第二章 ファーストプル 3
翌日の昼休み。弁当を食べ終えた夕陽は、そそくさと教室を出た。向かう先はトレ室だ。
稲城先生によれば昼休みにも自主練していいということだったので、じつは入部翌日から、さっそくそうさせてもらっているのだった。鈴とマリーも毎日のようにやっているし、何より早く自分も力をつけて、チームの役に立ちたいという気持ちからの行動である。
先生もちらりと言っていたが、意外なことにウエイトリフティングは大会によって、学校対抗戦や団体戦もあるのだという。
団体戦はスナッチ、クリーン&ジャークそれぞれに、一位二十一点、二位十五点、三位十二点……といった具合に各階級共通で割り振られた得点の合計で競う種目で、特点対象者は各校七名まで、さらに一つの階級では二名までという風に決まっている。ただ、競技人口が少ないこともあり、フルメンバーの七名でエントリーするような学校はほとんどないので、夕陽たちのように少人数でも、全員が良い順位に入ればじゅうぶん入賞が狙える種目らしい。
「あたしも頑張って、戦力にならなくちゃ」
いつものようにひとりごちながら、夕陽は着替えるために部室へと向かった。
女子ウエイト部の部室は、稲城先生が「無理矢理に確保した」という、もとは物置の小さな部屋だった。けれども女子三人が着替えるにはそれでじゅうぶんだったし、鈴とマリーの手入れが行き届いていて、清潔で居心地良い空間になっていた。壁際にはなぜか本物の畳が一枚だけ敷いてあり、しかもアニメ雑誌が置かれているが、これはもちろんマリーのスペースである。鈴のスペースはその反対側で、小さな棚と壁にはジャージがかかったハンガーが吊るされている。
マリーと夕陽以外はおそらく気づかないだろうが、よく見るとそのジャージは、稲城先生がいつも着ているモデルと色違いのものだ。思わずにやりとすると、顔を真っ赤にしながら隣のスペースを指差して、「ほ、ほら、夕陽の場所はここだから! 教科書とかも置いといていいからね!」などと慌ててごまかしていたのが、また可愛い。
「二人とも、もうトレ室かな」
そんなやり取りを思い出しつつドアをノックした夕陽だが、中には誰もいなかった。鍵もかかったままだ。鈴もマリーも今日は昼休みの練習、通称「昼練」をやらないのだろうか。
とりあえず、もらったばかりの合鍵で扉を開けると、共用の小さなちゃぶ台にメモ用紙が置かれていた。
《夕陽へ あたしとマリーは今週、昼の掃除当番に当たっちゃったの! 昼練、つき合えなくてごめんね!》
《Pardon, 夕陽。また、ほうかごにあいましょう!》
二人とも、急いでこの書き置きを残していってくれたのだろう。漢字は苦手だといっていたマリーが、自分の名前だけは「夕陽」と、しっかり書いてくれていることも嬉しい。ちなみに彼女は希望通り鈴と同じクラス、二年D組に編入できたとのことだ。
恋人から手紙をもらったかのように笑みを浮かべていた夕陽だが、ポケットでスマートフォンが震えたのですぐに取り出した。
《夕陽、部室にいる? メモ書いたんだけど、よく考えたらキズナの方が早かった!》
鈴からのグループメッセージだった。この『キズナ』というアプリは無料でチャットや通話ができるので、今では老若男女が使うコミュニケーションツールになっている。
《でもたまには、しょうわっぽいcommunicationも、いいですね》
続けてマリーからもメッセージが届いたが、相変わらずどこでそういう知識を仕入れてくるのだろう、とまたしても笑ってしまう。
《あ、やばい、掃除始まっちゃう! というわけで、あたしたち今週はいけないから、ごめんね! 返信はいいから頑張って!》
《Au revoir, 夕陽!》
《二人ともありがとう! じゃあ、また放課後ね!》
返信はいらないといってくれたが、これくらいはさせてほしい。
既読マークがすぐについたのを確認すると、夕陽はもう一度微笑んで着替えはじめた。
「あれ?」
Tシャツとハーフパンツ姿になった夕陽は、トレ室の前まで来たところで首を傾げた。
ドン! という、明らかに高重量のバーベルを降ろすときの音が聞こえてきたからだ。
誰だろう。鈴とマリーではないはずだから、他の部の生徒だろうか。けれどもウエイトリフティングができる人なんて、そうそういないと思うが……。
「失礼します」
少し緊張しながらノックして扉を開ける。だが直後に、「わ、凄い!」と思わず手を叩く羽目になった。
トレ室にはもちろん、鈴もマリーもいなかった。代わりに男子生徒が一人、プラットフォーム上に立っていて、夕陽の入室と同時に見事なフォームのスナッチをしたところだったのである。
「あ、こんちは」
声と拍手に反応して、バーベルを降ろした男子生徒が振り返る。口調こそぶっきら棒だが、身体ごとこちらを向いて丁寧に頭も下げてくれている。
「あ……こ、こんちは」
つい鸚鵡返しの挨拶になってしまった夕陽を、顔を上げた彼は不思議そうに見つめてきた。稲城先生と同じか、あれよりも少し長いくらいのツンツン立った髪と、陽焼けした精悍な顔。そこまでマッチョではないものの、見事に引き締まった体躯は、察するにサッカー部かテニス部あたりの生徒だろうか。いずれにせよ典型的なスポーツマンといったルックスだ。
真っ直ぐ向き合う形になり、夕陽はなんだか恥ずかしくなってきた。しかもスポーツマン君は、なかなか目を逸らしてくれない。
「あ、あの……何か?」
戸惑いながら尋ねると、やはりぶっきら棒な口調で逆に訊き返された。
「ウエイト部の方っすよね?」
「あ、はい」
「トレ室、これから使いますか?」
「あ、はい」
「じゃあ、プラットフォームっすね」
「あ、はい」
またしてもどう返したものかわからず、リピート再生のようになってしまった。
だがスポーツマン君はそこまで聞くと、「わかりました」と頷いて、自分が持ち上げたばかりのバーベルから重量プレートをさっさと取り外し始めている。
「!? あ、あの、ちょっと……」
予想外の行動だった。これではなんだか、自分が来たからトレーニングを辞めさせてしまったようではないか。
「ちょ、ちょっと! すみません!」
「はい?」
少し大きな声を夕陽が出すと、ようやくもう一度振り向いてくれた。こちらを見上げる視線からは、意志の強さのようなものが感じられる。いわゆる「目力」があるというやつだ。
「なんすか?」
真っ直ぐの視線とともに、またしてもぶっきら棒な返事。
「あ、いえ、なんでもないっす」
「?」
「……じゃなかった、あの、トレーニング続けてください! あなたの方が先に使ってたんだし!」
目力に押され、しかも慌てて答えたので語尾までうつってしまった。
うわ、恥ずかし……。
思わず顔が熱くなった夕陽だが、スポーツマン君の声は冷静なままだ。
「いえ。俺……僕は技術練習としてやってただけっすから。トレーニングはあくまでもプレイヤーズ・ファーストだし」
「は?」
「プレイヤーズ・ファースト。主役はあくまでも選手ってことっす」
「そうっすか」
「え?」
「……!! い、いえ、そうですか、プレイヤーズ・ファーストですか」
またうつってしまった。頼むから、そのいかにも体育会系な語尾はやめてほしい。
いずれにせよ夕陽は、「プレイヤーズ・ファースト」という聞き慣れない単語の意味を理解することができた。主役は選手。つまり、あくまでも選手優先ということらしい。
「ん? 選手優先?」
てことは、この人って?
「あの、あなたいったい――」
尋ねようとすると、こちらより先に向こうが質問を重ねてきた。
「何キロから使いますか?」
「はい?」
「プラットフォーム。使うんすよね?」
「あ、はい」
「それともシャフトのままでいいっすか?」
「あ、はい」
「じゃあ、女子用のシャフトと入れ替えておきます」
「あ、はい」
てきぱきと確認してくるので、いつの間にかまたリピート再生の返事になってしまう。
「じゃあ僕はこのままトレ室にいるんで、なんかあったら声かけてください」
「あ、はい。ありがとうございます」
あっという間にバーベルを整理したスポーツマン君が、ふたたびぺこりと頭を下げてくる。なんとか夕陽も同じポーズを取ると、律儀なことに彼はプラットフォームにもお辞儀をしてから、そそくさとトレ室の奥へと離れていった。
「……なんか、小型の稲城先生みたい」
喋り方こそ全然違うものの、精悍なルックスとてきぱきしたバーベル扱いが、夕陽にそんな印象を抱かせた。
……っと、いけないいけない。
気を取り直し、何はともあれお言葉に甘えて、プラットフォームを使わせてもらうことにする。自分もしっかりとお辞儀をしてから、夕陽はいつものように正方形のエリアへと足を踏み入れた。
しかしどうしても、同じ空間にいるスポーツマン君の存在が気になってしまう。我慢しきれず、ストレッチしながらさり気なく背後を窺うと、なんと彼はどこからか手にした雑巾でトレーニングマシンを磨いていた。よく見ると磨くだけでなく、動作チェックのようなこともしているようだ。
プレイヤーズ・ファーストという言葉。てきぱきとした動き。そしてマシンの掃除?
「どういう人?」
彼が用意してくれたバーベルシャフトに触れながら、夕陽はもう一度首を傾げるしかなかった。




