第一章 スタートポジション 4
「体操選手やダンサーは、この全部を兼ね備えている人が多いんだ。種目の特性を考えれば、当然だけどな」
面白そうに稲城先生が解説を再開する。
「はあ」
それって、つまり……。
「村中もそうだ」
やっぱり。
確かに体操や新体操、フィギュアスケートといった「見せる」種目は、そうした体力要素がまんべんなく要求される。高いジャンプはもちろん、大きく脚を広げたり、さらには空中も含めた三百六十度の空間で、自在に身体をコントロールする必要があるからだ。だが本人にどれも普通の感覚なので、いちいち詳細に分析するようなことはない。
ましてや、自分がウエイトリフティングに向いているという自覚のある女子体操部員なんて、日本中探してもいないだろう。
しかし専門家(のはずだ)たる稲城先生から見れば、夕陽はその「ウエイトリフティングに向いている」身体らしい。彼の授業を受けたことはないので、おそらくは体操部の練習風景を見て目をつけていたのかもしれない。
「俺の見たところ、村中は特にコーディネーション能力に優れてる感じだな」
「いいなあ!」
「セ・トレ・ザンポルタント! ウエイトリフターには、とてもタイセツな能力ですね」
鈴とマリーの声も、お世辞抜きに羨ましそうだ。
「あ、ありがとうございます」
種目が微妙なところではあるが、なんにせよ運動能力を褒められるのは、アスリートとしてやはり嬉しい。
照れ隠しにマグカップを口にした夕陽は、意外な事実にも驚かされた。
あ!
稲城先生の出してくれたコーヒーは、下手なカフェよりもよっぽど美味しかった。てっきりインスタントだとばかり思ったが、本格的にドリップしたものらしく、コクのある苦味とほのかな酸味が見事なバランスで調和している。正直、もろに好みの味である。
コーヒーが背中を押してくれたわけでもないが、夕陽は思い切って質問してみることにした。
「あの、稲城先生」
「ん?」
「じゃあ、なんで」
「?」
「なんでそういう恵まれた身体能力があるのに、私、体操部でメンバーに入れなかったんでしょう」
「ああ、そこか」
「はい」
「俺が見たところ――」
夕陽は軽く手を握った。初めて話したばかりだけど、ちょっととぼけた、でも親しみやすいこの先生からなら、どんな欠点を挙げられても素直に聞ける気がする。
だが。
「わからん」
返ってきたのは、なんともあっさりした答えだった。
「は?」
「さすがに、そこまではわからないよ。俺は高校大学とウエイト部だったし、体操競技なんてまったくの専門外だからなあ」
「…………」
ぽかんとなったが、よく考えれば正論中の正論だ。ウエイトリフティング部の顧問が体操選手の良し悪しなんて、わかるはずがない。
「すまないな。なんせ、体操は素人だから」
身も蓋もない台詞だが、もう一度申し訳なさそうに言う顔を見て、夕陽は逆に笑ってしまった。
「そうですよね。こちらこそ、すみません」
軽く頭を下げた瞬間、「ただ――」と続ける声が聞こえた。
「ただ、あくまでも個人的な感想なんだが」
稲城先生はそこで、夕陽の視線を真っ直ぐに捉えてきた。黒々とした瞳にいつの間にか、優しさと厳しさが同居したような指導者らしい光をたたえている。
「村中が体操してる姿を見て、俺は〝美しすぎる〟っていつも思ってたんだ」
「ウツクシスギル?」
マリーがきょとんとする。
「美しい、綺麗が行き過ぎてるって意味よ」
「ああ。ウツクシイが過ぎるんですね。メルシー。でも、それはいいことなのでは?」
「そのはずだけど……」
説明する鈴と顔を見合わせる姿に小さく笑ってから、先生がふたたび夕陽を見る。
「さっき言ったように村中は、コーディネーション能力に優れるタイプのアスリートだ。だから動きの一つ一つが、素人の俺から見てもとても美しかった。体操っていうより、ダンスみたいに思える瞬間もあったほどだ。自分でも、そこは心がけていたようだけど」
「あ、はい」
指摘の通りだった。夕陽は少女時代に地元の教室で教わった「美しい体操」というのを常に自分のテーマにしていたし、こだわりも持っていた。ただ単に跳んで、宙返りして、足を上げてではなく、姿勢はもちろん爪先から指の先まで、ぴしっと神経が行き届いた演技。簡単な動作でも審判員が思わず目を奪われてしまうような、細やかな手足の表情。門外漢の稲城先生にまでそれが伝わっていたのは、ちょっぴり誇らしい。
でも――。
「でもな」
こちらの気持ちを読んだかのように、稲城先生は眉を下げてつけ加えた。
「それだけっていう風にも感じたんだ。いや、あくまでも素人の感想として、な」
「それだけ?」
「クワ?」
鈴とマリーが首を傾げる。だが夕陽だけは、目を見開いていた。
「美しいんだけどサプライズがない、って言うのかな。俺みたいな素人からすれば、せっかく体操をやってるんだからもっとこう、凄い高さの宙返りだったり、今どうやった? って聞きたくなるような捻り技とかを、見せて欲しいってやっぱり思うんだよ。まあ観客の勝手な言い草なんだが」
「なるほど」
「ウイウイ」
「でも村中は、あんまりそういうのにトライしてなかった気がする。たまに難しそうなことをやると、問題なくできるのに。捻って、回って、ぴたっと着地も決まる。でも本人は納得いかないみたいで、ちょっと地味な技にすぐ切り替えちまうんだ」
「…………」
図星だった。難度の高い捻り技や離れ技も、やろうと思えば夕陽はできた。だが、ただ「できる」だけなのが嫌だった。捻ること、回ることに集中するあまり爪先が伸び切らなかったり、手の表情が雑になって「美しい体操」でなくなってしまうのならば、難度を下げてでもそちらを取ろうとするのが、村中夕陽という体操選手だった。これは顧問の先生にも度々指摘されていたものの、最後まで譲ることもまたできなかった。メンバーに入れなかった一因は、間違いなくそこだろう。
複雑な想いが甦りかけた意識を引き戻してくれたのは、一転してからりと明るくなった声である。
「嫌いじゃなかったけどな。村中のそういう演技や、こだわりを持ってるところ」
「え?」
「美しすぎる動き、大いに結構じゃないか。指先にまで神経を配れるアスリートなんて、そうそう多くいるもんじゃないよ。トレーナーさんの間じゃ、〝正しい動作は美しい〟なんて格言すらあるそうだ」
鈴とマリーも大きく頷いている。
「いいなあ。あたしも綺麗な動作でクリーンしたいな。不器用なのはやっぱりだめよね」
「鈴はキャッチを覚えるのがタイヘンでしたよね。でも私も、ユウヒさんのトレ・ベルな動きを見てみたいです」
「マリーと、どっちが綺麗かしらね」
「ノンノン。動きジタイは鈴の方が近いのでは?」
「あ、あの……」
こんな風に言われたのは初めてだった。自分を評する「美しい」や「綺麗」という言葉には「美しいけど、難度が低い」、「綺麗だけど、ただそれだけ」という注釈が必ずついて回っていた。少なくともアスリートとしての夕陽にとって、「美しい」というのは決して褒め言葉ではなく、直後のダメ出しを導くまくら言葉のようなものだった。
「どうした、村中? もっと喜んでいいんだぞ?」
「動きが綺麗って言われたのが、そんなに珍しいの?」
「でもムッシュ稲城が言うくらいですから、ユウヒさんのウツクシスギル動きは、本当にウツクシスギルんでしょうね」
ぽかんとする自分の顔を覗き込みながら、ついさっきまで縁もゆかりもなかった美少女たちと体育教師が、楽しそうに笑っている。
こんなことも、今までなかった。
体操部の中では「その他大勢」でしかない、ちょっと動きが綺麗なだけの二年生部員。それが夕陽の立場だった。こんな風に興味を持ってくれて、コンプレックスにすらなっていたこだわりを逆に長所だと認めてくれて、しかもそれを「見てみたい」とまで言ってくれて。
こんな人たち、いなかった。
「ありがとう。なんか、その、とっても嬉しいです」
温かい胸の内がこぼれるままに、ふわりと笑みが浮かぶ。
「あ、夕陽ちゃん、今の笑顔、凄く可愛い!」
「ウイウイ。トレ・シャルマンテです、ユウヒさん!」
いつの間にか鈴もマリーも名前で呼んでくれているが、むしろそれも心地いい。
すると鈴が自分も嬉しそうに、けれども意味のわからないことを言い出した。
「夕陽ちゃんが可愛いから、お礼にあたしのスナッチ、見せてあげるね」
「へ?」
「ボン! では、私はクリーン&ジャークをお見せします」
マリーまで、ぱちんと手を叩いて同意している。
「ええっと……」
お礼に……何?