は軽く肩を竦める動作をする。

「ひとまずアレに見つからないようにしながら出口を探さないとかな……」

「……いや、もっと手っ取り早い方法がある」

 私の言葉に首を傾げる二十六木。

 私も大概正気ではないのかもしれないと自覚しつつ、私は彼と繋いでいない方の手を固く握りしめ、言った。

「アレと対話をしてみよう」

 先程、私が股を覗き込んだ時以上の沈黙が私達2人の間に横たわる。

「……え?」

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