6.5話 平穏な朝
※6話「そして、従者を手懐ける」の次の日の話になります。
クロエに専属の騎士が与えられた次の日、ジャック・フランドル公爵の愛馬が失踪した。朝からフランドル家は大騒ぎだった。
そんな騒がしさの中、クロエは騎士ダンテを引き連れて朝食会場に登場する。
公爵とレオナルドはいつもの席に着いていた。
クロエは彼らから不自然に離れた席に案内される。
兄のジョンはクロエの顔も見たくないので暫くはクリスタと共に居るようだ。
レオナルドは不機嫌そうに、クロエとは目も合わせないで挨拶だけは交わした。
公爵は表情には出さないが、朝から愛馬の失踪で不機嫌な雰囲気を漂わせていた。
広い部屋に、3人だけの静かな朝食の時間が始まった。カップを置く時の音すら部屋に響き渡るような、重苦しい静けさだった。
こんな息が詰まる空間でも、クロエは美味しそうに朝食を食べた。厳密に言えば、食べることに集中する事にした。
一人黙々と食べているクロエに公爵は話しかけた。
「クロエ、このあと時間が出来たので剣術の指導が出来る。君の都合がよければどうだ?」
「…ほっ、本当ですか?も、勿論お願い致します!」
食事に夢中で、突然の提案にすぐに返事が出来なかった。
でも公爵の誘いが嬉しかった。
クロエは立ち上がり、公爵の右隣の席に移動する。
「あの、あちらの席では一人で食べているような感じで寂しいのです。こちらの席に移動しても良いですか?」
その席はエレナ夫人の席だった。亡くなった後も彼女の席は残し、誰も座ることは無かった。
何も知らないクロエに、レオナルドは説明しようと口を開いたが、すぐに公爵は応えた。
「勿論だ、こちらで食べなさい。君たち、クロエの食事をここに用意してくれ。」
部屋のメイドや執事達、レオナルドも驚いた。メイドはテキパキとクロエの食事を夫人の席に移動した。
「レオナルドもこちらの席に来ませんか?三人しかいないし…。私と向かい側になりますが」
申し訳なさそうにしながらレオナルドに提案する。彼は少し考えたが、返って来た応えは素っ気なかった。
「いえ、私は自分の席で食べます。」
クロエはこれ以上レオナルドに声を掛けるのは諦めた。
すぐに食事を再開するが、クロエは公爵に話し掛ける。公爵の馬が失踪した話題を持ち出し、その馬は公爵にとってどれだけ大切にしていた愛馬だったのか訪ねている。
父が機嫌を悪くしている要因の話題だった。レオナルドは、父の反応が怖かったが、予想に反して穏やかにクロエと会話をしているのだ。
クロエは聞き上手なのか、気がつけば父は愛馬との思い出を語っている。
寡黙な父は今まであんなに話をしながら朝食を食べていただろうか…。
レオナルドは、一般的な家庭の父と娘の仲を見ているようで羨ましく思い、そして寂しさを感じた。
※※
朝食が終わり、クロエはダンテを引き連れて自室に戻った。
急遽、公爵から剣術の指導を受けられるまたと無いチャンスなのだが、一つ大問題があった。
「あちゃ〜、やっぱり私ドレスしか持って無いや」
手当たり次第持っている服をクローゼットから出し、部屋は一瞬にして散らかった。
公爵令嬢でもあるクロエには運動できる服装など元々持っていない。
すぐにでも公爵の元に行きたいのに今から動ける服を買いには行けない。
さあ、どうしたものかと考え、ふとダンテを見た。
「脱いで。」
「は?」
「今すぐ、下着以外全部脱いで私によこしなさい。」
クロエの突拍子も無い提案にダンテは驚いた。
「はぁ?嫌だよ!俺の服着るつもりか?!お前っ気は確かかよっ!」
ダンテは断固拒否する。クロエはこのやり取りすら時間の無駄に思えてイラついた。
「つべこべ言わずに男なら正々堂々と脱ぎなさいよ!」
クロエはダンテの白いシャツを剥ぎ取り、次に黒のズボンに手をかけた。
「待て待て待て待て!わかったからっ、脱ぐから!マジでやめてよ」
ダンテは泣きそうになりながらその場でズボンを脱ぎクロエに渡した。
「ありがと!じゃあ、後ろ向いてて」
ダンテの服を強奪したかのように奪い取り、クロエはその場で着替え出した。
咄嗟にダンテは後ろを向いて目を強く閉じる。
「マジでお前ぇ、意味わかんないよ。俺の服剥ぎ取ってさぁ、パンツ一枚の男の前で着替えるなんて普通じゃねぇって」
ダンテがぐちぐちと小言を漏らす間に、クロエは着替え終えた。
「終わった!こっち見てよ。どうかな?袖は長いから捲って、シャツも裾結んじゃおっかな」
ダンテは言われるがまクロエを見た。自分の服を着ている彼女は何て言ったら良いのか、男としてそそられるものがあった。
背丈は近くとも体格は男と女で差があるので、ぶかぶかな服をクロエは工夫する。ベルトの代わりお洒落なストールを巻いて、ウエストをキュッと絞る。少しオーバーサイズのシャツの裾を結び、現代らしいカジュアルなパンツスタイルに着こなした。これでダンテの服とは思わせないだろう。
「…なんか。あはは、ダンテの匂いするね」
クンクンと袖の匂いを嗅いでるクロエを見て、ダンテは急に恥ずかしくなり耳まで赤くする。
「やめろよ!臭いから嗅ぐな!」
「別にまだ午前中だし、汗の匂いとかしないけど?んじゃ、行ってくるね!あんたはもう今日は好きにしていいよ」
クロエは足早に部屋を出た。バタンと閉まるドア。
まだダンテは先ほどの自分の服の匂いを嗅いでいたクロエを思い出して恥ずかしい。
しかし、誰もいないクロエの部屋に下着姿の男が一人…。この状況に少しずつ絶望するダンテ。
「待ってよ…。こんな格好じゃ宿舎戻れないしさ、マジで誰かに見られたら俺ヤバいって。」
ダンテは一人淋しく、いつ帰ってくるかわからないご主人様の帰りを待つことにした。
※※※
「お義父様〜!お待たせ致して申し訳ございませーん」
ジャック・フランドル公爵が使う練習場に、クロエは駆け足で来た。
フランドル家の騎士達は遠くの場所で訓練をしているが、やはりこの場に公爵令嬢が居るのは異例である。
皆、クロエが気になり遠くからチラチラと覗き見ている。
「たいして待ってはいない。早速始めるが、君は大丈夫か?」
「はい!大丈夫です。ご指導何卒よろしくお願いします!」
公爵は遠回しに人が見ている。この状況でやりずらくは無いか尋ねたつもりだが、彼女は何も気にしていないようだ。キラキラと輝く彼女の瞳はとても嬉しそうだった。
公爵は剣の持ち方から構える姿勢、基本的な事から丁寧に教えた。
クロエの中に居る美奈子は9歳までフェンシングを習っていたのですんなりと教えの通りに出来た。
「君は剣を握った事があるようだね?」
初めて剣を持つ令嬢とは思えない立ち振る舞いを見て、公爵は尋ねた。
「…えと。はい、父に9歳まで剣を習っていました。」
美奈子の父にだが、今の体はクロエなので彼女の父マリオ・ガーランドに習っていた事にして答える。
しかし、公爵は無表情だが急に顔色が悪くなったように見えた。
「…マリオは君に優しかったか?」
公爵の問いが何故だが怖いと感じた。
確かにこの物語では、クロエはガーランド家の長女でありながらも不遇な扱いを受けている。
美奈子は感だが、公爵はその事を知っているような気がした。
少し息を整えてクロエは目を閉じた。クロエ達の記憶を辿る。
頭の中に映し出されたのは、誰も世話をせずに放置された赤子が1人鳴き叫き、遠くの部屋から男の叫び声が聞こえる。暗い部屋で耳障りな赤子の鳴き声を聞きながら、クロエの母アリアの肖像画を見上げている。
この記憶は決してクロエのものでは無い、誰かの記憶。
目を閉じたのはほんの一瞬だが、目の前が真っ赤に染まる嫌な体験をした。
この記憶を私に見せた事は何かを意味しているはずだ。また美奈子はクリスタにしたように知ったふりをする。
「お義父様、あの日いらっしゃりましたよね?泣いている赤子を放置していたあの部屋に…」
常に無表情な公爵が目を見開き感情を露わにした。美奈子は感が当たったと思い話しを続けた。
「これは、今まで誰にも話した事がございません。お義父様にだけ打ち明けさせてください。…ご存知の通り私を産んで母は亡くなりました。私は母の顔は肖像画でしか知りません。でも時々夢の中で母に似た女性が現れて私に何かを伝えようとするのです。」
「アリアが?……クロエ、君は何を言っているのかわかっているのか?」
もう動揺を隠せない公爵に美奈子は畳み掛ける。
「私は正常です。もし魔女と思ったならここで斬り殺しても良いです。でも、その前に答えて下さい。母アリアが教えてくれるのです、あなたはあの時部屋に居たのですか?」
公爵は観念したかのように重い口を開く。
「その通りだ。アリアの死を聞きすぐにガーランド家に向かった。生まれたばかりの君は泣いて誰も世話をしない。…私は君を、抱いてやる事もしないでその場から逃げ出した。…す、すまない。」
公爵は懺悔の様に打ち明けてくれた。
美奈子も内心ではそんなエピソードなど知らないので驚いた。
そして公爵が謝罪する事になるなんて予想もしていなかった。
ただ、クロエの母アリアの名前を出した時の、公爵の反応は誰が見てもわかりやすかった。
美奈子は記憶を見せてくれたのはアリアだと思って言ってしまったが、もしかしたら本当なのかもしれない。
「謝らないで下さい、私は大丈夫です。私も申し訳ございません、嘘をつきました。父に剣術は習っておりません。自分で見よう見まねで覚えただけです。」
「どうして、君は子供の時に剣術を身につけようとしたのだ?」
「…そうですね、強くなりたかったんです。あの家で身を守るために強くなりたかったんだと思います。」
美奈子はマリオ・ガーランドに習っていないと訂正し、クロエの環境を知った上で辻褄の合いそうな言い訳をしてみた。
公爵は何も話さなくなってしまった。
これ以上は剣術は教えてもらえそうに無いなだろう。
「正直に答えて下さりありがとうございます。私もこれからはお義父様に誠実であると誓います。さて、周りも皆わたし達が話し込んでいるのを不思議に見ています。今日はこの辺にして、また後日ご指導をよろしくお願いいたします。」
公爵は頷くだけだった。クロエはお辞儀をして立ち去った。
ジャック・フランドルは、クロエの背中を見つめている。
揺れる美しい赤い髪、背筋の良い後ろ姿から何故かアリアを思い出す。彼女もまた母のように強い女性に育ったのだろうか。
あの時、君の鳴き声は酷く耳障りで、暗く重苦しいあの部屋からすぐに出て行きたかった。
死んだアリアに一目でも良いから会わせて欲しかったが、マリオは許さなかった。
彼は誰の目にも触れさせず一人でアリアを埋葬した。
私は最後に、アリアの肖像画だけでも目に焼き付けたいとあの部屋に入った。
ゆりかごを覗くと、マリオとそっくりな赤毛の赤ん坊がいて、母譲りの赤い瞳からは絶え間なく涙が溢れていた。
私は恐る恐る赤子に手を伸ばした。君は私の指を小さな手で必死に掴んだ。
どうしてか、急に恐ろしくなった。咄嗟に手を離すと鳴き声はさらに酷くなり、私は耐えかねて外に出た。
馬を走らせ逃げるようにガーランド家の領地を離れるが、まだ耳に赤子の鳴き声が残っている。
また私は罪を犯してしまったのだろうか、あの時の様に何も出来ない自分に吐き気がした。
ジャックは心の奥底に閉まっていた記憶を次々と思い出していた。
ふと、右手の人差し指を見た。赤ん坊だったクロエに握られた感触を思い出す。まるで助けを乞うような小さな手を、私は振り解いてしまったのではないかと考えると、どうしようもなく胸が痛んだ。
※※※
次の日の朝、朝食会には公爵とレオナルド、クロエの3人だけだった。
なんと、座席はエレナ夫人の席にクロエの食事が置かれ、クロエの向かい側にレオナルドが配置されている。
レオナルドは戸惑いながらも席に着いた。ここは常に当主の座を継ぐ兄の席で、初めてこんなにも近くで父と食事をする。
昨日は何も無かったように、クロエは明るく公爵に話かける。
緊張しているレオナルドにも彼女は話を振る。
場を盛り上げたクロエのおかげで、気がつくと3人は会話を楽しみながら食事をしていた。
誰が見ても幸せな家族団欒の姿だった。この平穏な朝は数日だけ続いたのだった。
(平穏な朝・完)
※※おまけ・ダンテその後※※
練習場を後にしたクロエは自分の部屋に戻る途中でレオナルドに遭遇した。
なんとなく美奈子は昨日、夫婦だったとは知らず、レオナルドに弟と結婚したいと言ってしまった事を悔いている。彼に凄く失礼だったと思う。朝の塩対応にも気にしている。
乙女ゲームをやり尽くしている美奈子の感では、この場合は相当クロエに対して好感度は下がっているに違いない。手遅れかもしれないが、焦らずに少しずつでも好感度を上げようと挨拶をした。
「ご機嫌よう、レオナルド」
笑顔で発した言葉がこれだけなのが情けなくなった。まあ、無視されても仕方ないかと思いレオナルドの横を通り過ぎる。
彼は振り向き、クロエの手を取って止めた。
「ちょっと、これ」
「え?」
レオナルドは強引にクロエの手を引いて寄せる。思ったより彼は力強い、そして距離がとても近い。全身を舐めるように見られて怖かった。
「あなたが着てる服、男物ですよね?」
「あっ、…えと、あははは。わかりましたか?そうなんですよ〜、剣を練習する服が無くて、急遽ですがダンテから剥ぎ取りました。」
美奈子は馬鹿正直に白状した。レオナルドは少し怒っているようだが、整った顔をこんなに間近で見てしまうと緊張してしまう。
「ダンテ?…あの騎士のですか?あなた、気は確かですか?書類上でも我々は夫婦なんです。妻として品性が欠けた行為は止めて下さい!」
「ごめんなさい!不徳の致すところです。もうしません。…じゃあ、次はレオナルドの服を貸して下さい」
「え?…ちょっと、それは…」
ダンテの服を着ている事に怒りを隠せないレオナルドだが、自分の服を貸して欲しいと言われ急に固まった。
「あの、明日服を届けます。」
「嬉しい、レオナルドのですよね?」
「違いますっ!貴女用の服です!侍女達に用意させますのでっ」
レオナルドは当然のように夫の服を強請るクロエに不覚にも顔を赤くし立ち去ってしまった。
なんだか嵐のような出来事だったなと思い。クロエは改めてまた自分の部屋に向かう。
部屋に入ると、散らかした服は綺麗に整頓されていた。
「ただいま〜。って、あんたまだ居たの?」
バスルームに身を隠し、悲しそうにしているダンテが居た。
彼は万が一、夫のレオナルドが訪ねてきたらどうしよう、見つかったら確実に殺されるだろうと怯えている。もし、侍女のマリが帰ってきてこの姿を見られたら…沢山の不安で溢れていた。
「本当にすみませんでした。僕の服返して下さい。」
「ちょっと、邪魔。退いてよ。汗かいたからこれからお風呂するの」
ダンテを無視してクロエはバスタブに湯を入れた。
ずっと謝り続けるダンテが面白かったが、そろそろ解放して上げよう。
「あんたさ、二人だけなら別に良いけど人がいる前では絶対お嬢様と呼びなさいよ!」
「はい、わかりました。お嬢…さま…。」
ダンテをバスルームから追い出すとクロエは服を全部脱いだ。
バスローブ姿のクロエが出てきてダンテは咄嗟に目を伏せた。
「はい、これ。ごめんね、汗かいたから臭いかも。…なんなら私のドレス着てっても良いわよ?」
「着ねーよ!」
もう泣きそうなダンテは自分の服を奪い返した。すぐに着替えたが、確かにシャツは若干湿っているような…、クロエの花のような香りを嫌でも全身で感じてしまう。
部屋を飛びだしダンテは自分の宿舎に向かうも、ずっとクロエの香りを身に纏っているような気分だった。
次の日の朝、ダンテはいつものようにクロエと共に朝食会へ同行し、隅で待機する。
何やら視線を感じる。ふと顔を上げると次男のレオナルドが自分を睨みつけているのだ。その視線はクロエに気づかれないように毎朝ダンテに向けられている。
ダンテは楽しそうに食事をする主人を見守るが、その先に鋭い目つきのレオナルドといつも目が合う。
ダンテにとって毎日の朝食会は憂鬱な時間だった。




