第一章 スタートポジション 3
「は?」
全国大会?
「行ってみたくないか? 全国」
鈴とマリーも、当たり前のように誘ってくる。
「一緒に行こうよ、全国」
「アレ、アンサンブル。シルブプレ」
「いや、あの……」
一緒に買い物に行こう、というのとはわけが違う。部活動の全国大会である。しかも夕陽はほんの十五分前まで、その予選メンバーにすら入れなかったのだ。にもかかわらず、女子ウエイトリフティング部とかいう目の前の三人は、なんでもないことのように口にしている。
「全国って……インターハイですか?」
あっけに取られたままかろうじて確認すると、稲城先生が笑って手を振った。
「今年のインハイは、ちょっと間に合わないから来年だな。けど、秋の終わりにあるレディースカップや年明けの全日本ジュニア、春休みに開かれる全国高校選抜なんかも立派な全国大会だ。出場するにはどれも、他の公式大会で参加標準記録を突破すればいい」
野球の甲子園などと違って、ウエイトリフティングはずいぶんシンプルな道のりらしい。マイナー競技ならではというわけか。
「特に女子は、まだまだ競技人口が少ないからチャンスなんだ。部自体が全国に大体百校、登録選手数は三百ちょっとぐらいだったかな。まあ、それでもかなり増えた方だけど。いずれにせよ体操よりは、全国への道は近いはずだぞ」
「その全国大会に、私が?」
呆然と夕陽が自分を指差すと、両側からとても楽しそうに否定されてしまった。
「ううん」
「ノンノン」
「あたしたちが、よ」
「私たちはレキップ、チームになるのですから」
稲城先生も頷いている。
「鈴とマリーは階級が違うから、全員がバッティングすることもないだろう。団体戦もいけそうだな。ところで村中、身長はいくつだ?」
「え? 百五十ちょうどですけど……」
「じゃあ、四十五キロ級かな。あたしとおんなじだね」
「そうだな。鈴が百五十二だっけ。村中、体重の方は?」
「…………」
……いや、確かに四十五キロもないけど、軽いのは小柄な体操選手だからであって、こう見えても脱いだら意外に……って、それはどうでもいい。
「ちょっと、先生!」
「セ・ハルセルマン・セクシュエル!」
固まってしまった自分に代わって、鈴とマリーがすかさず抗議の声を上げてくれた。
「先生、あたしたちが女子高生ってこと、また忘れてるでしょ!」
「キョーイクイーンカイに、テレフォネしますよ!」
「あ! いや、その、悪い! 村中も、申し訳ない。この通り」
慌てて頭を下げる先生に対し、「まったくもう」、「確かにタイジュウを知っておくのは大事ですけど」などと言いながら、二人は唇をとがらせている。これではどちらが顧問だかわからない。セクハラ発言をされた夕陽の方が、思わず笑ってしまったほどだ。
「ほんと、楽しそう」
またしても自然とこぼれた台詞に、稲城先生は顔を上げながらぼやいてみせた。
「いやいや、こう見えて俺はかなり苦労してるんだぞ? 何が悲しくて十六の小娘二人に、尻に敷かれなきゃ――」
「先生!」
「ムッシュ!」
色が違う二組の瞳から、さらにレーザービームのような視線が飛ぶ。
「……ま、まあそんなわけでごめんな、村中。ウエイトは階級制の競技だから、つい」
「大丈夫です。お話の中で、なんとなく理解できましたから」
「そうか、ありがとう。いや、すまんすまん」
ふたたび首をすくめる彼の姿に、夕陽はまた笑ってしまった。
稲城先生と鈴、マリーが悪い人じゃないことはよくわかった。三人の仲が良くて、楽しそうな雰囲気の部だというのも。限られたメンバーの椅子をかけて「キャリア組」、「ノンキャリア組」などと分かれ、しかもその全員がライバルというような環境だった身からすれば、むしろ羨ましいくらいだ。こんな部活が同じ学校にあったのだ、とも思う。
けど。
「なんで、私なんですか?」
今度は無意識にではなくはっきりと、心に浮かんだままの疑問を口にする。
「私、ウエイトリフティングなんて見たこともやったこともないですし、そもそもバーベルだって、まともに触った経験ありませんけど」
「体操部は筋トレとかしないの?」
鈴が訊いてきた。
「ほとんどしません。腕や脚が太くなっちゃうと、それだけでマイナスですから」
「あー、なるほどなるほど」
ポニーテールを揺らして頷く愛らしい顔には、なぜか「やっぱりね」と書いてある。夕陽は口に出るタイプだが、鈴も思ったことがかなり表に現われる性格のようだ。
「何か変ですか?」
「あ、ううん。そうじゃないの。ごめんね」
体操選手としての取り組みを否定されたような気がして、思わず問い返したものの、チャーミングな表情で謝られ、またもや目を奪われてしまう。
可愛いは正義、ね。
声にならないよう注意しつつ苦笑したところで、隣からマリーが説明してくれた。
「鈴が思ったのはウエイトトレーニングへの、よくあるマランタンデュのことです」
「?」
「あ、パルドン。ええっと……」
「誤解、とか、勘違い、だな」
日本語が出てこないところを、今度は稲城先生がすかさずフォローする。三人の呼吸はぴったりだ。
「ああ、それです。メルシー、ムッシュ」
にっこりと微笑みながら、マリーは続けた。
「ヨノナカの人は、バーベルを担いでスクワットするだけで、脚が太くなるとカンチガイしています」
「筋トレイコール筋肉をつけるもの、っていう固定観念よね」
鈴も困った顔のまま笑っている。
「え? 違うんですか?」
まさにその通りで、夕陽にとって筋トレとは筋肉をつけるための行為である。だからこそ、さっきも言ったように腕や脚を太くしないよう控えてきたのだ。
「違っちゃいないけど、一面的な見方だな。筋トレ、すなわち筋肉に負荷をかけるレジスタンス・トレーニングは、何も身体をでかくするためだけのものじゃない。そもそも〝筋肉をつける〟なんて表現するけど、生理学的には新しい筋肉が増えてるわけじゃなくて、今持っている筋肉の組織、つまり筋線維が太くなることの方が主だと言われてるんだ」
意外な顔をしていると、稲城先生が慣れた調子で説明を始めてくれた。このあたりはさすが体育教師である。
「もちろん筋肉を大きくする――専門的には筋肥大っていうんだが、そのためのトレーニングをすることもできる。典型的なのはボディビルダーだ。でも、筋肉自体を大きくしなくても力やパワーの向上は図れるし、怪我の予防を目的に筋トレすることだって、全然ありなんだ。むしろアスリートは、そうした目的でのトレーニングが多いぐらいだよ」
「へえ」
「たとえばフィギュアスケーターやマラソン選手とかの、それこそ大きな筋肉は邪魔になるような競技の選手でも、トップレベルの人はしっかり筋トレしてるよ」
そうして彼が名前を挙げたのは、オリンピックでもメダルを取った有名な女子フィギュアスケーターだった。
「そうなんですか?」
「ああ。知り合いのトレーナーさんが彼女を指導してるんだけど、軽い重さのダンベルやバーベルを使って熱心に筋トレしてるらしい。もちろん筋肉を大きくするためじゃなくて、傷害予防や身体の土台づくりとしてだ」
ちょっと驚きだった。稲城先生が名前を挙げた選手は、少女時代からメディアに取り上げられている、国民的ヒロインのようなアスリートだからだ。あの愛らしい笑顔の裏で、こっそり(?)バーベルを担いだりしていたとは。
「先生、クイックリフトは?」
「あ! 私もそれ、キョウミがあります!」
顧問の解説をにこにこしながら聞いていた鈴とマリーも、食いついてきた。
「やっぱり気になるか」
稲城先生は面白そうに微笑んだ。
「バリバリやってるらしいぞ。最初はスクワットだって苦手なくらいだったのに、今じゃ綺麗なスプリット・ジャークするそうだ」
「凄い!」
「トレ・ビアン!」
「クリーンもスナッチも一通りできるし、キャッチの上手さなんて、なかなかのもんだって、トレーナーさんが言ってたよ」
「本物ね」
「さすが、オランピックのメダイエですね」
マリーのフランス語はさておき、聞き慣れない単語を連発しながら三人は盛り上がっている。疎外感を感じるほどではないが、「スクワット」くらいしかわからない夕陽がぽかんとしていると、二人きりのウエイト部員は嬉々として先を争うように説明してくれた。
「クイックリフトっていうのは文字通り、素早くクイックにバーベルやダンベルを持ち上げるエクササイズのことを言うの」
「その中の『クリーン&ジャーク』と『スナッチ』っていう上げ方が、アクチュエルマン……ええっと、実際? に、ウエイトリフティング競技として行なわれてるわけです」
「だから筋トレで〝クイックリフト〟って言えば、ほぼ実質的にクリーンやスナッチ、つまりウエイトリフティングと同じ意味になるんだよ」
「でも、クイックリフトはテクニークを覚える必要がありますし、そのためのバーベルやプラットフォームも必要ですから――」
「プロのアスリートでもトレーニングに取り入れてる人は、日本ではまだまだ少ないの。本当は、やればとってもメリットがあるのに。あ、プラットフォームっていうのはバーベルを落っことしてもいい、ウエイトリフティング専用の床ね。ほら、そこのあたしたちが乗ってたやつ」
「鈴の言う通りです。クリーンやスナッチをするとピュイサンスやフレキシビリテ、コーディナシオンまで鍛えられて、トレ・ベルな身体にもなれるのに」
熱が入りすぎて、マリーの解説などは余計わかりにくくなっている。要するに、ウエイトリフティングは筋トレとして行なってもとても有用、ということのようだ。
「マリー、ほとんどフランス語になってるぞ。悪いな、村中。こいつらウエイトの話になると、急に鼻息が荒くなっちまうんだ」
「は、鼻息って! 先生、またセクハラ発言!」
苦笑とともにストップをかけた稲城先生は、鈴の抗議は聞こえないふりをしつつ、通訳してくれた。
「マリーが言ってたピュイサンスは英語にするとパワー、日本語だと瞬発力として知られる、一瞬で爆発的な力を発揮する能力のことだ。ウエイトリフティングはまさに、このパワーを競い合う競技になる。で、フレキシビリテはフレキシビリティ、コーディナシオンはコーディネーション。そのまんまだな」
「柔軟性と……コーディネーション、ですか?」
フレキシビリティは直訳すると「柔軟性」であり、これは日本語の方が馴染み深いが、もう一つの「コーディネーション」という単語は、スポーツの現場では片仮名のまま用いられる場合も多く夕陽も知っていた。あえて日本語にするなら「身体調整力」とでもなるだろうか。簡単に言えば、イメージ通りに身体をコントロールする能力のことである。
「てことは逆に、そうした体力要素に秀でていれば、ウエイトリフティングに向いてる身体の持ち主ってわけだ」
一息ついた稲城先生は、意味深な笑顔でこちらの全身に視線を走らせている。
「な、なんですか?」
それこそセクハラ発言ではないが、じっくり見つめられるとどうにも恥ずかしい。反射的に夕陽は、腕を交差して両肩を抱えそうになった。
すると、鈴とマリーまで同じような視線を向けてきた。しかもやたらと嬉しそうに。
「瞬発力と――」
「柔軟性ね。それに――」
「コーディナシオン!」
タイミングを計ったかのように、三人の口からまた同じ言葉が飛び出した。