クライオの夕暮れ
意識を取り戻したレリミアが見たのは、薄暗い部屋であった。レリミアはベッドに横たえられていた。手足の拘束は解かれていたが、首に大きな首輪が嵌められ鎖でベッドの脚にしっかり繋がれていた。鎖には錠が取り付けられており、レリミアの手で外すことは不可能に思われた。
「ここはどこなの……?」
窓は閉め切られていたが、隙間から僅かに光が入ることから外が夜でないことは確かだった。窓を開けたかったが、首輪の鎖はベッドの周囲を歩き回るくらいの長さしかなかった。
「そうだ、私、誘拐されたんだ……」
レリミアは呆然とベッドに座り込んだ。意識を失う前の出来事を思い出すと、恐怖と不安で頭がどうにかなりそうになった。
「よう気がついたか」
レリミアの恐怖と不安の原因であるティロが部屋に入ってきた。レリミアは何事かを言うと思ったが、咄嗟に声が出せなかった。
「ひとつだけ質問に答えてやるぜ、慎重に考えな」
レリミアは考えた。ティロ自身についてやここはどこかというわかりやすい疑問には今までの振る舞いから素直に答えてもらえそうになかった。
(私が知るべきことで……彼が教えてくれそうなこと……)
「……セドナは一体何者なの?」
セドナは半年以上前からトライト家に通いでやってきていた。主にレリミアや母のリニアの身の回りの世話をしていて、今回の旅行もレリミアの成人前に思い出作りをということで彼女が用意したものだった。
「お、頭を使ったな。あいつは通称『発起人ライラ』。リィアの今の政治体制に反対する勢力に協力して反乱を起こそうって呼びかけてるおっかない奴だ」
もうレリミアは驚かなかった。
「じゃあ、あなたもリィアに反乱を起こそうって言うの!」
「どうだろうな。その辺はよくわからない。恨みはないこともないが……それとこれとはまた別の話だ」
ティロはあくまでもリィア全体に楯突きたいわけではなく、レリミア個人に用事があるようだった。
「それにライラは最初からお前たちをどうにかしてくれるために女中として潜り込んでる。何かおかしいことはなかったか?」
「え、そんな、何かおかしかったの?」
「そうか、わからなかったか……お嬢様なんかじゃなくてただのバカだな」
レリミアはぞっとした。少なくとも、彼女が気がつく範疇で変わったことなどなかった。父は上級騎士筆頭として長期の査察旅行へ出かけているし、兄も士官学校を卒業してから所属された執行部で軍務に励み、母は婦人会の集まりに熱心に参加していたはずだ。
「あなた、私の家族に一体何をしたの!?」
「まあそのうちわかるさ。気が向いたら話してやるよ」
ティロは情報を小出しにして、レリミアを焦らしているようだった。
「そうだ、助けを呼んでも無駄だ。ここにいる連中はお前のことを誰も知らないし、お前に手を出したらろくなことにならないって言い聞かせてある。今のお前はトライト家のお嬢さんなんかじゃない、ただの小娘、いや、それ以下か?」
嘲るような物言いにレリミアは俯いた。
「しばらくせいぜい俺に飼われておくんだな」
ティロが出て行ってしばらく、レリミアはティロの消えた扉を見つめていた。
(なんなの、ティロ……私の家族に何の恨みがあるって言うの? セドナまで……一体、どうして……)
外が夜に近づいていることだけしか今のレリミアにわかることはなかった。
***
誰もいなくなった修練場でセラスはため息をついていた。
「何だったのだあれは……あれは、闘気なんてものではない。確かに殺気だった」
アルゲイオ家の長女として生まれ、兄4人に揉まれたが年齢体格差以外でセラスが剣技で負けたことはなかった。同年代の少年たちと試合をしても圧倒的な才能で他を寄せ付けたことがなかった。剣技の天才少女として名が広まる前にオルド国は破れ、兄のセイフとセラスは二人でクライオまで何とか流れ着いていた。
そして生まれて初めてと思われる完全な敗北にセラスは動揺していた。先ほどの試合を振り返り、何度考えてもティロから一瞬だけ漏れ出た濃厚な殺気に気圧されたことが敗因であると思い返すだけで何度もため息をついてしまう。
「大丈夫かセラス?」
そんなセラスの心境を気遣ってセイフが声をかける。
「大丈夫……ですよ」
「とても大丈夫そうには見えないけどな」
「だ、大丈夫と言ったら大丈夫なんです!」
努めて明るい声を出そうとするが、上ずった裏声のような不自然な声しか出なかった。
「そうか……俺にはとても落ち込んでいるように見えるが」
「うぅ……」
落ち込んでいるのは事実だった。ここにいる精鋭たちは若輩が多いとはいえ、全員がオルド国では上級騎士かそれに相当する腕前であった。その中で一番と言われていた自分がリィアからやってきた不審な亡命者に負けてしまったという事実を未だに受け入れられずにいた。
「悔しいんだろう? あそこまで完璧に負けてたらな」
図星を突かれてセラスは真っ赤になった。
「兄様だって負けたではないですか!」
「俺は別に……6歳のお前に負けた時より衝撃はないぞ。あの時は俺よりもレグ兄さんのほうが相当落ち込んでたけどな」
セイフは初めてセラスに負けた日のことを思い出した。可愛いばかりと思っていた妹があっという間に自分はおろか三番目の兄にまで勝ってしまった日は今でも夢に見るほどの悔しさであった。
「そんな昔のこと……」
「いいんだぞ、負けた時は悔しがったって」
「大丈夫ですってば」
「それよりも……お前、いいのか?」
「何がです?」
セイフがにやにや笑い始めた。
「『結婚するなら私よりも強い男でないと嫌!』と言い続けて来たが、やっとチャンスが巡ってきたな」
「な、な、な、な!」
それはセラスが幼い頃から言い続けてきたことだった。名門アルゲイオ家の娘ということで早くから彼女を手に入れようと幾多の男が群がってきたが、同年代の子供では全く相手にならなかった。オルドから逃れて6年をこのクライオの地で過ごしてきたが、その間に誰よりも強くなってしまったセラスはますます「私よりも強い男」にこだわっていた。
「いいか……いい加減現実を見ろ。お前より強い奴なんか滅多にいないし、いたとしてもあんな感じの不審者だ。そろそろそんなバカみたいな理想は捨てろ」
「何ですか……いいじゃないですか、夢くらい」
セラスの夢の中では長身で屈強でかっこいい剣士が死闘の末にセラスを負かし、「君を守るために鍛錬を重ねてきたんだ」と手を差し伸べていた。その手を「はい、私もあなたを守るため、共に鍛錬を重ねて参りましょう」と握り返すというストーリーが幾度となく繰り返されていた。
「夢で現実は変えられない。少なくともオルドがなくなってなくてもお前はオルドの最強クラスの剣士だ。お前の相手になるのは達人クラスの爺さんたちだって言ってるだろ」
しかし現実では屈強どころか小柄でリィアから亡命してきたというが少女を誘拐してきた不審者に一方的に打ちのめされた挙げ句、「まだまだこんなもんじゃないぜ」と底の知れない剣技の闇に叩き落とされていた。
「でも、あれは……」
「あれはな……俺の感覚だと剣の腕に関しては化け物だ。案内する道中少し話してきたが、中身もろくなもんじゃないぞ。ダメだ、俺の中で何かがあいつは危険だと告げている」
「それでは本当に危険な奴なのか確かめればいいじゃないですか」
セラスは立ち上がると修練場から出て行こうとした。
「何言ってんだセラス、いざというときお前よりも強い男相手に!」
セイフが声をかけると、セラスは大仰な動きで振り返った。
「そのときは遠慮なく追い出してください、逃げ込んでるあの人の方が今は私たちより立場が下なんですから」
「そ、そうなんだが……」
セラスはさっさとどこかへ行ってしまった。言い出してはこの娘は言うことを聞かない、とセイフはため息をついた。