8.レオナルド・フランドルの憂鬱
クロエ・ガーランドを初めて見たのは、いつかの社交界だった。
遠目でも確かに彼女は美しかったような記憶がある。
俺は悪い噂しか聞こえない彼女に興味は無かった。
覚えているのは、常に男達がハエの様にクロエの周りを群がっていた光景くらいだ。
昔からガーランド家とは親交を深めていたと祖父から聞いていたが、父の代では親交は皆無に等しかった。
それなのに父は突然、俺をクロエ・ガーランドと結婚するように命じた。
父は厳しく、自分の息子達にも冷たい人だ。
だから命令は絶対で、拒否なんて出来ないのは理解していた。ただ彼女との結婚を受け入れるだけだった。
俺は姉のクリスタを愛している。
彼女とは血が繋がっていない。
クリスタはルミナス家の一人娘で、両親は彼女が10歳の時に殺害された。父はクリスタを養子として迎え、俺の一つ上の姉となった。
両親殺害の事件で落ち込むクリスタを、兄のジョンと二人で励まし支えた。
多分、俺たち兄弟は初めて彼女を見た時から恋に落ちていたのだと思う。
兄もクリスタを愛しているのは知っている。
だけど兄はマリー王女の花婿候補で、周りからはほぼ決まりだろうと言われていた。
だから俺は兄の恋も実らないだろうと、内心で安堵していた。
こんな女々しい考えの自分に嫌気がさしているうちに、クロエ・ガーランドは嫁いで来た。
特に出迎える気も無かったが、兄が面白いものを見せてやるから2階のバルコニーで見てろと言われ素直に従った。
馬車からマリオ・ガーランド公爵が降り、次にクロエが現れると何やら揉めていた。
次の瞬間、公爵が娘のネックレスを引きちぎって拳を上げた。
だが彼女は何事も無かったように公爵を無視して、ただ真っ直ぐを見つめ、散らばった宝石の上を歩いた。
俺は凛としたクロエ・ガーランドの立ち振る舞いが気になって、気づいたら彼女を迎えに階段を降りていた。
兄が俺に見せたかったと言うのは、飼っている狼をクロエに襲わせる事ではないか?あの狼は兄の命令で何人もの命を喰いちぎっていた。
この胸騒ぎは予想通りで、狼のリアムは彼女に襲い掛かった。
何としてもクロエを助けなければと思うが何故か足が急に重くなり、彼女がリアムに押し倒される一部始終を見ていることしか出来なかった。
俺の妻となる人は目の前で狼に喰い殺されたのかと思った。
だが狼は彼女の飼い犬のように豹変していた。
彼女は俺の知っているクロエ・ガーランドでは無かった。
昔から自分を知っていたかのように馴れ馴れしく話し、令嬢とは思えない言動ばかりだ。
嫁いだ翌日、朝食会に乱入してきたと思えば、専属の騎士を要求し剣術を習いたいと言い出す。しかも無茶苦茶な説明で父を納得させた。父は剣術を自ら教えると言い出す。
俺たち兄弟は手合わせだけで、父から直接剣術を習った事が無いのに…。父は俺が嫉妬のような気持ちがあったのを見抜いていたかのようで、全く話を聞いてくれなかった。
父は朝食を食べ終えて、やっと俺に口を開く。
「お前達はもう書類上で夫婦になっている。だから妻の面倒は頼んだぞ。」
それだけを言って父は自室に戻って行く。俺は、クロエはその事を知っているのかと聞いても無視だった。多分、彼女は何も知らないのだろう…。
クロエがこの家に来てから、何故か俺の頭の中が彼女で埋め尽くされている。
体調を崩しているクリスタを一日中想っていたのに、いつの間にかクロエの発する言葉、行動から仕草までずっと気になって仕方がない。
そして突然、俺では無く弟のヨナスと結婚したいと言い出した時には、目の前が真っ赤になった。
この感情が何なのか言葉に出来ない。
焦り、不安、嫉妬?誰にだろう…。
“ヨナス”と言う言葉を聞いただけで、彼女のあの細い首を締め殺したい衝動に駆られた。
もう自分がわからない、彼女に優しくしたいのか、殺したいほど憎んでいるのか…。
クロエ・ガーランドと言う女なんて、俺は愛するはずが無いのに。
ああ、四六時中一緒にいる彼女の騎士も気に入らない。
次の日には父はもうクロエに剣術を教え始めた。
嬉しそうに父の後をついて行く姿は恋する少女のようだった。
でも盗み見た稽古中の彼女は、真剣な眼差しで剣を振る。
俺はずっと息が苦しい。
初めて我が家に来たクロエを見たとき、燃えるような美しい赤髪と、宝石のような紅眼は煌めいて輝いて見えた。
あの輝いて見えた姿がずっと忘れられない。俺の脳裏に今も焼き付いている。
彼女の真っ直ぐな瞳に俺は写っていない。
俺はクリスタを愛しているのに、この気持ちが何なのかわからなくて、気がつけばクロエの部屋に向かっていた。
彼女の眼を見て、何でもいいから話がしたい。
クロエに会えばこの気持ちが何なのか分かりそうな気がした。夜中だが、まだ彼女が寝ていない事を祈り部屋に向かう。
部屋の前に黒い人影が見えた。クロエが扉を開くと訪ねて来た人物の顔がわかった。
あいつはダンテ、彼女の専属の騎士だ。
クロエはダンテを慌てて部屋に入れ、バタンと扉が閉まった。クロエの部屋の前の廊下は静まりかえる。
俺はもう限界だった。
目の前が、頭の中が、夜の闇のように真っ暗に染まった。