第二章 ファーストプル 4
「ああ、そりゃトモシンだ。そうか。夕陽は会うの、初めてだったか」
放課後、稲城先生に例のスポーツマン君について聞くと、すぐに教えてくれた。
「トモシン?」
「友永信。おまえらと同じ二年生だよ」
「そうっすか」
「え?」
「あ、いえ、なんでもないっす……じゃなかった、なんでもないです!」
あの顔を思い浮かべただけで、語尾が「っす」になってしまった。なんでこんな置き土産を残していったんだと、ほんの数分話しただけの、その「トモシン」とやらいう男子生徒を恨みたくなってしまう。
「あ、夕陽もトモシンに会ったんだ?」
「トレ室のサムライですね」
鈴とマリーは、既に彼のことを知っているらしい。
「トレ室の侍って……」
マリーの言うニックネームは、だがなんとなくわかる気がする。ぶっきら棒な口調と職人のようなバーベル扱いは、確かに傘張り浪人のようなイメージがぴったりだ。
「トモシンさんって、いったい何部なんですか? スナッチも凄く上手だったのに、あたしが入ってったらさっさとトレーニング辞めちゃって、マシンの手入れとかしてるんですよ? 礼儀正しいんだか感じ悪いんだか、よくわかんない人でした」
ちょっぴり頬を膨らませると、稲城先生は面白そうな顔をしている。
「はは、愛想がないからな、あいつは。ちなみに夕陽は、トモシンが何部だと思う?」
「え? う~ん、わかんないですけど、体型的にサッカーとかテニスかなって思いました。あとは陸上とかかなあ」
「やっぱり最初は、みんなそう思うよね」
「ウイウイ。私たちもダマサレましたから」
鈴とマリーも楽しそうに笑っている。
「てことは、違うの?」
きょとんとしていると、先生が告げたのは意外な答えだった。
「聞いて驚け。あいつは帰宅部だ」
「はあ?」
帰宅部? 帰宅部ってつまり、特に部活をやってない生徒だよね?
「先生、冗談はやめてください。あんなにバーベルを扱い慣れてる人が、帰宅部のわけないじゃないですか。結構陽焼けしてたし」
半分真面目に抗議すると、鈴とマリーまで先生の肩を持ち出した。
「でも本当なんだよ? 夕陽」
「ウイ。おそらくはジャポンで一番、バーベルを担ぐのが上手いキタクブです」
「嘘だと思うなら本人に聞いてみれば? ああやって、昼休みに自分のトレーニングしてる日も多いみたいだよ」
「ウイウイ。セ・ブレです」
どうやら本当にトモシンは帰宅部らしい。一体どういうことだろう?
「あいつは帰宅部だけど、トレ室の番人みたいなもんだ。まず間違いなく、この学校で一番トレーニングに詳しい生徒だろうな」
「つまり、筋トレマニアか何かってことですか?」
確かに、たまにそういう男子はいる。が、それにしたってウエイトリフティングまでは覚えないだろう。ついでに言えば、日焼けしている理由もわからない。
眉間にしわを寄せるばかりの夕陽に、稲城先生はやっと教えてくれた。
「あいつは、ストレングス&コンディショニング・コーチなんだよ」
「ストレン……なんです?」
また知らない単語が出てきた。
「ストレングス&コンディショニング・コーチ。競技によっては、フィジカルコーチとかフィットネスコーチなんてよばれることもある。一般的にわかりやすいのは、フィジカルトレーナーって呼び方かな」
「つまり……トレーナーさん、ってことですか?」
「ああ。トレーナーの中でも文字通りフィジカルな部分、つまり身体能力の向上や傷害予防を指導する、トレーニングのスペシャリストだ。トレーニングの一環としてクイックリフト、つまりウエイトリフティングも必修技術になってるから、スナッチやクリーン&ジャークも上手いんだよ」
「トレーニングのスペシャリスト……」
なるほど。道理でバーベルの扱いが上手いわけだ。だからトレーニングマシンも入念にメンテナンスしていたのか。そういえばテレビやネットで、スポーツ選手がそんな人たちの指導を受けながらトレーニングしているニュースを見たことがある。
「あれ? でもうちの学校で、トレーナーさんがいる部なんてないですよね?」
当たり前だが、プロのトレーナーを置くにはそれなりの予算がかかるはずだ。小野高のような公立校の部活動が簡単に雇えるかといえば、答えは言わずもがなである。
「ていうか、トモシンさんがプロのわけないか。うちの生徒だし」
いつものように勝手に口が動いたところで、ようやく夕陽は正解に思い至った。
「あ、そっか! じゃあ、トレーナー部の人だ!」
ついさっき帰宅部だと聞いたことを既に忘れていたが、稲城先生は笑って二度、三度と頷いた。
「そういうこと。まあトレーナー部なんてないから、形式上は帰宅部のまま勝手にトレーナー修行してるんだけどな。もちろん各運動部の許可は受けてるし、俺たち教員も承知してる。トレ室にいないときは、だいたいサッカー部のフィジカルトレーニングを担当してるよ。各部であいつを争奪戦になったんだけど、沖村先生が勝ち取ったって感じかな」
「へえ」
沖村先生というのはサッカー部顧問の先生である。なんにせよ、夕陽は素直に感心させられた。つまりトモシンは修行中の、言わば「学生トレーナー」とでも呼ぶべき存在ながら、その仕事ぶりを各運動部で高く評価されているということらしい。
「トレーナーさん、だったんだ」
もう一度、トモシンの姿を思い浮かべる。引き締まった身体に日焼けした顔。スポーティなツンツン頭。ぶっきら棒だけど、てきぱきした喋りと動き。
そんな夕陽の表情を、稲城先生はますます面白そうに見つめている。
「あんな感じで愛想はないけど、悪いやつじゃないし、身体のことやトレーニングのことで何かあれば聞いてみるといい。本気でプロのトレーナーを目指してるだけあって、よく勉強してるぞ」
「はい!」
よし。明日また会えたら、頑張って話しかけてみよう。
トレーナーという存在に生まれて初めて接したこともあり、夕陽はがぜん興味が湧いてきた。
さらに翌日の昼休み。夕陽は少しだけ期待しながらトレ室へと向かった。
「あ、いた」
今日のトモシンはポロシャツに短パンという、いかにもトレーナーっぽい格好で、ストレッチエリアのマットを雑巾がけしていた。自分のトレーニングはもう終えたのだろうか。
開いたままの扉を軽くノックすると、昨日と同じく、口調こそぶっきら棒だが素早い反応での挨拶と、丁寧な会釈が飛んでくる。
「あ、こんちは」
「こんにちは。失礼します」
今回は心の準備をしていたので、夕陽も普通に返すことができた。そのまま、さり気なくプラットフォームへと向かう。
話しかけても大丈夫かな。でも、掃除中みたいだし……。
バーベルシャフトを手にしながら、またしてもこっそりと背後を窺う。
と、思いがけず目が合ってしまった。
「?」
「す、すみません! なんでもないです!」
などと言ったそばからではあるが、夕陽は思い切って続けてみた。
「あの、スナッチ、お上手なんですね」
「いや、全然っす」
「…………」
「…………」
早々に会話が終了してしまった。まずい。非常に気まずい。
「で、でも! 昨日のフォーム!」
「え?」
「えっと、昨日のスナッチのフォームが、その、超綺麗でいらっしゃいましたですよね?」
「ありがとうございます。そんなに上手くないっすけど、俺たちも一応、クイックリフトは必修技術なので」
必死だったためマリーよりおかしな日本語になってしまったが、特につっこむこともなくトモシンは冷静に答え、雑巾がけを再開する。掃除もそれこそ必修だというように。
「……ごめんなさい。お忙しいのに」
やはり邪魔をしてしまった、と夕陽がしゅんと肩を落としかけたら、意外にも返事をくれた。
「大丈夫っす。プレイヤーズ・ファーストっすから」
昨日と同じ台詞だ。あくまでも選手優先という気持ちは徹底しているらしい。マリーの言葉通り、本当に忠義心あふれる侍みたいだ。
そんな「トレ室の侍」が、手を止めたかと思うとさらに話しかけてきた。
「ウエイト部の皆さんは大丈夫でしょうけど、引き続き怪我のないように、マナーを守ってトレ室を使ってください。一部の男子部員なんかは、普段からここの使い方がなってねえ……じゃなかった、なってないので」
本当はざっくばらんな性格の人なのだろうか。自身では気づいていないのか、昨日は訂正していた一人称も、さっきは「俺たち」だった。
真っ直ぐにこちらを見たまま、トモシンが言葉を重ねる。
「トレ室は心身を鍛えるための、みんなの場所だから」
「はい」
「事故や怪我なくトレーニングして、少しでも自分の競技に活かして欲しいんです」
「はい、すみません」
何も謝る必要などないのに、つい夕陽は直立姿勢で答えてしまった。彼の口調が、少々厳しく感じたからだ。ただ――。
――気持ちはわかるけど、もっと優しく言ってくれてもいいじゃない。何よ、もう。
そう思ったときには、「ああ、いや、ウエイト部は大丈夫だろうけど」と手を振る彼より先に、口が動いていた。
「侍だか浪人だか、知らないけど」
「え?」
「!! あ、いえ、なんでもないです。はい、気をつけます」
真似するように、あたふたと手を振ってみせる。危ないところだった。
結局その後もトモシンの存在が気になり、夕陽の昼連はシャフトでのフォーム確認だけに終始してしまった。もちろん自分の責任ではあるが、メンタル面も鍛えなければ、とあらためて反省する。
そして終了後。
いつものように、「ありがとうございました」と礼をしてトレ室を出ようとすると、律儀な声と会釈がすぐに返ってきた。
「お疲れ様でした」
笑顔こそないが、先程の厳しい口調とは違うし、心を込めて言ってくれているのもわかる。つまりはどちらも、プレイヤーズ・ファーストの気持ちの表われということだろうか。
「やっぱり、お固い侍みたい」
今度は聞こえないように、扉をしばらく離れてから夕陽はつぶやいた。




