17.仮初の姿(後編)
私はまた自分の意思ではない行動を取っている。
黒い狼に腕を噛まれ、押し倒された。腕に鈍い痛みが走ったが、よく見ると噛まれた左腕にはバスタオルが巻かれていた。
私では無い誰かが機転を効かせたお陰で腕を深く噛まれなかった。
そして冷静に、持っているナイフで狼の脳天を突き刺す。ナイフを勢いよく引き抜くと、血と肉片のような物が吹き出した。
顔に血が飛び散っても動じないこの誰かは、殺すことに躊躇いもなくとても手慣れていた…。
腕を噛んだまま息絶えた狼を振り解くと、残りの狼達はクロエを威嚇する。
私の頭の中は混乱でいっぱいなのに、こんな状況でもクロエの身体は冷静だった。心拍が上がる事なく、目の間の狼達を一匹残らず殺すことが出来ると言う謎の自信が湧き上がる。私は頭と身体がバラバラな感覚で、誰かに操られているようだった…。
残りの狼達を殺そうと、身構えたその時だった。
破られたガラス窓から、白い毛並みの狼が勢いよく登場した。
その狼は黒い狼を躊躇なく、喉元に噛みつき喰い殺す。
口元を血の赤で染めた白い狼は、キャンディーだった。
キャンディーは、クロエの中にいる私ではない誰かに気付いているようで、私を見ると毛を逆立て威嚇した。
「…わ、私は大丈夫よ、キャンディー。あなたはジョン達を守って。」
ジョンとダンテを指さすと、残りの狼達を殲滅するため背を向けた。
私はキャンディーを危険な目にあって欲しくなかったが、マリを探せと命じられる様に部屋を飛び出した。
彼女の声がした方向を目指し長い廊下を走る。
私の中にいるもう1人のクロエが、何度も頭の中で命じるのだ。『坂神真莉』を助けろと。
私の知り合いにそんな名前の人は居ない。
マリはもしかしたら、転生者なのか?キャンディーが狼として転生したように、ここでは転生者は私だけでは無いのかもしれない。早く助け出して、彼女に確認しなければ!
「マリ!何処なのっ?!返事をして!!」
何度もマリの名を叫んだ。
玄関ホールに着いたがマリの姿は見当たらない。
血溜まりに目が止まり、よく見るとそこから血痕が続いている。追うと開かれた扉に続いていた。
外に出ようとするが、目の前は闇に包まれていて、怪しげな狼の遠吠えが聞こえる。
とても嫌な予感がして鳥肌が立った。
外は『死』の匂いが漂っている、そんな気がした…。
村井田美奈子の意思として、私は頑なに外に出る事を拒んだ。
すると、微かな声が聞こえる。
「お母さん!助けて! お母さん! 痛いよ…やめて あーちゃん 痛いよ 」
マリの声に違いないが、外から聞こえるのか頭の中で囁かれているような気もした。
彼女の声に反応するかのように、クロエの身体は外に出ようとした。
でも私は、強い意志を持って改めて拒絶した。
命令していた誰かは諦めたのか、フッと憑き物が取れたかのように身体が軽くなった。
そして、目の前の暗闇を駆け抜ける、もう1人のクロエの後ろ姿を見てしまった。
まるで亡霊のように薄く透き通っている。
そのクロエは急に立ち止まり、振り向いて私を見た。
「私は騙されたの。 もう、誰も信じちゃダメよ、クロエ。」
少し悲しそうな表情でクロエは言った。
亡霊のようなクロエは暗い森に向かい、マリを探しに走り出すと、その姿は夜の闇に溶けて消えてしまった。
「もう、幽霊とかさ 魔物みたいなのもチートだって…。 やめてよ…」
震える手で扉を閉めた。
気がつけば涙が溢れ出ていた。私は自分の命を優先し、マリを見捨てたのだ。
目を閉じると、マリの幼い笑顔が想い浮かぶ。彼女を幸せにしたいと心から願っていた。
だけど、私には自分の命を投げ出してでもマリを探しに行く事が出来ない…。
このまま悲しみと、罪悪感に浸って自分を責めたいのに、非情にもそんな時間を神様は与えてはくれない。
また手が透ける現象が起きたのだ。
急いでジャックの元に戻った。
浴室は狼達の死骸と血で汚れていた。まるで惨劇でもあったかのような、血まみれの部屋になっていた。
「2人とも大丈夫?! ジョンは無事?」
「おい、クロエ…なんで俺の心配なんかしてんだよ…お前は大丈夫そうに見えないぞ。」
ジョンの指摘する通り、クロエのドレスも血の赤に染まっていた。
ジョンとダンテは身体中が血で汚れている。
何度か噛まれたようで、腕や足から血が流れていた。
「お嬢、ここは狼だらけだ 2階の部屋に行こう!」
「ええ、ジョンを2人で支えるわよ。キャンディーも来て!」
私たちは2階の部屋に戻り、鍵を掛けた。窓ガラスは本棚や家具で塞ぎ、狼の侵入を防いだ。
部屋の廊下を複数の狼が唸り声をあげてうろついている。
時々、ドアを開けようと爪でガリガリと引っ掻く音が聞こえた。
私は手の震えが止まらなくて、2人の傷を縫えなかった。
応急処置だが、シーツを破りきつく止血するように巻いた。
マリを失ったショック、更にはジョンやダンテも死んでしまったらと想像し、私は過呼吸になっていた。
負傷しているのにジョンはとても冷静で、私を抱きしめると、背中をゆっくりとさすってくれた。
「クロエ、落ち着け、俺たちは大丈夫だから。夜が明けるのを待とう、朝がくればこの悪夢は終わりだ。」
その言葉には希望が宿っていた。
私は「そうだね」と返事をしたかったが、息が苦しい。
彼にすがるように強く抱きしめ返し、必死で呼吸が整うのを耐えた。
ジョンは私の過呼吸が治ると、ダンテにベットへ運ぶように命じた。
「ダンテ、わたし…マリを、…ああ、マリ…」
「もう話さなくていいよ。お嬢、俺たちがいるから今は休んでくれ」
どうして、ダンテはマリの事を私に訊ねないのだろう…。マリはどうなったと私に問いただして欲しかった。
悲しそうな顔をしてダンテは、ボロボロとまた溢れた私の涙を拭ってくれた。
天蓋の大きなベットに優しく寝かされた私は2人に頼んだ。
「お願い、みんなで寝よう…」
泣きすぎたせいで目が腫れ、2人の表情が良くわからなかった。
無言でジョンとダンテは私を真ん中にし、3人でベットに横たわった。
ベットの横にはキャンディーもいる。
安心感を得ると、私はどっと疲れが出たのか、気がついたら深い眠りについた。
※※
「あの、お嬢様 鼻血が… 医者を呼びましょうか?」
クリスタの侍女が、ポタポタと垂れる鼻血を見て慌てた。
クリスタは自室のベットで本を読んでいた。読んでいページに一滴血が落ち、本を汚した。彼女はその血を眺めると、興味が無くなったかのように本を閉じた。
「あっ、…大丈夫よ。 それより、またレオナルドを連れてきて」
「か、かしこまりました。只今お呼び致します。」
侍女は逃げるように部屋を出た。
自分しか居ない部屋はシーンと静かになった。誰も居ないのにクリスタは話し出す。
「どうして、あの女はまだ死んでないの? ジョンも変になっちゃったし、早く次にして。次はわたし、年下になりたい!あの女にお姉様なんてもう言われたく無いわ。」
誰に話しかけているのか、クリスタは不満を口にした。
イライラしながら袖で鼻血を拭う。
「それに、こんな事になるならもう協力しないからね!クリスタ!」
暫くすると、重い足取りでレオナルドが部屋を訪ねて来た。
彼の顔を見るとクリスタは機嫌が良くなり、少女のように嬉しそうに言った。
「レオナルド!さあ、ベットに来て。今日も私と一緒に寝ましょう」
対照的にレオナルドはとても暗い顔だった。
「なあ、クリスタ。 僕はもう結婚しているんだ、家族でも妻以外の女性と同じベットに寝るのは良くないと…思うよ。」
クリスタは和かに顔色を変えなかったが、レオナルドにもう一度言った。
「レオナルド。さあ、私のベットに来なさい。」
クリスタは両手を広げた。
抗うことも出来ずに、レオナルドは言われるがまま彼女に抱きしめられて、ベットへと入る。
ただ2人は手を繋いで眠るだけだった。クリスタは嬉しそうに満足げに眠る。
レオナルドは何度もクロエを想うのだったが、暗い靄に思考は全て消されて行く。
何に思い悩んでいるのかもわからず、ただ目を閉じて朝が来るのを願っていた。
※※※
ジョンとダンテは交代に起きて夜通し警戒していたようだ。
時折、2人から髪やおでこを撫でられたり、頬を触れられた気がする。
塞がれた窓から、微かに朝陽が差しこんだ。
もう狼の声は聞こえない、外は人の声で少し騒がしい。
朝の食事を運んで来た使用人が、異変に気づき騎士達を連れて来たのだ。
一階の無数の狼達の死骸に皆は困惑している。
「クロエ! ジョン! どこにいる?!」
公爵の珍しい大声が聞こえた。
私たちは、駆けつけた公爵たちに助けられ、本家で手当てを受けた。
暖かなスープを貰うと心がホッと落ち着いた。
昨日の悪夢のような出来事から生きぬいたと実感した。
ただ…、スープを飲むと、マリが私に作ってくれた事を思い出す。荒く切られた野菜にしょっぱさしか無かったスープだったが、マリが一生懸命に私を思って作ってくれた料理だった。
もう、泣きすぎて涙は枯れたと思ったのに、一筋の涙が頬を伝った。
「…お義父様、私の侍女マリは見つかりましたか?」
ジャック・フランドル公爵は、やつれたクロエを見て心配になった。
「残念だが。屋敷も周辺の森も捜索したが、何も手がかりが見つからなかった。」
マリはいなくなってしまった。
生きているのか、死んでしまったのかもわからない。
その後、2日ほどマリの捜索を行った。
まるで彼女の存在自体が無かったかのように、何の痕跡も見つからなかった。
私は、例えマリが死んだとしても、この目で確かめるまで生きていると信じる事にした。
もしかしたら、あの夜に見た亡霊のクロエがマリを助けたのかもしれない。
何でも良いから奇跡が起こらないだろうか?
今こうして、村井田美奈子は転生悪役令嬢になっているのだから、奇跡は起こる気がする。
だから、またマリに会えることを強く願った。
私はまだ生きている。
そして、私は死ぬ事を恐れない。
この世界を生き延びて、やるべき事がたくさんある。
過去のクロエ達はもっと辛い思いをし、死んだ事を忘れてはいけない。
たくさんの数えきれない命を弄んだ者は、大罪を償うべきなのだ。
ダンテに見つからないように、部屋の浴室で足にナイフを隠した。
部屋で待つようにとダンテに指示し、クリスタ・フランドルの部屋へと向かった。
私はもう逃げないと決めたのだ。
明確な殺意を持って、クリスタを殺す。




