第二章 ファーストプル 1
ウエイトリフティング選手としての夕陽の練習は、スクワットから始まった。
とはいっても、稲城先生が教えてくれたように筋肉を大きくする目的ではなく、
「柔軟性やコーディネーション、タイミングが大事なのは確かだけど、バーベルを受け止められるだけの筋力があることが大前提だからな」
というわけで、そのためのトレーニングである。
「今日も頑張ろうね、夕陽!」
「アレ、夕陽! スクワットはロワ・デ・エグゼルシスです。しっかりいきましょう!」
三十五キロのバーベルが乗ったラックの両側から、二人のチームメイトが元気に声をかけてくる。
同学年だし、おたがい他人行儀はやめようということで、鈴とマリーがすぐに名前で呼んでくれるようになったのが夕陽は嬉しかった。逆に自分の方はまだ少し遠慮があり、一週間経った今でもつい敬語が出てしまうのだが。いずれにせよ、この新しい友人たちは本当に魅力的だ。
「英語にすると、キング・オブ・エクササイズ。つまりエクササイズの王様。それだけいろんな要素が詰まってる、言わばトレーニングの基本ってわけだ」
マリーの言葉を通訳しながら、稲城先生もそばで楽しそうに見守っている。
「よし、夕陽。じゃあ今日も、まずは十回いこう!」
その稲城先生まで当然のように名前で呼ぶようになっているが、むしろ女子ウエイト部の一員になれたことが実感できて、これもひそかに喜ばしい。
「はい!」
元気に返事をした夕陽は、バーベルを肩に乗せてスクワットを始めた。
「……五……六……いいよ、夕陽!」
「……七、ビアン! あと三つです、夕陽!」
鈴とマリーも、重量プレートがついた両サイドの部分(『スリーブ』というのだと教わった)をいつでも支えられるような体勢のまま、一緒に身体を上下させてくれている。
「八……きゅう……じゅうっ!」
最後はみずからも声を出しながら、夕陽は十回のスクワットをしっかり終えることができた。
「よし、OK! ラックに戻すまで気を抜くなよ」
「はいっ!」
充実感とともに、バーベルを丁寧にラックへと戻す。この重さにはすっかり慣れてきた感じだ。
「もう三十五キロはなんてことないね。やっぱり夕陽、ウエイトに向いてるよ」
「ウイウイ。スクワットもとても綺麗です」
「ありがとう」
鈴とマリーが自分のことのように、顔をほころばせてくれる。慣れてきたつもりでも、二人のチャーミングな笑顔にはつい見とれそうになる。しかもマリーの方は、今日はなんと輝く金髪をツインテールにしている。
「マリーさん、超可愛い……」
例によって、勝手に口が動いてしまった。
「メルシーボークー。この髪型は、ジャポンの男子が特にモエるのですよね? アキバやコミケ会場にこれで行くと、フォトを撮らせて欲しいってよく言われます」
「え……マリーさん、そっち方面も好きなんですか?」
「ソッチホウメン?」
「そうなの。マリーってば、結構なガチオタなのよ。SNSに上げてるコスプレ写真とか、《いいね》がつきまくってるし」
念のため聞くと、鈴が苦笑気味に教えてくれた。
「ウイウイ。ジュ・スイ・オタクです。フランスでも日本のアニメやゲームは、チョー人気ですよ」
当の本人はツインテールを揺らして、なんの屈託もなく微笑んでいる。Tシャツにハーフパンツ姿にもかかわらず、その姿は、
「本人が既に、リアル二次元キャラだからな」
と、稲城先生も笑ってしまうほどだ。アニメやゲームのキャラクターに扮して仮装を楽しむコスチューム・プレイ、コスプレは日本人がウィッグやカラーコンタクトをしても、どうしても違和感が残りがちになる。だがブロンドの髪に白磁の肌とグリーンの瞳を生まれ持った、しかも誰が見ても美少女のマリーは、まさに二次元の世界から飛び出したように見えることだろう。
「鈴も誘ってるのに、絶対着てくれないんです」
「あたしは興味ないって言ってるでしょ」
「モッタイナイなあ。ポニテでスタイルもいいから、『エムブレム・ソード』のランちゃんとか、ぴったりなのに。きっと〝俺の嫁〟とか〝結婚してくれ〟ってコメントもいっぱいもらえますよ?」
「ますます結構ですっ!」
必死に拒絶してはいるが、その気になれば鈴も相当な人気が出るんじゃないだろうか。夕陽の脳内に、それっぽい格好をした彼女が、スマートフォンの中でポーズを決めている画像が浮かんだ。もちろん画像の下には、膨大な数字の《いいね》マークつきで。
「ちょっと夕陽? あんたまで変なこと妄想してない?」
「う、ううん、全然。気のせい気のせい」
慌ててごまかすと「怪しいなあ。ま、やっとタメ口になってくれたから、今回は許してあげる」と、頬を膨らませながらもそれ以上は追及されなかった。
「夕陽、私にもタメグチでお願いしますね」
「はい……じゃなかった、うん、マリー」
若干照れながらも、思い切って呼び捨てにしてみる。すると。
「メルシー!」
「!?」
いきなり背中に手を回して抱きつかれた。頬をくすぐる髪の感触と石鹸のようないい匂いに、思わずどぎまぎしてしまう。動揺して視線をさまよわせていると、さっきのお返しとばかりに、にやりと笑う鈴と目が合った。
「とか言っときながらマリー自身が敬語だけど、それはまあ、くせみたいなもんだから気にしないであげて。むしろこの『美少女テロ』に慣れないとね」
「美少女テロ?」
「日本人より積極的なスキンシップとか、女同士なのにドキッとさせるような態度ってことらしいぞ。マリーのキャラだから仕方ないけどな」
稲城先生も公認(?)ではあるらしい。
「鈴は、もう慣れたの?」
抱きつかれた状態からさり気なく逃れつつ、同じく勇気を出して夕陽は名前で呼んでみた。すかさず、「うん!」と嬉しそうな声が返ってくる。
「あたしも半月ぐらいかかったけどね。最初は女の子が好きな人かと思って、夕陽みたいにその度に顔赤くしてたもん」
「ノンノン。私はマジョリテで、男の子が好きですから。好みのチップ……もとい、タイプもちゃんとありますよ。『聖戦のマタドール』のソウジみたいな人がいいんです」
人差し指を振って口にするマリーの例えは、残念ながら夕陽にはよくわからない。なんにせよ確実に、漫画だかアニメだかのキャラクターだろう。
「じゃ、じゃあマリーはストレートなのね?」
「ウイウイ。恋愛対象は男性の、キッスイのオタクです」
「はあ」
堂々とよくわからない宣言をされたところで、鈴が話をトレーニングのことに戻してくれた。
「ほらマリー、夕陽がリアクションに困ってるでしょ。それより、ぼちぼちマックス測定もしてあげようよ。スクワットも慣れてきた感じだし、いいですよね、先生?」
「そうだな。このフォームなら問題ないだろう。ついでにおまえらも、あらためて現状のマックスを確認しておいたらどうだ?」
夕陽も気を取り直したが、「マックス測定」という、これまた知らない単語が少々気になった。言葉から察するに、おそらく――。
「はい。じつは、自分でもそろそろやっておきたかったんです。マリーもいいよね?」
「アヴェック・プレジール。伸びていると嬉しいですね」
「というわけで夕陽、スクワットのマックス、つまり限界の重さを測定してみよう。これも楽しいぞ」
やはり予想通りだった。当たり前だが、そんなものは測ったことがないので少々緊張してくる。というか、スクワットの限界を知る行為のどこが楽しいのだろう。
それでも相変わらずの笑顔で三人が見つめてくるので、夕陽は素直に「あ、はい」と頷いていた。皆が手伝ってくれるわけだし、少なくとも怪我などはしないはずだ。
「階級を考えると、私はイチバン最後ですね」
「ああ。最初に夕陽、で、鈴、マリーの順でいこう。鈴とマリーはしっかり記録を更新してくれよ」
マリーに答えてから稲城先生は「夕陽、四十五からでいいか?」と、目の前の長机に置いてある練習ノートをめくって、さらりと確認してきた。
「は?」
「なんだ、不満か? 最初だし一応、軽めからにしておこうと思ったんだが」
「え? あの、四十五……って、まさか、キロですか?」
思わず夕陽は、言わずもがなの質問をしてしまった。さっきは何も考えず頷いたが、そんな重さでスクワットした経験など一度もない。
「当たり前だろう。ポンドだったら、二十キロちょいにしかならないんだから」
いや、ちょっと待って。
異様な速さでの計算に驚くことも忘れて、夕陽はふたたびわかりきった質問をするしかなかった。
「あの、つまり、四十五キロというのはバーベルの重さ……ですよね?」
「もちろん」
「それをスクワット、するんですか?」
「もちろん」
「今?」
「もちろん」
「ここで?」
「もちろん」
「……誰がです?」
「もちろん」
答えになってないじゃないですか! とつっこもうとしたところで、当然の言葉が続く。
「夕陽がだよ」
「無理っ!」
間髪入れず、今度こそ本当につっこんでしまった。
「だ、だって四十五キロって! 自分よりさらに二キロも重いじゃないですか!」
体重をほぼストレートに、それも大声で口にしていることにも気づかず、激しく手も振って見せる。けれども稲城先生は、なんでもないように答えるだけだった。
「ああ。だから軽いもんだろう?」
「だから、って……」
意味がわからない。やはりウエイトリフターの感覚は、一般人とは違うらしい。ひょっとしたら、すべての重さが十分の一ぐらいに感じられるような特殊能力を、この人たちは身につけているのではないだろうか。
大体あたしが毎日スクワットしてるの、三十五キロなのに……。
額に手を当てる夕陽を、だが稲城先生だけでなく、鈴とマリーも笑顔で見つめるだけだった。