第三章 スクープ 4
「それでは全国高校総体女子の部・予選会、スナッチ競技を開始します。出場選手の皆さんは、コールに遅れないようスタンバイしてください」
場内アナウンスがかかり、ついに県予選がスタートした。スクリーンには引き続き全八選手名と記録が、ステージ上のアテンプトボードには試技者の名前と所属、階級、挙上重量と何回目の試技か、そしてコールからのカウントダウン秒数が表示されている。高校生の大会では基本的に、名前をコールされてから三十秒以内にバーベルを挙上しなければ、その試技は失敗とみなされてしまう。
「重量三十五キロ、ゼッケン五番、東間友香さん。四十五キロ級、港高校、一回目。次はゼッケン三番、柳原選手です」
「お願いします!」
最初の試技者が元気に挨拶して、滑り止めの炭酸マグネシウム、通称タンマグの粉を両手にまぶしながらステージに上がった。
「しっかり!」
「まず一本!」
応援席も含めて多数湧き起こる声援は、採点制競技会同様に他校からも送られているようだ。ほぼ全員が顔見知りということもあるし、何より真剣に取り組む者同士、連帯感が強いのだろう。同じく応援席に陣取った小野校も、鈴がさっそく「頑張って!」と元気な声を出した。
「やあっ!」
声援に応えるような短い気合とともに、プラットフォーム上では今大会最初となるスナッチ試技が見事に成功した。アテンプトボードに白ランプが三つ点り、「降ろして良し」を意味するダウンサインとして、ビーッというブザー音が響く。
「成功です」
アナウンスに拍手と歓声が重なり、試技者の選手は「ありがとうございました!」と、元気に頭を下げてステージを降りていった。同時に、重量変更係のどこかの男子部員が四名、まるで忍者のように素早く登壇して、あっという間にプレートをつけ替える。重量変更とタイミングを合わせるようにして、すぐ
に二人目のコール。
「重量三十七キロ、ゼッケン三番、柳原祥子さん。四十五キロ級、美浦学院、一回目。次はゼッケン四番、清水選手です」
ウエイトリフティングの試合は基本的に軽い重量からスタートするため、申告重量の重い選手、すなわち実力が上の選手ほど後半の登場になる。全国大会のように参加者が多い大会ではその中で階級ごと、もしくは二階級や三階級ごとにまとめて進行するが、全員合わせてもわずか八人のこの予選会では、すべての階級を一気に実施するようだ。
「それでも亜由さん、最後なんだ」
スクリーンを見た夕陽は、今さらながら亜由の名前を一番下に見つけた。。
亜由のスナッチ一回目である六十一キロという数字は、最重量階級のプラス七十六キロ級に自校の先輩がいるにもかかわらず、一回目全体で一番重い試技となっていた。当然、出番は最後である。まだウォームアップ中でもいいくらいだが、本人は既にウエイティングエリアの端に現われて、その身体の大きな先輩と談笑している。
「けど、さすがにトレ・ベルなフルボトム・スクワットですね」
「ほんと。上体もしっかり起きてて余裕があるね。足首も柔らかいんだろうなあ」
マリーと鈴が、彼女の姿勢を見て感嘆の声を漏らす。
先輩と会話する亜由は、大昔の不良よろしく深々としゃがみ込んでいるのだった。そのままバーベルを頭上に持たせれば、すぐにでも立派なスナッチが完成しそうなほどだ。
しかも、ただ単に美しいだけではない。
「無理がないっていうか、なんかあの格好が自然っていう感じだね」
頷いた夕陽も同様に感心してしまう。亜由の姿はまるで生まれたときからスクワットの格好で暮らしているかのように、やたらと馴染んで見えた。
「実際そうなんだろうな。変な話だけどあいつの家、いまだに和式トイレなんだよ。姉貴にはウォシュレットにしろって言ってるんだけどなあ」
「なるほど。あのジャポン式のトワレットだと、嫌でも毎日、フルスクワットすることになりますね」
姪のトイレ事情まで暴露する稲城先生だったが、マリーはますます感心している。日本にくるまでは未体験だったのだろう。
「それにあいつ、もとから身体自体も柔らかいんだ。ただでさえへらへらしてるし」
「へらへらっていうか、確かに物怖じはしなさそう」
「うん。いきなりバナナくれるぐらいだし……っと、ナイスファイッ!」
亜由について語り合う間に二人目、さらに三人目の選手も無事成功したので、夕陽は慌てて声援を送った。やはり一試技目はみんな、確実な重量で申告しているようだ。
「先生、一回目の試技はやっぱり、安全な重さの方がいいんですか?」
ステージ上の光景を見ながら、鈴が真剣な眼差しで尋ねる。
「基本的にはな。一回目で確実に記録を残して失格を避けつつ、二回目、三回目で相手の様子も見ながら勝負っていうのが、ベーシックな戦略だ」
「相手の様子?」
「ああ。明らかに実力が違う相手なら特に駆け引きはいらないけど、力が同じくらいの選手同士は、相手の挙上重量やその日の自分の調子をセコンドと相談しながら、二回目、三回目の重量を申告していくんだ。コールされたあとも、二回までなら重量を変更することはできる。例えば二回目の試技で、先に相手が五十キロを成功させたとする。最終的に相手より上の記録を残すためには、自分も二回目で五十キロ以上を上げるか、もしくは三回目で勝負を賭けるかという選択が生まれるから、そういう部分を見極めるんだ。逆に自分が先の場合は、あえて二回目から自己記録にトライして、これぐらいはできるんだぞ、っていう風にプレッシャーをかけることもある」
「へえ」
「ほら、栄学園もセコンドにネイがついて、アドバイスしてるだろ?」
「あ、ほんとだ」
二人の会話通り、ウエイティングエリアでは試技を終えたばかりの選手が芦田先生と何か言葉を交わしてから、係員に次の試技重量を申告するところだった。
「栄学園にはもう一人、関山先生っていうウエイト界じゃ有名な先生が顧問にいらっしゃるんだ。最近はネイにセコンドを任せてるけど、昔は代表チームのコーチとかもやってたほどの方だぞ」
「レキップ・ナショナルですか!? 凄いですねえ。でも、そういう先生とお知り合いということは、ムッシュも有名なコーチなのですね」
「そんなわけあるかっての。俺は普通の、至って善良な体育教員だよ」
「アー、ボン?」
苦笑するマリーの目は、「わたしの知っている、フツウとかゼンリョウという言葉の意味と、ちょっと違いますね」と言いたそうである。
ともあれ稲城先生にレクチャーを受けつつ、他校の選手にもこまめに声援を送る中、試技は順調に進んでいった。県大会ということでどれほどのレベルかと多少の不安があったが、数字の上では自分たちのベスト記録ならじゅうぶん勝負できそうだ。
「う~、これ見てるとあたしたちも試合に出たくなる」
「ウイ。早く皆さんに、小野校をオヒロメしたいですね」
「うん。思ってたより全然楽しそう」
三人の言葉を聞いた稲城先生が、にやりと振り返った。
「安心しろ。夏休みの最後に、この会場で一、二年生対象の新人戦がある。出場メンバーも今日とほとんど同じだし、これで雰囲気には慣れただろうからやりやすいはずだ」
「それに出ていいんですか!?」
「もちろん。せっかく採点制競技会に合格したんだ、試合は早い方がいいだろう?」
「やった! マリー、夕陽、頑張ろうね!」
「ビアンシュール!」
「うん!」
思わぬ朗報に揃って喜んでいると、タイミング良くアナウンスが入った。
「重量六十一キロ、ゼッケン一番、杉本亜由選手。四十五キロ級、栄学園、一回目。次はゼッケン二番、高野選手です」
その瞬間、会場の空気が少し変化したのが夕陽にもわかった。
いよいよ高校チャンピオン、杉本亜由の登場だ。しかものっけから四十五キロ級とは思えないほどの重量である。周囲からも「一回目で六十一って……」、「相変わらず上の階級みたいな重さね」と、苦笑混じりにざわつく声が聞こえてくる。
だが、当の亜由本人はけろりとした様子で、「はーい」と呑気な返事をしてウエイティングエリアを出ていった。十メートル以上先のその姿を見つめていた夕陽だが、彼女が両手のタンマグをぱんぱんとはたいたところで、無邪気な瞳と目が合った。
「あ、夕陽ちゃーん! あたしも頑張るねー!」
せっかくつけたタンマグが落ちてしまうのではないかという勢いで、ぶんぶん両手を振ってくる。直後に「んじゃ、お願いしまーす」と、ぴょこんと頭を下げた亜由は、弾むような足取りでプラットフォームに上がっていった。
「んじゃ、って……」
隣で鈴も苦笑しているが小野校の三人は数秒後、苦笑どころか、あ然とする羽目になった。
バーベルに近づいてふたたび一礼した亜由は無造作にシャフトを握ったかと思うと、「えいっ」という軽い声もろとも、さっさとそれをスナッチしてみせたのだ。
「え……?」
「クワ?」
「あれ?」
心の準備ができなかったのは、むしろ見ていた側である。
大部分のウエイトリフティング選手は、バーベルを握った時点で目を閉じたりバーベルを前後に転がしたりして間を取るので、観客もタイミングを計っての声援を送ることができる。しかし亜由はまったく違った。周囲の思惑など欠片も気にしない様子で、ろくな精神統一もなしにあっさりバーベルを掴み、あっさり上げてしまったのだった。まるで目の前に落ちている軽い何かを、ひょいと拾い上げるかのように。
「オッケーですかー?」
一瞬だが審判員まであっけに取られていたようで、バーベルを掲げたままの本人から逆に訊かれて、慌ててダウンのブザーを鳴らしたほどだ。
「よし、っと」
ドスン、と大きな音とともにバーベルが降ろされたことで、本当にそれが六十一キロものバーベルなのだという事実が、見ていた夕陽にもやっと実感できた。
「ありがとうございましたー」
ぺこりと頭を下げた亜由は、数秒前とまったく同じ軽快な足取りでステージを降りると、「じゃ、二回目は六十三でお願いしまーす」と、周囲にも丸聞こえの大きな声で次回申告をしてから、ウエイティングエリアへと戻っていった。
「何、今の……。しかも次は六十三って」
鈴が呆然とつぶやくのも無理はない。夕陽も、そして他校の選手たちも、まるで幻か何かを目にしたようにぽかんと口と目を開けたままになってしまう。
「夕陽ちゃーん、見てくれたー? あたしのスナッチ!」
会場中の時間を止めてしまった当人だけが、可愛らしくVサインなど作って、またもや夕陽に向かって大声を出している。
「亜由! 次もうちの選手なんだから、ちゃんと応援しなさい!」
見かねた芦田先生が、例によって保護者のように彼女を引っ張っていった。
その後、プラス七十五キロ級の先輩選手の試技を挟んで、亜由は二回目、三回目と連続試技となった。ラストに連続試技をするのは、自分以上の重量で試技を行う人間が他にいない、つまりそれだけ実力が抜けているからこそだ。
そして亜由は一回目同様に、さっさと登壇してさっさと上げるというスタイルのまま、三回目にはなんと六十四キロを挙上してみせ、我に返った応援席からこの日一番の大きな拍手を浴びることとなった。
「シュペール!」
「六十四って……あたしがほぼ、一・五人ぶんじゃない」
「亜由さん、本当に凄いんだ」
見慣れているらしい稲城先生だけは冷静で、「あいつはスナッチより、クリーン&ジャークが課題なんだ」などと言っているが、スクリーンに表示されるそのクリーン&ジャーク一回目も、七十三キロというやはりぶっちぎりの数字である。ひょっとしたら、ラストに三回連続試技ということになるかもしれない。
「一回目で七十三……ね」
鈴などは、もはや笑うしかないという表情だが、稲城先生はまたしても涼しい顔で続けた。
「でも全国で表彰台を狙うなら、鈴と夕陽だって七十近くまで上げたいところだぞ。階級が上で、しかもクリーン&ジャークの方が得意なマリーなんかは、むしろ確実に七十をオーバーしないとな」
「ウ、ウイ」
さすがのマリーにとってもまだ険しい道のりらしく、神妙に答える。
するとウエイティングエリアから、三人を固まらせている本人の声がまた響いてきた。
「夕陽ちゃーん、ポニ子ちゃーん、マリーちゃーん! あ、ついでにエイちゃーん!」
「俺はついでか……」
明らかに顧問とわかる稲城先生を、「ついで」呼ばわりする脳天気な大声に、会場がまたしても笑いに包まれる。
「クリーン&ジャークも頑張るから、見ててねー!」
「うん! 頑張って!」
天真爛漫なキャラクターに馴染んできた夕陽は、明るく返しつつ、亜由の両手がなぜか黄色いことを発見した。
「バナナ!?」
どうやら羽織っているジャージのポケットに入れてあったらしい。
採点制競技会のときとは正反対に、応援席に向かってバナナを振り回しながら、高校チャンピオンは楽しそうに宣言した。
「終わったら、一緒に食べようねー!」




