18.クロエはどうしてもレオナルドを殴りたい。
時刻は午前10時頃。
クリスタの部屋の前に数人の使用人や侍女たちが待機していた。
クロエの姿を見ると、侍女達の顔色が悪くなる。
「クリスタ嬢の侍女さん達、彼女に用があるの。今すぐに呼んで下さるかしら?」
クロエは威圧するように命じた。
だが、侍女達はますます顔色を悪くし、1人が引きつった声で返答した。
「お、お嬢様はまだ眠っております。後ほどクロエ様がお越しになった事をお伝えさせて頂きます。」
クロエは侍女達の後ろに、まだ手付かずの朝食が2人分ワゴンに乗せられているのを見逃さなかった。
良く見ると使用人の男達はレオナルドに支える者達だった。
こういう時の美奈子の女の感は恐ろしく鋭い。想像している事がクリスタの部屋で行われているに違いない。湧き上がる怒りを抑えてクロエは、冷たい声で命令した。
「今すぐ起こしなさい。」
「…えっ? あ、あの…クロエ様はそれは… 」
クロエはクリスタの部屋の扉を指刺している。侍女は今にも泣き出しそうな顔になってしまい、もう埒が明かないとうんざりした溜息を吐き、そして息を吸う。
「今すぐに!この扉を、あ・け・ろって言ってんの! 何度も言わせるなっ!」
クロエは声を張り上げるその姿は、完璧な悪役令嬢の姿だった。その場に居る侍女や使用人達は怯えていた。
「お嬢様さま! ここで何をしてるんですか?」
クロエの専属騎士ダンテが慌てて駆け寄る。
ダンテを見てクロエは更に苛立った。
「ダンテ!私は部屋で待つように言ったわよね? どいつもこいつも、なんで私の言う事が聞けないのかしら。」
「お、お嬢様、どうしたんですか? すみません、なかなか戻らないから心配になって、…」
こんなにも機嫌の悪いクロエを初めて見た気がすると、ダンテもクロエの態度に萎縮する。
「もう良い、あんた達には頼まない。 ダンテ、その扉を蹴破りなさい。」
「え? お嬢様、本気で言ってるのですか?」
突拍子の無い命令に戸惑うダンテを見て、チッと舌打ちをした。
「 だーかーらー、何度も言わせんなよっ! こうやって、開けろや!!」
クロエは両手でドレスを軽く持ち上げて、右足で豪快に踏みつけるかの様に扉を蹴破った。
バッキンと内鍵が壊れて、壊れた扉が音を立てて開く。
ダンテとその場に居た使用人達は凍りついた。
クロエは蹴破った勢いで、そのままクリスタの部屋にスタスタと入ってしまった。
慌ててダンテは追った。
すぐに、クロエの後ろ姿を見つけて駆け寄る。
その先には、クリスタのベットにレオナルドが居たのだ。
「キャア! 勝手に入らないで!」
寝巻き姿のクリスタは、クロエとダンテの姿を見て叫んだ。
「ク、クロエ… これは、その 違うんだっ 」
レオナルドは、何も言わないで目の前に立つクロエに、誤解だと言わんばかりに訴えようとした。
クロエは、まるでゴミでも見るような、見下す眼差しを向ける。
レオナルドが必死に話しかけるが、クロエは反応しない。
「なんて無礼なの!レオナルド、追い出して。 もう、誰か来て!」
レオナルドはクロエに言い訳をするばかりで、クリスタは苛立ち騒ぎだすと、侍女や使用人達も部屋に入って来た。
「早く!あなた達、クロエ嬢とその男を外に出して!」
クリスタはレオナルドの使用人の男達に命令した。言われた通りに、男達は後ろからクロエに近づこうとした時だった。
クロエは急に振り向き、使用人達は萎縮した。
彼女の瞳は、憤怒を宿らせ燃えるような赤色で恐怖を感じた。
「この場に居るあなた達は私とレオナルドが婚約関係…、いいえ、もう夫婦である事はご存知よね? 私の夫の不貞を知っていても誰も何も言わないの。ああ、素晴らしいわ!フランドル家の使用人達はこれからも口が硬い事を信じているわ。」
クロエは笑みを浮かべ、使用人達に感謝を伝えた。
「クロエ!誤解だ、クリスタとは何も無いんだっ!」
レオナルドは飛び起きて、クロエの肩に手を伸ばした。
バチンと反射でレオナルドの手を叩き落とす。
「あなた、気は確かですか?書類上でも我々は夫婦なんです。夫として品性が欠けた行為は止めて下さい。 はっ、ましては近親相姦?なんて気持ちが悪い、反吐がでるわ。」
聞き覚えのあるその台詞は、レオナルドがいつかの日にクロエに言った言葉だった。
更に顔色が悪くなるレオナルドは、人目も気にせずクロエに懇願する。
「ち、違う!僕とクリスタは血が繋がってはいないし…信じられないかと思うけど、本当に君が考えてるような事は何も無いんだっ!」
久しぶりに見たレオナルドは少しやつれたような気がした。
彼の必死さの中に後悔や反省、いろんな感情が混ざっている。
でも、今述べている弁解も、あの夜の事も全てが嘘のように思えた。
一度だけ彼に抱かれたとしても、私たちは何も始まってはいないのだ。裏切られたと想うこの気持ちは私が勝手にレオナルドと心も結ばれたのかと勘違いしていたのだ。
この気持ちは美奈子が失恋した時と同じだった。自分が本命だと思っていたら浮気相手だったり、浮気されて別れるなんてもう慣れていたから何とも無い。
だが、クロエを傷つけた事に無性に腹が立ってきた。
本当はクリスタを殺しに来たのに、夫の浮気現場に乗り込むなんて…。このまま2人とも刺し殺してやろうか?と悪魔な考えも浮かんだが、目撃者が多すぎるので諦めた。
でも、クロエの為に一発は浮気夫を殴っても良いだろう。美奈子は平手打ちするつもりの手を握り拳に変えた。
レオナルドの整った顔面に狙いを定めて拳を振り上げると、使用人達が察知したのか取り押さえられてしまった。
羽交い締めされると、そのまま床に強く押さえ付けられた。
ダンテは、男達に押さえ付けられたクロエを見て怒りで剣を抜いた。
「テメェら、今すぐお嬢様からその汚ねえ手を退けろ。全員ぶっ殺すぞ!」
キャア!とクリスタの叫び声が部屋に響き渡る。
「やめろ、お前達!クロエを離せ!」
レオナルドも床に突っ伏したクロエを見て命じるが、使用人達は何故か言う事を聞かない。
クリスタは剣を抜いたクロエの騎士も捕まえろと騒ぎだす。
この騒動にジャック・フランドル公爵が現れた。
扉の近くには松葉杖をついた長男ジョンも居る。
クリスタは父を見ると直ぐ助けを乞う。
「お父様!クロエ嬢が襲いかかってきました!彼女の騎士も剣を抜いています 助けて下さい!!」
状況が良くわからない公爵だったが、床に突っ伏すクロエを見て顔色が変わった。
ダンテは、公爵が腰に備えた剣の鞘を手に置く所作を見て慌てて反論した。
「公爵様!クロエお嬢様は何もしておりません!私は使用人が我が主人に無礼な行為を働いたので剣を抜きました。」
「ダンテ・シュダール、お前の主人が床を這わされ不様な姿だと言うのに…その剣はただの飾りか?」
「はい、え…。」
公爵は鞘に収まったままの剣を手にし、クロエを押さえつけている使用人達を叩きつけるように剣を振るった。
ダンテは公爵に名を呼ばれ驚いて返事をしたが、一瞬で公爵はクロエを救出した。
「レオナルド、お前の妻に無礼な真似をする使用人は全員クビだ。」
クロエは公爵の手を借りて立ち上がるが、赤い美しい髪は乱れていた。
しかし、クロエは何も気にしない顔で、解せない顔のクリスタと戸惑うレオナルドを見ながら口を開いた。
「申し訳ございません、お義父様。私の夫がお義姉様とこのような関係であることに取り乱してしまい…。残念ですが、たった今私は離縁を決意しました。」
レオナルドとクリスタは公爵に訴えるように喋りだすが、彼は耳を貸さなかった。
公爵はクロエを見て、困った雰囲気を出した。
「クロエ、それは…」
「お義父様、わかっておりますよ。…私はクロエ・フランドルとしてこの先も生きていきたい。 でも、三大公爵の令嬢として…いいえ、1人の女として次男の不貞は許せません。だから、私を三男と結婚させて下さいな。」
「!!」
公爵は一瞬だが、目を見開く様に驚いた表情を見せた。
「また、私はお義父様の平穏を乱してしまいましたね。ごめんなさい、私は今日からまた離れのお屋敷で謹慎生活に戻りますわ。 それでは、皆様ごきげんよう。」
クロエはドレスを広げ完璧なお辞儀を披露した。何の未練もなく背を向けクリスタの部屋を出るのだ。
「おい、クロエ。なんで俺と結婚するって言わねーんだよ。」
ドアの近くで事の成り行きを見守っていたジョンは、とても不機嫌そうだった。
「あら、ジョン。もう約束を忘れたの?早く北の王にならないとね。 私、どうやら待つのは苦手みたい。」
艶やかな笑みを浮かべ、そう言い捨てるとクロエは行ってしまった。
ジョンはそんな態度のクロエが益々気に入った。
「はっ!まさかヨナスまで巻き込むのかよ。 やっぱりあの女は最高にイかれてやがる。」
※※
「どっひゃ〜 ちかれたー」
令嬢とは思えない言葉と声を出すクロエ。
自室に戻るとふかふかのベットにダイブした。ゴロゴロとベットに転がりながら美奈子は考えていた。
「あーあ、クリスタを殺せなかったなぁ〜。」
ポツリと物騒な独り言をした。誰かに聞かれてら大問題になるが、美奈子は何だかもう、どうでもいいやと投げやりな心境になっていた。
装飾された天井をぼーと眺めていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「お嬢様、俺です。入っても良いですか?」
ダンテの声だった。
クロエは寝転がりながら、部屋に入る許しを出す。 ダンテは側に行て彼女を心配した。
「お嬢、なぁ大丈夫かよ…」
2人きりになるとダンテはいつもの口調に戻ったが、少しクロエの機嫌を気にしているようだった。
クロエは寝転がりながら天井を眺め見ていたが、ギロリと目線をダンテに向けた。
「ねぇ、何であんたは私の言うことを聞かなかったの?」
部屋で待機するよう言いつけたのに、ダンテが命令を無視した事を蒸し返した。
「だから、お嬢が心配になったんだ。探しに行ったら駄目なのかよ?!」
「それは、あなたの意思よね?」
「そうだけど! なぁ、どうしたんだよ、今日はなんか様子がおかしいぞ?」
クロエはまた天井に視線を戻した。
ダンテはまた心配になり、クロエの顔を覗き込もうと近寄った。
すると、クロエは彼の手を引っ張り、ベットに引き入れた。急なことでダンテは体勢を崩しベットに倒れ込む。
すかさず、ダンテを押し倒すような格好で彼の上に乗った。
身動きが取れないダンテにクロエの顔が近づく。口紅を塗ったかのような、濡れた赤い唇がダンテの唇に触れそうになった。
クロエはゆっくりと移動し、彼の唇をわざと避けるようにして頬にキスをした。
「いい子ね。これからもあなたは自分の意思で生きなさい。 次はご主人様が床にひれ伏すような事が無いようにするのよ。」
ダンテの心臓の音がバクバクと高鳴る。
クロエに聞かれているのかもと思うと恥ずかしくなった。
だが、同時に心の中にある自分の何かが軽くなった気がした。表現が上手く出来ないがまるで魂が浄化されたような、気がつかなかった胸の支えが取れた。
「…はい。俺は、俺の意思であなたを守ると誓います。」
ダンテの頬に一筋の涙が伝う。
でも彼は涙が出たことに気がつかないで、真剣な眼差しでクロエを見つめた。
「ねえ、ダンテ。あなた泣くほど唇にキスして欲しかったとかじゃ無いよね?」
クロエは彼の涙を見て笑った。
ダンテも、自分がなぜ泣いたのかも分からず、戸惑っていた。
「さあ、別邸に行く準備をするわよ!」
クロエはいつもの笑みを取り戻し、元気に荷造りをした。
2人で運べる荷物を持って別邸に着くと、狼に破られた一階の窓ガラスは修復されていた。エントランスホールには血の跡は無いが、狼の爪痕が何箇所か残されてた。
やはり、ここに戻ると侍女マリの安否が心配になった。
暗い顔になったクロエを心配するダンテ。彼はダンスホールに人の気配を感じた。
「お嬢、奥に誰かいるぞ。」
クロエとダンテは走ってダンスホールに向かった。
そこには、優雅にカウチに寝そべり狼のキャンディーと戯れるジョンが居た。
「よお。お前ら来るのが遅せーよ、待ちくたびれたっつーの 早く踊れ。」
「何でジョンがここにいるのよ?」
「クロエ、まだ俺への奉仕が終わってねーだろ。それにお前が舞踏会で企んでる事、俺にも手伝わせろよ。」
クロエは呆れた顔をするが、まあいいかと、ジョンに言われた通り久しぶりのダンスの練習を始めた。
この別邸で3人と一匹の生活が始まり、暫くは平穏な日々が続いた。
※※
ある日、3人はクロエの部屋でいつも通りに寛いでいた。
クロエはぼーっと窓の外を眺めながらポツリと呟いた。
「なんだか、ラブみが足りないわね。」
その独り言はジョンとダンテにはしっかりと聞き取れた。
「お嬢、らぶみって何?」
ダンテがクロエに聞く。
ジョンもクロエの返答が気になり彼女を見ると、目があった。クロエはジョンをじーっと無言で見つめている。
「クロエ、なんだよ?」
ジョンはただ見つめてくるクロエを不気味に感じた。
「ジョンの髪黒くする薬貸して。私、ちょっと外に出てラブみ探しに行ってくる。」
「お嬢、だからラブみってなんだよ?」
クロエの言っている意味が理解出来なかった。
「…そうだわ、ここは令嬢物語の舞台なんだから、外に出てラブとハプニングを楽しまないと損だわ!」
(そうよ、殺伐としたクロエの世界に足りないのは甘いラブロマンスなんだ!私を殺してきた男達に囲まれ、男の選択肢が少なかったけど、外に出れば新しい出会いが見つかるかもしれない!この世界にはラブが足りないのよ!!)
「もう、新しい出会いであんな男の事は忘れてやるわ!!あはははは〜!」
クロエは高笑いしながら部屋を出て行ってしまった。
やはり、ダンテはクロエが言っている意味が全く理解出来なかった。
ただ、あれからクロエは何とも無い顔をしていたが、まだレオナルドの事を引きずっていたようだ。
「どうしよう…またお嬢が変な事を思いついたんだ…」
ダンテは、また振り回される未来しか見えなくて胃が痛くなる。
「はぁ?何で俺がいるのにラブ足りねーとか言うんだよ?!」
ジョンはクロエの言葉を理解し真面目にツッコミを入れている…。
益々、この先がどうなるのか不安で押しつぶされそうになるダンテだった。




