第二章 ファーストプル 5
同じ日の放課後、夕陽は意外な光景を目にしてしまった。いや、別に見てはいけないものではないが、やはりイメージにそぐわなかったのは確かだ。
「笑ってる……」
目線の先にはあの「トレ室の侍」、トモシンがいた。しかもクラスメイトらしき男子と、楽しそうに談笑している。
「じゃあな、部活がんばれよ」
「ああ。サンキュ」
「あ、おまえは部活じゃねえか。帰宅部だもんな」
「やかましいわ」
友人と憎まれ口を叩き合った彼が、軽く手を振ってからこちらに向かって歩いてくる。
「!」
反射的に夕陽は階段の陰に隠れていた。幸い「何やってんだろ、あたし……」とこぼれた言葉にも気づかれないまま、すぐそばをトモシンが通り過ぎていく。
「クワ? キョドーフシンの練習ですか、夕陽?」
「ほんと。めっちゃ怪しいよ? 何やってんの?」
「!?」
びくりと頭を上げると、踊り場のところにマリーと鈴が怪訝そうな顔で立っていた。
「大丈夫? 一緒に部活行こうと思って、呼びにきたんだけど」
「テュ・エ・マラッド? 女の子の日ですか?」
「ちょっとマリー、そういうことは全部フランス語にしなさいってば。一応うち、共学なんだから」
「ああ、パルドン。ごめんなさい」
「それ、また意味被ってない?」
相変わらず息の合った掛け合いをする二人に、夕陽は大げさに手を振ってごまかした。
「ううん、全然違うの! 全然元気! 全っ然、問題ない!」
トモシンの意外な姿を見かけたことは、なぜか喋る気になれなかった。
着替えた三人が揃ってトレ室に入ると、今日も稲城先生が待っていた。
「お、来たな。今日も張り切って上げていこう!」
女子高生に向かって、「張り切って上げていこう」などと笑顔で言ってのけるのは、日本中でこの人だけではないだろうか。しかもやたらと楽しそうに。
「イナさんは、保健体育を教えにきてるんじゃなくて、ウエイトリフティングを教えに学校にきてるからなあ」と、同僚の先生たちにも笑われているのだとか。
「じゃあ準備ができたら、さっそくアップしよう」
「はい!」
張り切って、と言われたからではないが夕陽は元気に返事をした。自分自身、今は部活が本当に楽しい。トレ室に足を踏み入れる度に新しい知識や技術が増えていくし、バーベルやプレートに触れれば触れるだけ、なんだか力もついてくるような気がする。
「ウエイトは努力のスポーツだからな。センスとか才能ももちろんあるけど、それ以上にどれだけ正しい努力をしたかが、わかりやすく報われるスポーツなんだ」
と稲城先生も言っていた。確かに野球やサッカー、そして夕陽たちも経験のある体操やバレエに比べれば、いわゆる「センス」がはっきりと現れるような対人プレイや複雑な動作は、ウエイトリフティングにはない。求められるのは、たった二種類の方法でとにかく重いバーベルを持ち上げること、ただそれだけなのだ。
「やったもん勝ち、ってわけね」
「ウイウイ。ヤッテオシマイ! です」
「……マリー、今度は誰の台詞だ」
仲間たちによるそんな会話も思い出しながら、夕陽もしっかりとストレッチをしていく。
「あれ?」
首を傾げたのはウォームアップの最後、シャフトだけでのクリーン&ジャークを終えたときだった。
自分の使っていたシャフトを、もう一度握ってみる。
「どうしたの?」
「何かプロブレマですか?」
ポニーテールと、今日は三つ編みにしている金髪を揺らして、鈴とマリーが振り向いた。
「なんか、スリーブの回りがスムーズになってる」
きょとんとする二人の前で、夕陽はもう一度クリーンをしてみた。うん、やっぱり。
バーベルシャフトは重量プレートをつける両サイドの太い部分、スリーブと呼ばれる箇所が回転するようになっている。そのお陰で、手首を返してバーベルをキャッチする動作も問題なくできるのだ。逆にもしスリーブ部分が回らなければ、バーベルの重量がダイレクトに手首にかかってしまうので、怪我にも繋がりかねない。
「昨日、このシャフトだけ回りが少し固いかなって感じたんだけど、直ってるの」
「ああ、そういえば一本だけ、ちょっと固いのがあったわね」
「ウイウイ。私も感じてました」
「でもほら、凄くスムーズになってるよ?」
夕陽はプラットフォーム上で、シャフト部分をくるくると回転させてみせた。音もなく、滑るように動く。
「ムッシュがメンテナンスしてくれたのですか?」
「ありがとうございます!」
マリーと鈴が嬉しそうに振り向いたが、稲城先生は「いや、俺じゃないぞ」と笑って首を振るだけである。
「え? 先生じゃないんですか?」
夕陽もてっきり、そうだとばかり思っていた。使う人の違和感に気づいてすぐ対応してくれるなんて、稲城先生以外にいないはずだが……。
「あっ!」
一人だけ、いた。
バーベルの違和感に気づける人。使う人のことを考えて、それを優先してくれる人。つまりは選手を最優先してくれる人。
「プレイヤーズ・ファースト!」
「え?」
「クワ?」
きょとんとする鈴とマリーとは対照的に、稲城先生だけはにやりと頷いている。
「トモシンさんが言ってたんです。プレイヤーズ・ファースト、選手が主役だって」
「ああ、そっか! トモシンがいたね、そういえば」
「マシンだけでなく、私たちのところもメンテナンスしてくれていたのですね」
二人もわかったようだ。あの無愛想な「トレ室の侍」は、おそらくプラットフォームやバーベルシャフトも綺麗に手入れしてくれているのだろう。
稲城先生が、もう一度大きく頷いた。
「そういうこと。あいつ、自分からは絶対に言わないけどな。サッカー部の朝連でウォームアップを指導したあと、トレ室にこもって毎日掃除してくれてるらしい。まあ、プラットフォームまわりについては、俺からも礼を伝えてあるから安心してくれ」
「ありがたいなあ。あたしたちも今度、お礼言っとかなきゃ」
「トレ・ジャンティ。さすがサムライですね」
「無愛想だけど、いい人だったんだ」
それぞれが感心する中、夕陽の口はまたもや勝手に動いていた。
「黙ってれば、ちょっと格好いいし」
すかさず鈴とマリー、さらには稲城先生まで食いついてくる。
「へえ? 夕陽ってああいうのがタイプなんだ? いいじゃん、いいじゃん!」
「シュペール! 恋の花が咲きますね!」
「なんだ夕陽、トモシンが好きだったのか? 確かあいつも彼女はいないはずだぞ。うちは別に恋愛禁止じゃないからな。頑張れよ」
「ち、違います! あの、見た目の外見のルックスだけの話っていうか、第一印象のファーストインプレッションっていうか、いわゆる一つのなんていうか、その……」
一気に顔が熱くなった夕陽は、両手と首を激しく振る羽目になった。ちなみに隣では、「恋愛禁止じゃない」にすかさず反応した鈴が、さり気なく稲城先生を盗み見て頬を染めている。
……ていうか、あいつ「も」ってなんですか、「も」って。
つっこみたいのは山々だが自滅しそうなのでやめておくと、逆に、しかもマリーから日本語について指摘されてしまった。
「夕陽、ジャポネがおかしいですよ」
「だ、だから、ただ単に見た目は格好いいなって印象を持っただけなの! タイプだとか一緒に登下校したいとか、お弁当作ってあげたいとか、水族館でデートしたいとか、そういうんじゃないからっ!」
ますます動揺するあまり、ボーイフレンドができたらやってみたいと妄想していることまで、自白(?)してしまう。見かねたわけではないだろうが、そこでようやく稲城先生が失笑とともに口を挟んでくれた。
「夕陽。最初に話したときから思ってたんだが……」
「な、なんですか」
「おまえ、隠し事は絶っっっ対にできないタイプだな」
「そそそ、そんなことありません! トモシンさんが格好いいっていうのだって、単なる第一印象だし、ルックスはともかく無愛想なお侍さんは――」
墓穴を掘り続ける口がやっと止まったのは、まさにその「無愛想なお侍さん」の声が聞こえたからである。
「失礼します」
「!?」
「おお、トモシン」
開け放したままの入り口に現れたのは、まぎれもなくトモシン本人だった。
「なんだ、サッカー部はもう終わりか?」
のんびりした稲城先生の問いかけに、トモシンも軽い調子で答える。
「いえ、まだ練習中です。ただ、あとはセットプレイとかの戦術練習ってことだったんで、僕はトレ室に移動させてもらいました」
心なしか、彼の顔が微笑んでいるようにも見える。先生のキャラクターがそうさせるのか、もともとのウマが合うのかはわからないが、トモシンはこの飄々とした女子ウエイトリフティング部顧問とは普通に会話するらしい。
「幸いサッカー部は今、怪我人ゼロですから。他の部の利用者が来たときの安全管理とか、ちょっとしたアドバイスもできればと思って」
「相変わらず律儀だな。プラットフォームまわりは、俺がいるから大丈夫だよ。マシンの側で何かあったら頼む」
「わかりました。練習、頑張ってください」
「ありがとう。つっても、やるのは俺じゃないんだけどな。はは」
二人のやり取りを聞きながら、自分でもよくわからないうちに夕陽の頬は膨らんでいた。
何よ……あたしのときと、ずいぶん違うじゃない。
お陰で勝手に口が動く事態は防げたが、なんだか面白くない。すると。
「ねえ、トモシン君!」
隣から、いきなり鈴が呼びかけた。夕陽が失言を繰り返している間に、落ち着きを取り戻したようだ。
「はい!?」
突然にこやかに、しかもニックネームを呼ばれたトモシンは目を丸くしている。「俺、君と友達だったっけ?」という表情だが、鈴の方はまったく気にしない様子で元気に続ける。
「シャフトとかプラットフォームも、手入れしてくれてるんでしょう? ありがとう!」
「メルシーボークー!」
「あ、いえ……」
同じく無邪気な笑顔でマリーも加わるので、さすがの「トレ室の侍」も困惑気味である。
……そりゃあ、二人とも可愛いけどさ。
自覚のないままにふたたび頬を膨らませた夕陽だが、鈴に肩を叩かれて、はっと我に返った。
「ほら、夕陽もお礼言わなきゃ」
「え? あ、うん! えっと、あの……」
けれども出てきたのは、自分でもわけのわからない台詞だった。
「い、いつもお世話になっております」
「なんだそりゃ?」
「ギョウムレンラクですか?」
「普通にお礼言えばいいのに」
仲間たちからすかさずつっこまれたうえ、トモシンも余計に固まっている。ただし今度は、笑いを堪えていただけらしい。
「ぷっ……ははは」
本当に「思わず」という形で吹き出しながら、彼は優しそうな笑顔で答えてくれた。
「やっぱ、ウエイト部は面白いっすね。確かにプラットフォームまわりもチェックさせてもらってますけど、気にしないでください。それも俺の仕事っすから」
初めて向けてくれた笑顔に見入ってしまったからだろうか、夕陽の口はまたしても勝手に動いていた。
「こっちの方がいいのに」
「え?」
「あっ! いえ、なんでもないです、はい」
はっとなってごまかしたところで、稲城先生がポンと手を叩いてみせる。
「ほらほら、おまえら。トモシンに見とれてる暇なんかないぞ。練習を続けよう!」
「はい!」
「ウイ!」
「は、はい!」
返事をしながら、夕陽はもう一度だけ彼の方へと視線を走らせた。
陽焼けした精悍な顔が、そのまま笑ってくれていた。




