第一章 スタートポジション 5
頷き合った鈴とマリーが、それぞれ最初に乗っていた正方形の板――プラットフォームに、ぺこりと一礼してから駆け上がった。よく見ると鏡張りになっている壁の前には、銀色に輝くバーベルシャフトと、綺麗に並べられた重量プレートも置いてある。
「マリー、シャフトだけでいいよね?」
「ウイ。デモンストラシオンですから。それにプレートをつけていると、ユウヒさんをお待たせしてしまいます」
「そうね。じゃ、夕陽ちゃん、まずはあたしからいくね」
言いながら鈴は、中央に転がしてきたバーベルシャフトに向かって屈み込んだ。
「え? あの……」
まさか。
そう思う間もないほどだった。
彼女が「スカート、邪魔だなあ。ハングからにしよっと」などとつぶやきつつ、胸を張ってシャフトを引き上げた直後――。
「よっ!」
「!?」
光が走った。
一秒にも満たない、コンマ数秒のことだったろう。銀色に磨き上げられたシャフトが、あっという間に頭上で掲げられている。
「これがスナッチ。あたしは、こっちの方が得意なんだ」
鈴がにっこりと笑ってみせる。相変わらずチャーミングな笑顔だが、自分の身長よりも大きなシャフトを掲げて仁王立ちした格好なので、今回ばかりは「可愛い」という台詞も夕陽の口から出てこない。代わりに漏れたのは、見たままの率直な感想だった。
「は、速いんですね……」
今のが「スナッチ」というウエイトリフティング動作だというのは理解できたが、正直これほどスピーディな動きだとは思ってもみなかった。バーベルシャフトの軌道すら目で追えない動作は、「素早い」とか「キレがある」ではなく、まさに「速い」という印象そのものだ。
「シャフトだけっていうのもあるけどな。でもそこに目が行くなんて、やっぱり村中はウエイトに向いてるよ」
稲城先生が笑うと、もう片方のプラットフォームからも、マリーの楽しそうな声が聞こえてきた。
「ユウヒさん、今度は私の番です。クリーン&ジャークでいきますね。ルガルデ・モア、シルブプレ!」
直後に見せられた光景は、ほぼ同じだった。きらりと光るバーベルシャフトと、どうやったのかわからないほどの速い動き。ただしマリーの方は輝きが二度あった。一度目の光でシャフトは一瞬にして肩口へと担ぎ上げられ、二度目の光が走った瞬間、鈴と同様に頭上へ。また、高々と掲げる姿勢も鈴が仁王立ちだったのに対して、こちらは脚を前後に広げた、いかにも重量挙げっぽいスタイルだ。
「これがクリーン&ジャークです。もう一回、お見せしますね」
微笑んだマリーが、素早く降ろしたシャフトを今とまったく同じ軌道で二度、きらめかせる。一連の動作は正確な再現ビデオを見せられているようで、前後に開いた脚が今度は左右逆になっているのにも、しばらく気づかなかったほどだ。
「精密機械みたい……」
「メルシーボークー。でもシャフトだけですし、これくらいオートマティクに扱えないと」
「スナッチとクリーン&ジャーク。この二種目を三回ずつ試技して、それぞれの一番いい記録を合計した重量を競うの」
「どちらかが三回とも失敗すれば、残念ながらシッカクです」
楽しそうにルールを教えてくれる二人の美少女だが、それがウエイトリフティング競技というところがやはり普通ではない。
「しゃ、シャフトだけだと軽いんですか?」
気を取り直すつもりで、とりあえず夕陽は尋ねてみた。バーベルシャフトはどう見ても鉄製で、しかも二メートルくらいの長さがあるが、持ってみると意外に軽かったりするのだろうか。
「うん。これは女子用だし」
「ウイ。十五キロしかありません」
「十五キロ!?」
ぎょっとした声が出た。
「全然、軽くないじゃないですか!」
この棒だけで大型ペットボトル十本、五キロのお米だと三袋、人間にすれば赤ちゃん五人……と、重そうな物体が脳内に次々と連想される。それで女子用とは。しかもあろうことか、「十五キロ《《しか》》」などと言いながらおもちゃのように軽々と扱ってみせたのは、絵に描いたような美少女コンビである。
「夕陽ちゃんもやってみる?」
「え?」
「ボン・ニデ! シルブプレ」
目と口を丸くしたままでいると、近寄ってきた二人にするりと片手ずつを取られてしまう。そのまま引っ張られた夕陽は、数秒後には、鈴が『スナッチ』とやらを行ったシャフトの前に立っていた。
「初めてだしグリップは普通でいいかな。あたしたちもそうだったし」
「ウイウイ。フックにしなくてもOKですね」
「え? え?」
「はい、どうぞ。持ってみて」
「シルブプレ」
「ええっ!?」
助けを求めるように稲城先生を見たが、彼もまた「大丈夫だ。意外に軽いはずだから、やってみるといい」などと、まるで信用できない言葉で勧めてくる。
「いえ、あの……」
「安心して。そうそう簡単に、壊れるものじゃないし」
「ウイ。世界中で有名なハヤサカのバーベルですから。オランピックでもサイヨウされてるんですよ」
いや、そういう心配をしているわけじゃないんですが。
だが鈴とマリー、そして稲城先生はどこまでも楽しそうだ。三人の表情を見て、ふと一つの想いが夕陽の脳裏をよぎった。そういえば、となぜか場違いな疑問が浮かぶ。
部活でこんな風に笑ったこと、あたし、あったっけ?
疑問が言葉になるより早く、両手が勝手にシャフトへと伸びていた。
まるで、三つの笑顔に引っ張られるように。