4.そこの雄犬、お前もだっ!!
クロエの屋敷も豪華だが、フランドル家はまるでおとぎ話しに出てくるお城だ。ここはいつでも春ように花が咲き、蝶が優雅に舞って、鳥が綺麗な歌声を囀る。
対照的にガーランド家は、ヴィランが住んでいるような禍々しい雰囲気な庭だった。
あからさまな表現の差が、何だか笑えてくる。
クロエは庭に咲く花の美しさを楽しみながら歩いていた。
(本当に、おとぎ話に出てくる王子様が登場したら完璧じゃん…)
玄関ホールに入る扉まであと、数メートル程だ。
使用人が豪華な装飾を施した扉をゆっくりと開けるが、その先にはフランドル家の人は誰も居ない。
(せめて奥様だけでも居てくれたら嬉しかったな。)
期待はしていなかった。
政略結婚で夫となるレオナルド・フランドルが出迎える事は無いのはわかっている。
彼は物語の最初から最後までクロエに対して好感度は0だった。
それでも、夫人だけでもいてくれたらと淡い期待はしていた。
クロエ達の記憶でもエレナ・フランドルと言う公爵夫人は、どんな人にでも優しく接してくれる人だった。
クロエは庭先から何者かの気配を感じた。その気配は横からで、急速に迫って来る。
パッと左横を見ると、狼のような大きな犬が涎を垂らしながら突進している。
確実にこの犬は私を狙っていると確信した時、過去のクロエの記憶が過ぎる。
今、まさに襲いかかる犬に一噛み殺された記憶。
(あ、私。ここで死ぬんだ…。)
どうしてか頭の中は冷静だが、身体は強張り動かない。
使用人達が叫ぶ声は聞こえるのに…。
あっという間に目の前まで来ていた。牙をむき出しにした犬が飛びかかるのがゆっくりとスローモーションの様に見えた。
クロエでは無く美奈子の走馬灯が過ぎる。
何故か子供の頃飼っていた愛犬と父を思い出した。
美奈子が9歳の時、父とゴールデンレトリバーのキャンディーは事故で死んだ。美奈子の習い事の迎え途中で、愛犬を乗せた父の車が事故にあったのだ。
(パパ、本当は私ね、あの時……。)
奥深く閉じ込めていた辛かった記憶が蘇ると、美奈子は一筋の涙が溢れ落ちた。
大好きだった父と愛犬を思い出して胸が苦しくなった。
これから迎える死に恐怖は全く無かった。
「ごめん、パパ…キャンディー」
誰にも聞こえる事のない小さな声で呟いた。
使用人達の叫びが悲鳴に変わった。
犬はクロエを力強く地面に押し倒し、グシャリと押し潰された。
「ううううう…」
襲いかかった犬は尻尾を振り、びしゃびしゃとクロエの顔を舐めまわしている。
…どうやら敵意は無いようだ。
押し倒された時に頭を打ってしまい朦朧とするが、安堵したのか抵抗する力もなく、犬に好きなだけ舐めまわされるクロエ。
「大丈夫ですか?!離れるんだリアム!」
見上げると、そこには王子様のような美形の男が心配している。
(この人は確か「レオ様」。クロエの夫になるレオナルドだ。)
「あああ、…ううう」
大丈夫だと言いたいが、大興奮の犬が今もベロベロと舐めてまともに返答が出来ない。
「見たか?!この犬は私の娘を襲ったぞ!!誰か早く殺してしまえ!!」
クロエの父の声でハッとする美奈子。
「大変な無礼を申し訳ありません。しかし、兄の大切にしている愛犬で…。興奮しているだけで、悪意はありません、、」
レオナルドは何とか犬をクロエから引き離した。
クロエも慌てて起き上がり、
「お、お父様!私はこの通り大丈夫ですわっ!」
誰がどう見ても大丈夫では無い。
髪は乱れ、顔は犬の涎まみれで化粧は崩れている。押さえつけられた際に出来た犬の爪跡がデコルテに痛々しい傷を残した。
「クロエこれ以上怪我をしたく無かったらそこを退け。」
マリオ・ガーランドが自ら剣を抜いた。娘ごと断ち切りそうな気配だった。
レオナルドも腰に備えた剣に手を付けるが、剣を抜いて良いのか迷っている。
ここで対抗して剣を抜いたらガーランド家と確執は決定的になる。北と南の領地間の戦争にも発展するだろう。
迷いと葛藤を見透かされているような、マリオ・ガーランド公爵の不的な笑みがたまらなく不快だ。
レオナルドの苦しそうな表情を見て、クロエは咄嗟に父の前に立ちはだかった。
「お父様、ここはジャック・フランドル公爵様の領地です。剣をおしまいになって下さい!この犬を切り殺すと言うのなら、私が身を挺して守ります!」
「私の狼が大変なご無礼を致しました。躾が至らない飼い主の責任ですが、令嬢がそこまで仰っております。どうかお許しください、マリオ・ガーランド公爵様」
ただならぬ雰囲気を遮るように、長男のジョン・フランドルが登場した。
彼もまた美形で、黒い髪に、飼い犬(狼)と同じ黄色の瞳をしていた。クールな顔立ちからは、口だけで特に謝罪の念は無さそうだ。
「一体、これは何の騒ぎだ」
ジョンの後ろからまた新たな声がした。
彼は北部を統治するジャック・フランドル公爵。フランドル家の使用人たちが一同に会釈をする。
「なんか、すっごいイケおじ来た〜…」
村井田美奈子は、20代後半から渋いおじ様キャラが好物になっていた。
まさに海外の映画俳優の様な顔立ちにときめいた。思わず心の声が口に出してしまった。
「えっ?」
クロエの呟きを聞き取れたのか、訝しげな顔をするレオナルド。
しまったと焦るクロエだが、ジャック・フランドルにマリオ・ガーランドが詰め寄り言い争いになった。
マリオは既に剣を収めていたので、クロエは一安心する。
だが、両者とも言い争いに終わりが見えない。
意を決して、クロエは話に割り込んだ。
「ジャック・フランドル公爵様!お父様!どうか私のお願いを聞いては頂けませんか?」
「…願いとは、どのような事でしょうか?」
はっ、と気づいた様にジャック・フランドル公爵はクロエの方を向き返事をした。
2人は怪我をしたクロエをすっかり忘れていたのだ。
「この様に、私のデコルテは傷だらけです。こんな姿ではウエディングドレスを着れません!結婚式は最も美しい姿で迎え、一生の思い出にしたいのです。どうかこの傷が癒えるまで、結婚式は少なくても1ヶ月は先にして頂きたいです!」
「わかりました。あなたの言う通りにしましょう」
クロエの血が滲んだデコルテを見て、怪我をさせてしまったのは我々の落ち度だと思い、ジャックは了承した。
「ふん、仕方ない日を改める。帰るぞクロエ!」
舌打ちをし、苛立ちを見せるマリオ。
クロエは振り返り、次に父を見つめて言い放つ。
「お父様はお帰り下さい。私は1人でフランドル家に残り花嫁修行を致します!!私はレオナルド様の良き妻として…いいえ、フランドル家の人間となり全身全霊で支えたいのです。しっかりとこちらで学ばせて頂きますっ!」
え?と後ろにいるフランドル家の男達が驚いているのを感じるが、クロエは気にしない。
「わかりました、貴女のお好きなように。レオナルド、彼女の手当のために部屋へお連れしなさい。」
ジャックは次男のレオナルドに任せ、1人屋敷に戻った。
クロエは嬉しそうに、「手紙を書きますね〜」と言いながら父親を見送っていた。
「おい、お前の花嫁はいかれてるのか?単身で我が家にのりこんで花嫁修行だって?只者じゃないぞ」
笑いが吹き出しそうになるのを抑えて、兄のジョンはレオナルドに囁いた。
「確かに…。俺たちにしか懐かない狼が愛玩犬の様に尻尾を振ってまだ離れないんだ。飼い主なんて眼中にも無い。あの女は只者じゃない」
レオナルドは皮肉を混ぜて応えた。
「チッ、あれは解せねぇな。噛み殺すのを期待していたのに。なぁ、お前もだろ?」
「兄さん!それは言い過ぎだ」
レオナルドは兄の戯言の相手を止めて、父の言いつけ通りクロエを部屋に案内をするため歩み寄った。
「あの、、怪我が酷くなっています。部屋まで案内します。」
望まない結婚ではあるが、妻となるこの美しい女性を何と呼んで良いか困った。
「クロエです。クロエと呼んで下さい。」
「え?」
まるでクロエに頭の中を覗かれた気分だ。戸惑うレオナルドにクロエは返答を待たずに更に提案を持ちかけた。
「私も貴方をレオナルドまたはレオと呼んでも良いですか?」
「レオナルドにして下さい。愛称は馴れ馴れしいです。」
クロエに背を向け歩き出すレオナルド。
(愛想のない人だけど まあ、お互い名前呼びが出来るのは良しとしよう。)
前向きな美奈子は彼の背を追い、一緒にフランドル家の屋敷に入った。
※※※
「レオナルド、この犬、、えーと狼かな?この子はリアムと言う名前でしたっけ?」
長い廊下を何の会話もなく歩いている。
クロエから離れない狼の嬉しそうな荒い息だけが聞こえるが、沈黙が気まずく感じてレオナルドに質問する。
「ええ、そうです。リアムは兄の狼です。基本的には我々にしか懐かないのですが…どうしてかあなたは特別みたいですね。扱いも慣れて見えますが、犬を飼われているのですか?」
「はい、子供の頃に飼っていました!事故で亡くなってしまったのですが、、その、リアムが飼っていたキャンディーに似ていて…懐かしい気持ちになります。思わずキャンディーと言ってしまいそうです」
飼っていたのはゴールデンレトリバーで姿形は似ていないが、仕草や接し方が全く同じ様な気がした。
「そうですか、、リアムは気性の荒い雄なんですが…すっかりあなたの虜ですね。」
レオナルドは最初からクロエと馴れ合う気は無いと決めている。本当は会話もしたく無いのだが、兄の様に冷酷な言葉が出せない。早くこの会話が終わってしまえば良いのにと願う。
「キャンディーも雄でした」
「はい?」
予想外なクロエの応えに耳を疑い、レオナルドは笑ってしまう。
「え?キャンディーって、、雌の様な名前を付けてたんですね」
「そうなんですよー。幼い頃、父が子犬を連れて来ました。初めて会った時、私が舐めていた棒キャンディーを奪われたんです。幼い私は大泣きしたそうです。それで、その子をキャンディーと父が名づけました。」
何も考えず、美奈子は自分の懐かしい思い出をレオナルドに話した。
「嘘でしょ?!あの、マリオ・ガーランド公爵が雄犬にキャンディーと名付けたなんて…」
口を抑え、笑うのを必死に堪えるレオナルド。
しまった、私はクロエだから勘違いされたと反省するが、レオナルドの楽しそうな顔を初めて目にする。少年の様な笑顔も出来るのがわかって嬉しくなった。
「レオナルド、これは私たちだけの秘密にして下さいね」
レオナルドは少し顔を赤くして小く頷いた。
そして、目的地のクロエの部屋の前に着いた。中に通してもらうと、部屋はエレガントな装飾や家具で溢れていた。
「わぁ!素敵なお部屋ですね!」
その反応にレオナルドは少し嬉しかった。
「気に入って頂けて良かったです。あなたの好みが–」
「あなたでは無く、クロエですよ。レオナルド」
話途中に指摘してもレオナルドは気を悪くする事もなく言い直した。
「すみません、、。クロエの好みが良くわからなかったので、内装は母が気に入っていたデザイナーに任せました」
「エレナ・フランドル公爵夫人はセンスが良いのですね。後ほどご挨拶に伺っても良いでしょうか?」
花嫁修行も直々にご指導願いたい、期待を膨らませるクロエ。
その言葉に、先ほどまでの明るい顔をしたレオナルドが一瞬にして冷たい表情に変わった。
「…貴女は名家のご令嬢でありながら、我々については何も知らないのですね。」
「あの、、レオナルド、いかがなさいましたか?」
「私の母は死にました。妹のミアが3歳の時に湖で溺れ、彼女を助けようと母も湖に飛び込みましたが2人とも助かりませんでした。詳細までは知らなくても良いとは思いますが、フランドル家を名乗りたいのでしたら覚えておいて下さい。」
「嘘、、そんな事って…」
動揺を隠せない。過去のクロエ達の記憶では夫人が死んでいた事なんて一度も無い。ただならぬ不安が全身に押し寄せる。
「これは貴女の身のためを思ってお話ししますが、私にはヨナスと言う弟がいます。彼の名や、弟の存在については父の前では決して話さないで下さい。それでは、医者が参りますので私はこの辺で失礼します。」
言い終えて、レオナルドはすぐに部屋を出た。
美奈子はその場に座り込んでしまう。
状況が整理出来ない。
今まで無かった夫人の死、クロエ達の記憶にしか出てこないヨナスと言う名の弟の存在。
どうしてだろう、大切な事を思い出したいのに黒い靄がかかって思い出せない。
今になってデコルテの痛みを感じる。その場で項垂れる美奈子に狼のリアムは心配そうに、クンクンと鼻を顔に押し付けた。
「大丈夫だよ、キャンディー。私は大丈夫…。あ、リアム2人の時はキャンディーって呼んでも良いかしら?」
クゥーンと甘い声でリアムは答えた。
「ふふ、あなたはもうクロエの虜ね。優しくしてくれてありがとう」
まるで本当に飼っていたキャンディーと同じで、落ち込む美奈子の側を離れようとはしなかった。
「早くお医者さん来ないかな…」
広い部屋で狼と身を寄せてクロエはただ待っていた。
だが、医者は訪ねて来る事は無かった。
日が暮れても使用人から夕食の知らせも無い。
その日は誰もクロエを訪ねる人はいなく、夜が明けた。