第一章 スタートポジション 6
「じゃ、じゃあ……一回だけ」
意を決して、鈴が握っていた場所を見様見真似で掴んでみる。グリップ部分は滑り止めの筋彫りが施されており、予想以上にしっかり手に馴染んだ。ひんやりした感触も心地いい。
「うん。そうしたら、猫背にならないよう胸を張ってみて」
「こ、こうですか?」
「そうそう! とっても綺麗だよ、夕陽ちゃん!」
「トレ・ビアン! ウツクシイ姿勢です!」
「はあ」
褒められて悪い気はしないが、バーベルを握った姿を「綺麗」とか「美しい」とか言われても……。
「じゃあ、いったん持ち上げてみよっか。上半身は動かさずに、その綺麗な姿勢のまんま身体を起こしてみて。ぐっと足で床を圧す感じで」
「こう……ですか?」
「セ・ビアン! チョー綺麗なデッドリフトです!」
「ほんと! 夕陽ちゃん、ほんとは筋トレの経験あるんじゃないの?」
過剰なリップサービスなのではと思えるくらい、マリーと鈴が褒めてくれる。といっても、バーベルシャフトを少し持ち上げただけなのだが。
……って、バーベルを持ち上げた?
そこで初めて、十五キロもあるバーベルシャフトを自分が持ち上げていることに、夕陽は気づいた。
「こ、これ、十五キロなんですよね?」
「うん、そうだよ。ね? 意外に重くないでしょう?」
「ユウヒさんのデッドリフトが、とても綺麗だからですよ」
鈴とマリーは、自分のことのようにますます嬉しそうだ。
「あたしでも、持てるんだ……」
「綺麗なデッドリフトで、しっかり床を圧せていたからだな。全然重くなかっただろう?」
見守る稲城先生も、満足そうに微笑んでいる。
「床を、おす?」
シャフトをぶら下げたままなのも忘れて、鈴も口にした表現を夕陽は訊き返した。
「ああ。ウエイトリフティングって単なる力自慢の競技だと思われがちだけど、本当は下半身のパワーを上手く真下に伝える技術が、もの凄く要求されるんだ。逆に上半身は、ほとんど使わないんだ」
「大きなパワーを伝えれば同じだけのパワーが跳ね返ってくるから、それを利用するの。床反力ってやつね」
「サヨウ・ハンサヨウの法則です」
鈴とマリーの口からさらりと科学用語が飛び出して面食らったが、幸い言っている意味はわかる。たまたまだが、物理の授業を取っていて良かった。
「そのための効率的な身体の使い方も、凄く大事なの」
「身体の使い方?」
「ウイ。ユウヒさんの得意な、コーディナシオンの能力です」
なるほど。確かにこの十五キロのバーベルシャフトも、無理な持ち上げ方をすれば、最初に思っていた通りとても重く感じることだろう。反対に、無意識ではあったが今のように理に叶ったフォーム(デッドリフトという動作らしい)で効率よく力を伝えれば、より簡単に持ち上げられるのだ。
「あたしたちも調子がいいときは、バーベルが勝手に浮いてくるみたいな感じがするんだ」
「あれはカイカンですね。チョー気持ちいいです」
一体マリーはどこで日本語を覚えているのだろう。笑ってしまいながら、ようやく夕陽は持ったままでいたバーベルシャフトを降ろした。
「じゃあ村中、実際にクイックリフトしてみよう。それだけ綺麗なデッドリフトなら、見様見真似でもなんとかなるはずだ」
稲城先生がなんでもないように続ける。なんとなくわかってきたが、こうやって難しいことを簡単に言ってのける人らしい。
「せっかくだから、そのままスナッチでいこうか」
何が「せっかく」なのか、意味がわからない。ただ、この飄々とした体育教師と会話するのが夕陽自身、なんだか楽しくなってきてもいた。
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいから、あたしの真似をしてみて」
さらに安心させるように、鈴がもう一度、スナッチの格好を取ってみせてくれる。
「私たちもカトル・モワ、四ヶ月前に初めてバーベルを触ったときは少しシンパイだったんですが、やってみたらできてしまったんです」
「え?」
マリーの意外な言葉を、夕陽は反射的に繰り返す羽目になった。
「四ヶ月?」
「ウイ。私たちも、今年に入ってからウエイトを始めたんです」
「そうなの。それにこう見えて、あたしも夕陽ちゃんとおんなじなんだよ」
「同じ?」
「うん」
いたずらっぽい表情で頷いた鈴が、マリーが降りたばかりの隣のプラットフォームへと移動する。そして――。
「!!」
ふたたび夕陽は目を見開かされた。鈴がいきなり後方宙返り、いわゆるバク宙をしたのである。広がったスカートからは鮮やかなブルーの色が丸見えになったが、さすがにスパッツだった。
「ね?」
ぴたりと決まった着地とともに、誇らしげなブイサインを鈴が向けてくる。
「で、マリーは――」
彼女の言葉が終わらないうちに、視界の片隅でも何かが動いた。
「!?」
振り向いた先ではマリーが、こちらはプラットフォーム前のスペースで宙に浮いていた。
誇張でもなんでもなく、本当に浮かんで見えるほど彼女は高く跳んでいるのだった。しかも翻ったスカートの下で長い脚が百八十度に開かれており、鈴と色違いらしい黒いスパッツ越しに、向こうにあるカウンターがはっきり見通せたほどだ。
「ジェテ・バレエ・ダンスール」
ふわりと着地したあとは、スカートをつまんで優雅なお辞儀までしてくれる。
「凄い!」
経歴以上に、それぞれの高い運動能力に夕陽は驚かされた。無意識のうちに両手も叩きまくってしまう。
「鈴さんは体操選手で、マリーさんはバレリーナだったんですね!」
「うん!」
「ウイウイ!」
初めて名前を呼ばれた二人は、とても嬉しそうだ。
「じゃあ、お二人も稲城先生にスカウトされたんですか?」
「ああ。こう見えても俺の厳正なる審査を通過した、選ばれし部員たちなんだよ」
その稲城先生が、例によって面白そうな顔で教えてくれる。
「年明けに、鈴は体育館でパンツ見せながらロンダートしてるのを見て、マリーは屋上でジャンプしてる姿が偶然目に入って、つい誘っちまったんだ」
「ムッシュ。こう見えて、とか、つい、っていうのはあんまりです」
「そうよ。それにあたしだって、好きでパンツ見せたわけじゃありません! たまたまスパッツ穿いてなかっただけです!」
みずからスカウトしたという部員たちが頬を膨らませるが、先生は意に介さず、しれっと答えている。
「俺だって、おまえのピンクのクマさんパンツを、好きで見たんじゃないっつーの」
「な、なんで柄まで覚えてるんですか!」
「だって、あのピンクのクマさんパンツ、なんかの映画のキャラクターだよな? 確かおまえのピンクのクマさんパンツには、キャラの名前も大きくプリント――」
「ピンクのクマさんパンツ、ピンクのクマさんパンツ、連呼しなくていいです! それ以上ピンクのクマさんパンツって言ったら、セクハラで校長室に訴えますよ!」
「勘弁してくれ。そもそも体育教官室の窓の前、つまり俺の机から真正面に見える位置で、ピンクのクマさんパンツアピールするみたいに、制服姿のままロンダートするおまえが悪いんだぞ」
「だから、ピンクのクマさんパンツ言うなっ! アピールもしてないし! ていうか、あたしのパンツの柄なんて細かく覚えてなくていいです! 今すぐ記憶から消してください!」
「ピンクのクマさんパンツの記憶を?」
「……わ、わざと言ってるでしょう!?」
なんと声をかけていいかわからず夕陽があ然としていると、いたずらっぽい声でマリーに説明された。
「ユウヒさん、気にしないでくださいね。セン・ド・メナージュみたいなものですから」
「おいマリー。それ、夫婦喧嘩って意味だって、普通の日本人はわからないぞ」
「そうよ。また変な日本語――って、誰が夫婦喧嘩よ!? あ、あたしは別に……」
さすがに稲城先生は軽く受け流すが、鈴の方は耳まで真っ赤になっている。じつにわかりやすい。
そんな教え子を放置したまま、先生があらためてバーベルシャフトを手で示した。
「村中。何はともあれ、だまされたと思って一度、上げてみるといい」
続けて、もうひとこと。
「きっと、行けるよ」
「え?」
聞き間違いではなかった。今日、何度も聞かされた言葉とともに、稲城先生が変わらない笑みを向けてくる。
「全国大会とか新しい自分の可能性とか、いろんなところに、な」
まただ。またこの人は、当然のように「行ける」と言ってくれる。地区大会でも県大会でもなく、さらに先の日本一を目指せる大会に。ウエイトリフティングという競技なら、夕陽もその場所に。きっと「行ける」のだと。
「私――」
つぶやいた先の言葉を、夕陽は用意していなかった。「私も」なのか。「私でも」なのか。それとも「私みたいなのでも」か。
団体メンバーにすら残れなかった、ちょっと身体のコントロールが上手なだけの体操選手。これまで筋トレはおろかバーベルにだって触れたことのない、しかも二年生。
そんなあたしが――。
「行けるんですか?」
「ああ。確かめてみるといい。自分の可能性を」
落ち着きを取り戻した鈴と、マリーの声が弾む。
「そうだよ、夕陽ちゃん。きっと自分でびっくりするよ!」
「私もムッシュに言われて、ダマサレタと思ってやってみたら驚いたんですよ!」
我がことのように嬉しそうな二人の美少女。彼女たちを笑顔で見守る、ちょっととぼけた先生。
楽しそうだ。「部活」って感じがする。ここにはきっと、いや絶対、キャリア組とかノンキャリア組とか、ぴりぴりした緊張感とかプレッシャーとかはないだろう。
自然と浮かんだ笑顔とともに、夕陽は頷いていた。
「わかりました。やってみます」