第五章 キャッチ 4
「重量四十八キロ、ゼッケン七番、村中夕陽選手、小野原高校、二回目。次はゼッケン九番、江原選手です」
結局、江原選手は連続試技とならず、夕陽の二回目はあっという間に回ってきた。「よし、二回目も決めてこい!」と、一回目と同じく稲城先生に背中を叩いてもらい、小走りにプラットフォームへと向かう。
あれ?
壇上に片足をかけたところで、ふと夕陽は周囲の声援が大きくなったように感じた。
「いけるよユウヒちゃん!」
「小野高、ファイッ!」
「ユウヒちゃん、可愛い!」
「頑張って!」
気のせいではない。確かに一回目よりも沢山の声が、応援席のあちこちから聞こえてくる。しかもなぜか、競技と関係ないコメントまで含まれているような……。
夕陽たち自身は知らなかったがじつはウォームアップの時点で、チーム全体の楽しそうな雰囲気や、あの杉本亜由と仲がいいらしいという目撃情報により、小野校女子ウエイト部は注目を浴びる存在になっていたのである。
それに加えて、一回目の試技で夕陽が見事な挙上テクニックを見せたことにより、一気にファンができたらしい。栄学園の一年生、さきちゃんなどは既に亜由を見るときと同じような、ささやかな憧れの目になっているほどだ。
「ど、どーも」
予想だにしなかった大人気に、夕陽はついぺこりとお辞儀していた。それを見てふたたび、「超可愛い!」「妹にしたい!」などとアイドルのコンサートのような歓声が上がる。
「あたしでこれなら、鈴とマリーのときなんかどうなっちゃうんだろ……」
恥ずかしくてどこを見ていいかわからなず、目線が定まらないままに「お、お願いします!」と、いつの間にかプラットフォームに乗っていた。タンマグをまぶした手で思わず顔を叩いてしまったが、頬が白くなったことにも気づかない。
集中力が、完全に切れていた。
「先生、あれ……」
見守る鈴が心配そうに稲城先生の顔を見たが、先生もあっさりと「うん。ダメだな、ありゃ」と苦笑して頭に手をやっている。
「夕陽、ル・タン!」
「え? あっ!?」
マリーの声で、夕陽は制限時間の三十秒が残りわずかなのだとようやく把握した。
いつものように目を閉じることもなく、あたふたと無造作にバーベルを握ろうとしたとき。
応援席の最前列に視線が行った。行ってしまった。
「あ……」
厳しく注がれる四つの視線。ステージ上にエネルギーを送ろうとしてくれる周囲とは、明らかに異質の空気をまとった二人。自分たちの敵とも言える副校長と保護者会長だ。
圧力に負けたというわけではないが、夕陽は思わず目を逸らしてしまった。連想ゲームのように、頭から追い出せていた事実が思い出される。
そうだ。あたしがミスったら、稲城先生が……。
トータル百五キロという目標は、レディースカップの参加標準記録ぎりぎりの数字だ。ということは、やはりスナッチで目標通り四十八キロを成功させておきたい。
ここか次で四十八キロ、上げられなかったら……。
当然ながら、その場合はクリーン&ジャークであらためて勝負を賭けるしかない。スナッチの持ち記録は四十六キロという結果になるから、あちらでは五十九キロ以上を上げる必要が出てくる。だが、クリーン&ジャーク五十九キロというのは練習での自己ベストと同等の記録だし、今に至っても成功するのは三回に一回くらいだ。大きすぎるプレッシャーがかかるのは間違いない。そして万が一、クリーン&ジャークでも目標重量を失敗したら――。
先生が職員会議で追求されちゃう! ウエイト部から追い出されちゃう!
あの日、稲城先生がおばさんコンビに呼び出された日、たった一日だけでも自分たちがいかに先生を頼りにしているか、信頼しているかがよくわかった。今日だってそうだ。平気で自分たちに頭を下げて、でも一人一人に声をかけて、力をくれて、落ち着かせて、一緒になってウエイトを楽しんでくれている。
元オリンピック候補だとかナショナルチームのコーチだとか、そういう以前に先生は、ううん、先生もウエイトが大好きなんだ。飄々としてて、すっとぼけてて、たまにセクハラ発言までしちゃう人だけど。鈴の気持ちに気づいてるのか、いないのかもわかんないけど。
でも。
あたしたちの顧問は稲城先生しかいない。稲城先生じゃなきゃ嫌だ。
鈴とマリーと一緒に練習して、それを先生が見守ってくれて、たまにトモシンも来てくれて。試合会場で亜由ちゃんと会って。こんな楽しい毎日を、壊したくない。
でも、あたしがミスったら……。
ほんの一、二秒の間に頭の中がぐるぐる回る。しかし中心にあるのは、自分がミスしたら、というなんともネガティブな思考だった。
もはやわけがわからないまま、夕陽はバーベルを引き上げていた。
「あちゃあ。体操選手に逆戻りだな」
稲城先生がつぶやいた通り、それは床を圧すのでもなんでもなく、ただ単に力任せにバーベルを持ち上げただけの、いかにも適当なフォームだった。
「あ、あれ?」
夕陽自身、途中でやっと気がついた。
あたし、なんでこんなヘンテコなフォームでファーストプルしてるの?
しかし、もう遅い。成功経験があるはずの四十八キロのバーベルが、この時点で異様に重く感じられた。おかしな流れを修正できず、身体そのものもおかしなフォームのままスナッチ動作に入ってしまう。もちろんいつもの気合など、欠片も出ない。
失敗したのも当然だった。
「あ」
ドスン、という音とともにあえなくバーベルは落下した。
キャッチの動作にすら入れない完全な失敗試技。こんな初歩的なミス、もうすることはないはずなのに。
「あたし……」
プラットフォーム上で、夕陽は呆然と立ち尽くすしかなかった。
「ドンマイ、夕陽ちゃん!」
「次いこう、次!」
一瞬の沈黙を経て、周囲から温かい声援が飛んでくる。そのお陰でなんとか我に返ることはできたが、ショックも遅れてやってきた。明らかな、しかも素人のような失敗試技。穴があったら入りたいくらい恥ずかしい。
「あ、ありがとうございました」
真っ赤な顔で礼を済ませ、逃げるようにステージを駆け降りる。三回目の重量申告も忘れていて、係員の方から「次も四十八でいいですか?」と声をかけられたほどだった。
心ここにあらずのままとりあえず頷き返した夕陽は、顔を上げられずにウエイティングエリアの裏、パーテーションの陰に逃げ込んだ。途中で「おい、夕陽?」という稲城先生の声が聞こえたような気もするが、彼の方をまともに見られるわけもない。
「あたし……」
両手が顔面を覆う。
恥ずかしさ。情けなさ。悔しさ。ふがいなさ。
苦しい気持ちが、さらに大きく押しよせてくる。胸が詰まったように感じて、鼻がツンとなって、喉がヒリヒリしてくる。
泣きたくない、と思ったがだめだった。
「あたし……何やってんだろ」
自分は所詮、バーベルを握ってたった四ヶ月弱の元体操選手に過ぎないのだ。それなのに、たまたま第一試技が上手くできただけで調子に乗っていた。せっかく稲城先生が素晴らしい技術を教えてくれたのに。鈴とマリーが沢山一緒に練習してくれたのに。
それに――。
「トモシン……」
大事なデビュー戦前に、好きな男の子とデートの約束をするなんて、浮ついてると言われても仕方がない。そうやってそばで支えてくれるトモシン本人や鈴、マリー、稲城先生に対して、心から申し訳なくてたまらなかった。このままでは自分がウエイト部を壊してしまう。楽しい日々、夢中になれる日々をみずからだめにしてしまう。
あたしは、彼らの応援に値する部員じゃない。
「ごめんね」
大切な人たちへの気持ちとともに、目からも熱いものがこぼれ出す。睫毛が濡れる。喉の奥が、胸の奥が、どんどんどんどん痛くなる。
遠くからドスンという音と、「あ~っ」という残念そうな声が聞こえる気もするが、それよりも自分の情けなさばかりが心を満たしてゆく。
「ごめん……」
目だけを覗かせて、もう一度つぶやいたとき。
「大丈夫だよ」
「謝んないの!」
「パ・プロブレム!」
「なんだ? なんかやらかしたのか?」
謝った人たちの声が、天井から降ってきたように感じた。
「夕陽さん、三回目でいこう!」
「そうだよ!」
「ハンゲキですよ、夕陽!」
「いっそのこと、マジで五十キロに重量変更するか?」
真っ赤な目で見上げると、本当に彼らがそこにいた。狭いパーテーションの裏に顔を寄せ、まるで円陣を組むような格好で自分を見守ってくれている。
「みんな……どうして?」
「どうしても何も、俺はおまえの顧問でセコンドだろう」
「そしてあたしは、チームの主将」
「ウイウイ。ヌ・ソム・レキップです」
「俺は、えっと……」
「カレシですね」
「ま、まだ違います!」
否定するもののストレートな表現が出てしまい、トモシンが「あ!」という顔で真っ赤になる。
明るいやり取りのお陰か、いつしか夕陽も顔を上げることができていた。
「夕陽」
ごく自然に、稲城先生が視線を捉えてくる。
「おまえを信じろ」
あの指導者の目で。自信や心強さをくれる目で。
「言っただろ。信じるのは俺じゃなくていい。俺が信じるおまえたちだ。素晴らしいチームメイトたちだ。そういう全部を受け止めて、そういう全部と繋がって、プラットフォームに立つ自分自身を信じるんだ」
「先生……」
「大方おまえのことだから、俺たちに対して申し訳ないとか、恥ずかしいとか思って泣いてたんだろ」
「な、泣いてなんか!」
「おまえは、いや、おまえたちは強い」
言葉を切った彼は少しだけゆっくりと、けれども力強く告げた。
「きっと行けるさ」
「……あ」
きっと行ける。
四ヶ月弱前、トレ室の窓から身を乗り出したこの人から唐突にかけられた言葉。自分を今、ここにいさせてくれる言葉。夢中になれる毎日をふたたびくれた言葉。
――君なら、きっと行けるぞ――
どこへなのか、何がなのかもわからなかった。でも、先生の言葉に導かれるまま鈴とマリーに出会って、トモシンと仲良くなって、亜由とも知り合って。そうしてあっという間に、ウエイトリフティングという競技を大好きになれた。
ああ、と夕陽はあらためて自覚した。
自分はもう、ちょっと動きが綺麗なだけの元体操選手じゃない。あれ以上夢中になれるものなんてないと思っていた、後ろ向きな女の子じゃない。
あたしはウエイトリフターだ。稲城先生の教え子で、鈴とマリーのチームメイトで、トモシンの選手なんだ。だから――。
――きっと行ける。
大切な言葉を抱え込むようにして、胸にそっと手を添える。はっきりと熱を感じる。
「あたし、行けるんだ」
きっと全国へ。きっと次の試技が。きっとウエイトを、素敵な仲間たちを、もっともっと大好きになれる未来へ。きっと。きっと。きっと。
「先生。鈴。マリー。トモシン」
顔を上げた夕陽は、見守ってくれる仲間たちに大きく頷いてみせた。
「あたし、行きます!」
競技委員の下へと駆け寄り、意志のこもった瞳と声で伝える。
「すみません! 重量変更、まだ間に合いますか?」




