第五章 キャッチ 2
「予定通り、三十分後の十時より競技を開始します。出場選手の方は時間までにプラットフォーム横、ウエイティングエリアにお集まりください。なお、ウォームアップは隣の大アリーナ内指定エリア、並びにウエイティングエリア脇でも可能ですが、ウエイティングエリア脇は試技が先になる選手を優先してください」
開会式も無事終わり、アナウンスが流れた。
「マリー、夕陽、行こう! ウエイティングエリアでもアップできるって!」
「ウイ!」
「うん!」
声をかけ合って、夕陽たち三人はウォームアップエリアへと急いだ。稲城先生とトモシンも続く。
小走りに動き始めた直後。
応援席の最前列に、夕陽は意外な顔を見つけた。いや、見つけてしまったと言うべきか。
「なんで!?」
思わず言葉が出る。同時に、仲間たちも足を止めていた。
「こりゃどうも。お二人も応援に来てくださったんですか」
それでも稲城先生は、さすがに冷静だった。飄々とかける声の先には、軽装ばかりの応援席の中、場違いなスーツ姿のおばさんコンビが対照的な身体を並べて座っている。
「あなたたちが本当に全国レベルか、確認しにきたんです!」
「そうです! あれだけのことを言ったんだから、覚悟はできてるんでしょうね!」
言うまでもなく、副校長と保護者会長である。トモシンと「裏・稲城先生」に見事にやっつけられたのを、相当根に持っていたらしい。
「レディースカップとやらの参加記録、クリアできなかったら責任を取ってもらいますからね!」
「はあ。で、責任とは?」
保護者会長のたるんだ腹部に遠慮なく視線をぶつけながら、稲城先生はのんびり答えている。
こんな人たちなんて放っといて、早くアップしたいのに……。
夕陽が顔をしかめたとき、副校長がびしりと人差し指を突きつけてきた。前にも感じたが、この失礼な仕種が決めポーズになっているようだ。
「女子ウエイトリフティング部は、確かに部活としてはアリかもしれません。ですが、顧問のあなたがそれに相応しいかどうかを、あらためて職員会議で諮らせてもらいます」
「はあ!?」
抗議の声を上げたのは、先生本人ではなく鈴だった。
「何、わけのわかんないこと言ってんですか! 先生がウエイト指導者として凄い人だって、この前わかったでしょう? 今さら意味不明のいちゃもんつけてんじゃないわよ!」
「ふん、顧問も顧問なら、部員も部員ね」
わざとらしく眼鏡のフレームを押し上げて、副校長が不快そうに鼻にしわを寄せる。基本的に、相手が逆らってくる状況に慣れていないのだろう。
「指導員としての実績はわかりましたけど、あなたの失礼な言動の数々は、やはり容認できません。部活動は心身の健やかな成長の一助となるとかなんとか、ご自分で言ってましたよね? あんな不良みたいな言動で、か弱い女性を恫喝する教師が、その部活動において顧問を務めていいわけがありません」
「どこが、か弱いんだか」
「日本語がオオマチガイしてますね」
呆れ顔を見合わせる夕陽とマリーをじろりと睨んでから、副校長はヒステリックな声で告げてきた。
「宣言するだけの結果も残せないようなら、ウエイトリフティング部の顧問を交代してもらいます!」
「悪いな。なんか面倒くさい事態になって」
パーテーションで仕切られたウォームアップエリアに入るなり、稲城先生がぺこりと全員に頭を下げてきた。苦笑しながらではあるが、目にはあの指導者らしい光と、何より夕陽たちを気遣う色があった。
「そんな! 先生、やめてください!」
「ノン、ムッシュ! シルブプレ!」
「そうですよ! あたしもマリーも夕陽も、ちゃんと記録を出してみせますから!」
トモシンまで「大丈夫です。俺も目一杯サポートしますから」と力強く重ねる。
「ありがとう。まあ、試合自体に関しては心配してないんだけどな」
そう言ってもう一度微笑むと、先生は教え子たちの顔をぐるりと見渡した。自然と五人、円陣の形になる。
「俺はおまえらを信じてる。やっと見つけてスカウトできた大事な三人と、誰よりも勉強熱心で信頼できる学生トレーナーなんだ。正直、これほどのチームはそうそうないよ」
うわ、なんか監督っぽい。
思った途端に夕陽は「おいおい、本当に監督だっつーの」と、すかさずつっこまれてしまった。毎度ながら、勝手に口がつぶやいていたようだ。
優しさと厳しさが同居する目が、あらためて夕陽たちの視線を捉えていく。
「鈴」
「は、はい!」
「おまえなら表彰台だってじゅうぶん狙える。頼むぞ、キャプテン」
「はいっ!」
「マリー」
「ウイ、ムッシュ!」
「四十九キロ級の出場者は四人だけだ。その中でおまえが一番強い。これはお世辞でもなんでもなく、指導者として感じてることだ。一番いい色のメダル、取っちまおう」
「アンタンデュ! メルシーボークー!」
「夕陽」
「はい!」
続くであろう台詞が、夕陽にはなぜかはっきりとわかった。あのときのこと、トレ室の窓から声をかけてもらったときの場面を鮮明に思い出す。ご馳走してもらった温泉饅頭とアイスコーヒーの味まで甦ってくる。
そして。
夢中になれるものをもう一度自分にくれた人は、同じ笑顔で言った。
「君なら、きっと行ける」
「はい! よろしくお願いします!」
自分もまったく同じ答えを返して、夕陽は大きく頷いた。
ウォームアップも無事終わり、あとは試技の開始を待つばかりとなったところで、今さらながら夕陽は緊張してきた。
今回は採点制競技会のようなテストではなく、他校の選手と争う本物の試合だ。当たり前だが、扱う重量も比べものにならない。自分の目標はレディースカップ高校の部・四十五キロ級の参加標準記録である、トータル百五キロ以上を突破すること。そのため二回目の時点で、得意のスナッチを四十八キロ、クリーン&ジャークは五十七キロに予定している。いずれも練習では成功と失敗が半々ずつくらいの数字だが、稲城先生の件もあるので今日はなんとしても成功させたい。
「先生、ちょっとトイレに行ってきます」
「ああ。開始には遅れないようにな」
稲城先生に断ってから、夕陽はいったん仲間たちから離れた。正直、そこまで行きたかったわけではないが、どこかで一度気分を落ち着けたいと思ったのである。
トイレはアリーナからやや歩いた、出入り口近くのロビーにあった。今はあまり人もいないようだ。
結局用を済ませて出てきたが、手が少し震えている。
「やば、緊張するなあ」
ひとりごちたところで、落ち着いた声が耳に届いた。
「大丈夫だよ、夕陽さんなら」
「トモシン!」
「鈴さんとマリーさんは、もうスタンバイしてる。二人とも、自分たちはいいから緊張してるっぽい夕陽さんを見てきてあげて、だって」
どうしてこんなところまで? という表情を読み取ったのか、近寄ってきたトモシンが穏やかに微笑みながら伝えてくる。
「あ、ありがと」
いつも彼はそうだ。昼連のときも、トレ室で会うときも。こちらが何か言わなくてもすぐに気持ちを察して、優しく先回りしてくれて。
トイレのあとだけど、変な顔になってないよね……。
別の緊張を覚えながら、夕陽は頑張って彼の目を見つめ返した。うなじのあたりがなんだか熱いし、ひょっとしたら実際に赤くなっているかもしれない。ロビーに人気が少なくて良かった。
それでも、いつかのように勇気を出して、わざとらしく頬を膨らませてみせる。
「どうしたの?」
けれどもトモシンは、わけがわからないのかきょとんとしている。こういうときは鈍感なんだから、と言葉にせずつぶやいてから、夕陽はさらに上目遣いにもなって不満をアピールした。
せめて、鈴やマリーの半分ぐらいは可愛く見えますように。
願いながら、まだ気づいてくれない彼に説明する。
「コーチにつくなんて、今朝はひとことも言わなかったじゃん」
「ああ」
そのことか、という風に眉が上がったので、ようやく理解してもらえたようだ。
「ごめん。当日だし、どうせアリーナで会えると思ったから」
「それにしたって、びっくりしたよ」
「やっぱり迷惑だった?」
先ほどのミーティングのときよりも恥ずかしげに、トモシンが再度訊いてくる。頬がピンク色を帯びている感じも受けるが、自分ではあるまいし単なる陽焼けの痕か何かだろう。
「ううん、そんなことないけど」
夕陽が首を振ると、彼にしては珍しく歯切れの悪いリアクションが返ってきた。
「じゃあ……」
「うん?」
「ええっと、嬉しい、とか思ってくれたりは?」
「え!?」
思わず夕陽は目を見開いた。今、なんて?
「だから、あの、今日は俺がそばにいて嬉しい、とか思ってくれたりすると、こちらとしても嬉しいのでございますが……」
「…………。は、はい、嬉しゅうございます」
二人して時代劇のような会話になってしまった。いや、それどころじゃない。そばにいて嬉しい、と思ってもらえると自分も嬉しい?
てことは、トモシンもあたしのそばにいることが嬉しいわけで、つまり両方の気持ちが一致しているからこそで、要するに今の言葉は……。ていうか――。
「な、なんで試合前に告白してんのよ!?」
顔中が熱くなっての台詞は、告白の返事どころか見事なつっこみと化していた。
「あ、いや、だって夕陽さん、緊張してるから」
「緊張してるからって、こんなとこで告白しないでよ、もう! あたしだってほんとはいろいろ妄想、じゃなかった、シミュレーションしてたんだから! この大会で百五キロ上げたら水族館に誘って、深海魚のあたりでさり気なく手ぇ繋いで、帰りにいい雰囲気つくって自分から頑張って――」
ますますキレ気味なうえ、勝手に動きまくる唇が思いを次々と言葉にしてしまう。
「ご、ごめん! でもまだ正式に好きとか、つき合ってくれって言ってないから!」
トモシンもトモシンである。弁解にすらなっていない。
「言ってるも同然でしょうが!」
顔どころか指先まで赤く染まった気がして、拳を握ったり開いたりする夕陽だが、さっきまでそこにあった震えは、いつの間にか治まっていた。
「あ」
「どうしたの?」
「緊張、してないや」
「良かった! じゃあ本番、いけるね」
「!?」
ぼけっと持ち上げた両手が、嬉しそうな声とともに掴まれる。だが一瞬遅れてトモシンも気づいたらしく、「あ、ごめん!」とすぐにその感触は消えそうになった。
「だ、大丈夫!」
逃がさないとばかりに、今度は夕陽の方が手を取り返した。本当は凄く恥ずかしいし、首から上も熱いままだ。
ただ、もう緊張していないことだけは、はっきりと自覚できる。試合にも、この人がそばにいてくれる状況にも。
大きく息を吐いてから、夕陽はもう一度頬を丸くしてみせた。
「ほんとにもう。告白もどきも手を握るのも、全部フライングだよ」
「……ごめん」
「だから、お詫びを要求します」
「え?」
鈴だったらこういうシチュエーションで、「美味しいもの食べに連れてって!」とか言うのかな。マリーだったら「キスしてもらいます、シルトゥプレ」とか言えちゃうんだろうな。
なぜか親友たちの姿が頭に浮かび、つい笑ってしまった。
二人には負けるかもしれないけど、あたしだって一応、女の子なんだから。
よしっ、と心の中で言い聞かせて、いたずらっぽく希望を口にする。
「この大会であたしがトータル百五キロ以上の記録を残せたら、次の休みは一緒に水族館に行って、手を繋いで、どっかでいい雰囲気をつくること! 約束!」
予約済み(?)となったボーイフレンドが、「あ、うん! 喜んで!」と照れくさそうに承諾してくれたタイミングで、アナウンスが響いた。
「高校女子新人大会、まもなく試技スタートです。出場選手はウエイティングエリアに集合してください」
手を繋いだままではあるが、たがいにぱっと切り替わった表情で、夕陽はトモシンと大きく頷き合った。
「行こう、夕陽さん!」
「うん!」
さあ、いよいよだ。




