彼方者―あっちもの―1
廊下の奥にいたのは何だ。
上手く認識ができなかった。けれど、普通じゃない。それだけは確かだった。
「何で……何で繋がんないの、お兄ちゃん……!」
震える指で何度も端末の画面を叩く。なのに、いつまで経っても繋がらない。
『おかけになった電話番号は、現在使われて――』
「そんな訳あるか!」
端末内に登録してある番号だ。ついさっきまで使えたはずの電話番号。それがどうしてこのタイミングで繋がらないというのか。
――ぽちゃん
遠くで水が落ちる音。肩が無意識に飛び上がる。心臓が口から出そうという表現は、案外言い得て妙なのかも。そんな現状とは裏腹の思考が、私がどれだけパニックに陥っているかを再認識させた。
「お、落ち着いて、……落ち着こう、落ち着け、鈴子……」
小さく声を出して乱れた呼吸を整える。大きく息を吸って吐けば、多少は脳に酸素が回った。
そう。焦っても騒いでも、この状況は変わらない。私が今するべき事は、状況の把握。そして現状を打破するための解決策を見出す事である。
まず、今私がいる場所は、間違いなく職員室だ。暗闇の中を移動してきたが、職員室は校舎の一番端の部屋だから間違いようがない。
私は同級生の言う『噂』の真相を確かめるために、忘れ物を取りに来たと先生に言い訳をして、夜の2年A組教室に行ったのだ。
わざと忘れた数学ノートを手に取って、録画を回しながら『噂』の発端である◾︎◾︎の前へと向かった。でも、言われた通りのことを試しても何も起こらなくて、仕方なく職員室に向かってる途中――
見た。
ああ、目があった。
でもアレは、決して『噂』の内容通りのものじゃない。
――ぽちゃん
廊下の奥から少しずつ水音が近づいてくる。
「どうしよう……」
忘れ物を取りに来た、と告げた時には、ここにはまだ数人の先生が居残っていた。それがこの短時間で全員帰ったとは到底思えない。だというのに、完全に電気は消え、人影ひとつ見当たらない。そればかりか、玄関も、窓も、どこもかしこも開かないのだ。
机の影に隠れて、もう数分は経っただろうか。
周囲は暗がりに包まれていた。非常灯すらついておらず、頼れるのは携帯端末の心許ないライトだけ。
――ぽちゃん
また、水音が鳴った。アレはきっと私を探しているのだ。先の音からこちらに近づいているのが何よりの証拠だ。
仮に。もし仮に見つかったらどうなるのだろう。咄嗟に逃げてしまったが、アレは果たして幽霊なのだろうか。そうだとすれば、私は。
「……聞かなくちゃ」
教員机の影から立ち上がる。頼れるのは己だけ。本来であれば、出口を探さすべきだろう。でも、それ以上に私はやらなきゃならない事があるのだ。
足が震えている。怖いと歯が鳴るのは漫画だけの表現じゃなかったのだと、思考の片隅で納得した。生唾を飲み込み、職員室の扉を開けようと足を踏み出した、その時。
「二ノ宮さん」
「ぎょわぁぁっ、ぷ!!?」
とんとん、と後ろから肩を叩かれ、思わず大声が出た。瞬間、大きな手が私の口を塞ぎ、そのままその場にしゃがむよう誘導される。力は強く抵抗できない。でも、決して力づくで抑えようとしているわけではないと分かって、私はゆるゆるとへたり込んだ。
「しーっ。声を立てたらダメだ。もうすぐそこまで来てる」
声色から男性だと分かる。先生だろうか。聞き覚えのある声だが、端末のライトも押さえられて、相手を認識するにはあまりにも場が暗過ぎた。
そっと口から手を離され、私はまじまじと相手の顔を見つめる。目鼻立ちは分かるが、相変わらず誰かまでの判別はつかない。
「あ、あなたは……」
「俺が誰かとか、何があったとか、その辺りはまた後で。今は出口に向かわないと」
「でも、玄関も窓もどこもビクともしなくて……」
「そこは出口じゃないからね。あ、スマホのライトは消して。それから、右手を出して」
言われた通りにライトを消す。そのままポケットにしまいこみ、ゆっくりと右手を差し出した。大きながっしりとした手が私の手をゆるりと掴む。暖かい、人の手だ。
――ぽちゃん
同時に、ほんのすぐ近くで水音が鳴った。思わず掴んでいた手を強く握りこんでしまうが、相手は気にした様子もなく、
「目を閉じて」
とあっけらかんとした口調で言った。
聞きたいことは山ほどある。でも今の私にそれを問うだけの余裕はなく、素直にぎゅっと目を瞑る。
「OK。このまま歩くけど、俺が『食事だよ』って声をかけるまで目を開けないでね」
「しょ、くじ……?」
「合図。歩き始めたら、俺からそれ以外の言葉をかける事はないから、何か聞こえても絶対に返事をしないで」
半信半疑のまま、とりあえず頷く。すると彼は私を立たせ、一歩足を踏み出した。キィ、と金属の音がしたということは、職員室の扉を開けたのだろう。
――ぽちゃん
前方すぐから、水音がした。




