第二章 ファーストプル 6
次の日も、夕陽はいそいそと昼連に向かった。トモシンはまたいるだろうか。
「ああいう顔、いつもしてくれればなあ」
昨日の優しげな笑顔は印象的だった。サッカー部を主に指導しているそうだが、あんな表情でどこかの女子部を担当してあげれば、さぞかし人気が出るのではないだろうか。
「バレンタインなんて、結構チョコもらっちゃったりして」
勝手な妄想をしながらトレ室の扉をノックすると、まさに本人の声が返ってきた。
「はい。どうぞ」
「し、失礼します!」
思い浮かべていたくせに、夕陽は職員室に入るときのようにしゃちほこ張ってしまった。
「ああ、こんちは」
「こ、こんちはっす……じゃなかった、こんにちは」
しかも緊張のあまり、本人が言う前から語尾がうつる始末である。非常に恥ずかしい……。
頬の火照りを感じたまま顔を上げると、だがトモシンは笑ってくれていた。夕陽がいつもそうあって欲しいと思ったばかりの、あの笑顔だ。
「やっぱり面白いっすね、村中さんは」
「いえ、あの、トレーナーさんと話したことなんて、今までないから……」
本当は「男の子とゆっくり話したことも」とつけ加えたいところではあるが、さすがにそれは飲み込んでおく。
「トレーナーっていっても、俺は見習いみたいなもんだから」
「はあ」
「村中さんたちの方が立派っすよ。稲城先生の下で、たった三人で毎日真面目にトレーニングに取り組んでて。正直、他の部の連中にも見習って欲しいぐらいです」
「ありがとうございます。でもあたしはまだ、始めたばっかりだし」
謙遜しつつ返したところで、ようやく気がついた。
「あれ? あたしのこと、村中さんって呼びました?」
「あ、すいません。嫌でしたか?」
「ううん、全然! ていうか、その方が嬉しいです!」
ぶんぶんと首を振りまくるやたらと素直なリアクションになっているが、夕陽本人に自覚はない。
「でも、トモシン……あ、いや、友永君、どうしてあたしの名前を?」
嬉しい気持ちのまま尋ねてみると、「稲城先生から聞いてたから」と彼の顔がはにかんだような色を帯びた。
「女子ウエイト部に、鈴さんとマリーさんに続いてもう一人、スカウトするのに成功したって。しかもその子は、ずっと体操部から引き抜きたかった人材だってことも」
「へえ」
なんだか他人事のように聞こえるが、紛れもなく自分のことだ。
「それで俺、すぐに興味を持ったんです。どんな子かなって」
「え……」
特別な意味はないのだろうが、今度は夕陽が照れてしまう。
「あ、いや、その、変な意味じゃなくて! 純粋にっていうか、トレーナーとして単純にっていうか、どんなアスリートさんなのかな、って」
「わ、わかってますよ!」
おたがいにあたふたしつつも、それでかえって冷静になれた二人は、思わず顔を見合わせて笑っていた。
「すいません。なんか調子狂っちゃって。気にせずトレーニング、始めてください」
「いえ、あたしこそ。お忙しいのにごめんなさい」
揃って堅苦しく頭を下げ、また二人して笑ってしまう。
「はは、どうにもタイミング悪いっすね」
「悪いっていうか、むしろいいのかも。おたがいおんなじ行動とってるし」
「ああ、そうっすね」
すっかり緊張がほぐれた夕陽は、素直な気持ちでもう一度、ぺこりと会釈した。
「あの、今さらだけど、女子ウエイト部の村中夕陽です。あらためてですが、よろしくお願いします。それと、いつもあたしたちの道具も手入れしてくれて、本当にありがとうございます」
「こちらこそ。毎回プラットフォームやシャフトをお借りしてすみません。帰宅部だけど勝手にトレーナー修行してる友永信です。よろしく」
気持ち良く会釈を返してくれたトモシンだが、頭をかきながら「う~ん……」と唸りだした。
「ど、どうしたんですか!?」
「いや、その、なんつーか……」
どこかがかゆいのを、我慢しているような表情で続ける。
「さっきも呼んでくれたけど、トモシンでいいっすよ。それと、学年同じなんだから敬語も使わなくて大丈夫です」
「ああ。じゃあ、トモシンさんも敬語はやめてください」
「え? ああ、すみません……じゃなかった、ごめん」
ふたたびくすりと笑い合う。トレ室に入るときの緊張は、夕陽の中からすっかり消えていた。
「じゃあトモシンは、鈴やマリーのことも知ってるの?」
敬語からもすぐに切り替えられた。まるで、ずっとそうやって話してきたみたいに。
「もちろん。赤木鈴さんはスナッチが得意で気持ちを表に出す、ムードメーカータイプのウエイトリフター。で、フランス出身のマリーさん、ええっと、マリーアンヌ……」
「子門=シャルパンティエ」
「そうそう。そのマリーさんは逆に、クリーン&ジャークが得意な天才肌。でしょ?」
「うん! 凄いね、完全にわかってくれてる!」
素直に褒めただけだが、彼はまた照れた感じの微笑を浮かべている。
「これが俺たちの仕事だから。フィジカルコーチはトレ室を利用するアスリートの顔と名前とか、特徴ぐらいは覚えておかないと」
「フィジカルコーチって、トレーニングを教えるトレーナーさんのことだよね? トモシンは普段、サッカー部を見てるんでしょう?」
「うん。ただ、メインで見るのはサッカー部だけど、フィジカルトレーニングの日は週に二日だから、それ以外の空いてる曜日や時間は、ここやグラウンドで他の部にもトレーニング指導してるんだ。まあ書類上は帰宅部だから、どこにいてもいいんだけど」
今度はいたずらっぽく笑うので、「思いっきり笑うところも見てみたいなあ」と夕陽は思った。が、なぜかいつもと違い、勝手に口が動くことはなかった。
「でも村中さんも凄いよ」
「むう……」
「え? どうしたの?」
「……もう!」
今度は夕陽が唸る番だった。軽く上目遣いになり、頬も膨らませてみせる。
「あたしも、村中さん、じゃなくていいから」
「え? ああ、そっか。じゃあなんて呼べばいい?」
「えっと……」
自分で言ったくせに困ってしまった。ウエイト部の三人や友だちは「夕陽」だが、つき合っているわけでもないのに、いきなりそれを要求していいものだろうか。じゃあ「村中」? いや、名字の呼び捨てだと逆に距離が開きすぎる気がする。せっかく話せるようになったのに。そもそも先生に呼ばれているみたいで、なんだか嫌だ。「夕陽ちゃん」。却下。チャラい感じがするし、何よりトモシンのイメージにそぐわない。「村中ちゃん」。ますますチャラい。ううん……。
「夕陽さん、でいい?」
勝手に頭を悩ませていると、向こうからあっさりと無難な折衷案を提示してくれた。そういえば鈴やマリーも、名前に「さん」づけしていたっけ。
「あ、うん! それでよろしく。ありがとう」
にっこり笑うと、彼はまぶしいものでも見るような顔になっている。なんだろう、と一瞬だけ思ったが話を戻すことにした。
「で、何?」
「え?」
「あたしも凄いとか、なんとか」
「ああ、うん。この前、生まれて初めてのスナッチなのに、綺麗に上げてたから」
「生まれて初めてのスナッチ……って、ええっ!? あれ、見てたの?」
一週間ちょっと前、稲城先生に声をかけられてここに足を踏み入れた、まさに初めての日だろう。夕陽は耳まで真っ赤になってしまった。
「あのとき、せいっ! って声出しながら、すげえ綺麗なスナッチしてたよね」
穴があったら入りたい、とはこのことである。
「あ、あれは忘れて! 記憶から消去して! そういうトレーニングとかあるでしょ!」
当たり前だが、そんなものあるわけがない。
「ていうか、見てたんならどうして声かけてくれなかったのよ! フィジカルコーチなんでしょ! トレ室の番人で侍でしょう!」
「サッカー部のトレーニングが終わって、ちょうどトレ室のまわりを掃除してたんだよ。そうしたらウエイト部の人たちが、なんだか楽しそうにしてるのが窓から見えて」
少しだけ申し訳なさそうな口調になったが、トモシンの顔はまだ笑っている。
「だから、もうちょっと眺めてようと思った瞬間――」
言葉を切ったトモシンは、もう一度まぶしそうに夕陽を見た。
「夕陽さんが、跳んだんだ」
トレーナーとしてのスイッチみたいなものが入ったらしい。続けて一層楽し
そうに語り出す。
「外から見てると、本当に綺麗だった。コーディネーションもスムーズだし、強い体幹で床を力強く圧して、その反力をしっかり受け止めて。まるで羽根が生えてるみたいにこう、ふわって君が浮いたんだ」
「ど、どうも」
真っ直ぐに目を合わせられ、夕陽はどぎまぎしてしまった。マリーに抱きつかれたときとは違う、初めての感覚だ。
「せいっ! って声もはっきり聞こえて、スカートがさっと広がって真っ黒いパン――」
「ちょ、ちょっと待った!」
「?」
「……見たの?」
夢中になってあのときの光景に想いを馳せているトモシンは、だが察してくれない。
「何を?」
「だ、だから! あたしの黒い、その……」
じろりと見返してやると、ようやく理解してくれたようである。
「黒い? ……あっ! ご、ごめん! いや、パンツを見たかったわけじゃないんだ。そもそもあのときは、パンツに意識なんていってなかったし! ていうか別に俺、黒でも白でも似合ってればなんでもいいと思うし、夕陽さんのパンツだってまっさらな黒だからシンプルでいいと――」
「あれは見せパンですっ!」
これ以上おかしな台詞を口走らないうちにと、夕陽は大声でさえぎった。
「ご、ごめん!」
「まあ、制服のままスナッチしちゃった、あたしもいけないんだけど」
稲城先生もだけど、ウエイトリフティング好きの男の人って、まさかみんなパンツに縁があるのかしら。そんな思いも、トモシンの前では勝手に口から出たりしないので、とりあえず夕陽は許してあげることにした。
「……ほんと、ごめん」
彼の方はキャラクターに似合わず、完全に動揺している。こう言ってはなんだが、意外に可愛らしいリアクションだ。
「あのさ、お詫びにだけど……」
申し訳なさそうに、だがいかにも勇気を出して、という感じでトモシンがふたたび口を開く。
「お詫び?」
「いや、だからパンツ見ちゃったお詫びに――」
「言わなくていいの!」
「ご、ごめん! とにかくいろんなことのお詫びに、このあとのトレーニングで気づいた点とかあったら、アドバイスさせてもらっていいかな?」
意外な申し出だった。というか、女の子へのお詫びとしてそれはどうなのだろう。
だが夕陽の顔は、自然にほころんでいた。
この人、本当にトレーニングが好きなんだ。
「うん、いいよ! ありがとう」
実際問題としても、ウエイトを始めたばかりの夕陽にとってこれはとても助かる話だった。今週一杯は、鈴とマリーは掃除当番で昼連に来られないと言っていたし、トモシンのウエイトリフティングが上手なこともよくわかっている。
「ただし」
「?」
自分自身も、少しだけ勇気を出してみる。
「ただし、今日だけじゃなくて今週ずっと。鈴とマリーが戻るまで、お願いしていい?」
「ああ、うん。もちろん!」
「良かった! よろしくね」
もっと向けて欲しいと願っていた優しい笑顔に、夕陽も心からの笑みを返した。




