小説家 10日目
今日は、2025年7月19日。冷房の風が、今日は聴き手になった。長編小説だ。机の上には、真新しいノートとペン。画面に開かれた白い原稿用紙は、深く静かな海のようだ。
川の記憶を紡いだ昨日の手応えは、まだ掌に残っている。あれが私の拠り所だ。しかし、長編は違う。物語はどこから始まり、どこへ向かうのか。最初の一行が重い。指はキーボードの上で浮遊し、思考は空回りする。かつて川に飲まれそうになった時の無力感が、今度は空白の原稿に押し寄せてくる。
窓の外を見る。昨日の小さな水たまりは、すっかり乾いていた。その跡だけが、かすかに色の濃いアスファルトのシミとして残っている。恐怖の象徴は消え、ただの跡に変わった。そうだ、物語もまずは跡を残せばいいのだ。完璧な物語など最初から描けなくていい。
ため息と共に、無造作にノートを開く。ペン先を走らせる。思いつくままの風景、名前もない登場人物の些細な動作、ふと浮かんだ台詞の断片。意味はない。脈絡はない。ただ、ペンが紙を擦る音だけが部屋に響く。
すると、一陣の風が窓を揺らした。開いていたノートのページが、さっさとめくられていく。まるで、先へ、先へと急かすように。
私はその風に導かれるように、パソコンの画面に目を戻した。そして、ためらわずにキーを叩いた。ノートに散らばった無意味な跡の一つが、突然意味を持ち始めたのだ。