彼方者―あっちもの―2
手を引かれながら一歩を踏み出す。瞼越しに、何かの光が見えた気がした。けれど太陽を見た時とはまるで違う、蠢く光だ。
水音が聞こえる。頭上からだけじゃない。足元からも、靴音とは別に水たまりを踏むような音が届いていた。殆ど息を止めて、私は右手に伝わる温もりに縋りながら歩いた。
――ぽちゃん
今度は真横から。あまりにも近くで聞こえたせいで、思わず息を止める。
すぐ横に何かの息遣いを感じた。生暖かい、けれど鳥肌が立つほどの怖気を発する何かが、すぐ隣にいる。
「目を開けて」
前方から彼の声が聞こえた。でも、私は知っている。ホラー映画で何度も見た光景だ。こういう時、言いつけを守らない人間はすぐに退場すると相場は決まっている。
私は決して、『食事だよ』以外の文言に反応してはならない。
「大丈夫だよ。目を開けても」
声色も調子も瓜二つ。けれど私は固く目を閉じたまま、唇を噛んだ。返事なんてしてやるもんか。
瞼を刺す光が一層強く感じる。まるで、目の前で私を覗き込んでいるかのような近さに、呼吸すらままならない。
「目を開けて。目を開けてよ。目を開けて――私を見て」
声は音の低さを保ったまま、少しずつ喚き散らすような口調になった。
目の前にいるのは、何だ。廊下で見たアレなのか。だとしたら、――アレは、
「見て」
耳元で囁かれる、女の声。喉から絶叫が出かけるが、その途端、右手がぐいと前に引かれた。つんのめる私の体は大きな手に支えられ、体勢を立て直す。そして私が1人でしゃんと立つと、ふと手が身体から離れた。
まさか、ここで放置されるのではあるまいな。疑問の声を上げかけ、けれどやはり思い立って口を噤む。
「あーあ、待ちくたびれたぜェ」
ややあって、少し離れた背後から明るい声が聞こえてきた。それは先ほどまで私の手を引いていた男とは違う、少し幼い子供のもの。
「何だァ、そいつ?」
その問いかけに反応したのは、今度こそ彼の声だ。
「同級生。取り込まれてたから、連れて帰ってきた」
「ははぁ、なるほどな。思った以上に、世界は終わりかけか」
「そうなぁ。……ま、とりあえず」
――ぽちゃん
「食事だよ」
水音。けれどそれすら意に介さず男が告げる。
瞬間、私は弾かれたように目を開けた。
何がいるのか。あの水音は何なのか。男の正体は誰なのか。何もかもが知りたくて目を開けたのか。それ以上に、このまま目を閉じていることさえ恐ろしかったのか。今となってはわからない。
私は校門前の歩道に立ち尽くしていた。
いつの間に外に出ていたのだろう。周囲を見渡してみるが、誰の姿も見当たらない。先程まで真っ暗だったはずの校舎は、一階の職員室部分に電気がついている。
「鈴子!」
学校駐車場の方から名を呼ばれ、私ははっと視線を向けた。白い新車に乗った兄が窓から手を振っている。
「お、おにい、ちゃん」
見慣れた姿に、身体から一気に力が抜けた。極度の緊張から解放されると、本当に膝から崩れ落ちるらしい。今日は新しい発見でいっぱいだ。
「おい!?」
驚いて車から降り、駆け寄ってきた兄は、少し焦った様子で私の前にかがみ込む。
「ど、どうしたんだよ!? っつか、お前いつの間にここまで出てきたんだ? オレ、割とずっと玄関口の方見てたんだけど?」
「わ、わかん、ない……でも……」
――ぽちゃん
驚き、思い切り息を飲み込んだ。兄の反応がまるきりないところを見る限り、きっと空耳だろう。けれど、私の脳裏には廊下の奥で見た『アレ』がフラッシュバックする。それと同時に、私の思考は電源を落としたように強制終了を余儀なくされた。
目を丸くした兄の顔を最後に、私の視界は明滅し、回転し、そして暗転する。




